オレの家に来た彼女は心なしか足取りがふらふらしている。普段はこんなに唐突に家に訪れることもないし、それが珍しく連絡もなしにおしかけてきたかと思えば、何も話さず掠れた咳をずっとしている。
。風邪、ひいたんだね」
ん、と体育座りした膝の隙間から顔を上げた彼女の目は潤んでいる。そんなことない、と強がることすらしないところから見ると、珍しく身体に堪えているようだ。近づいて、否応なく額に手を当てる。彼女は驚いて手を挙げたが(多分、オレの手を止めようと)、その手はオレの手を掴んだまま止まった。その逆の手で自分の額を触ってみて、確信。
「熱、あるね」
手を当てた額から、掴まれた手のひらから、わずかに高い体温が伝わってくる。眉尻を下げて苦笑すると、彼女は今まで閉ざしていた口を開いて、しかし発されるはずだった言葉は乾いた咳に打ち消された。こほんこほん、と咳き込む。なかなかやまない咳にまた苦笑して、落ち着くまで背中をさすった。咳が治まった頃合いを見計らって立ち上がる。彼女ははっと顔を上げてなにかを目で訴えていたけれど、敢えて気付かないふりをした。水と、濡らしたタオルを持ってリビングに戻ると彼女は体勢すら変えることなくそこにいる。先ほどより肩で息をしているのは多分気のせいではない。彼女のことだ、きっと今までやせ我慢でもしていたに違いない。
「ほら、立てる? 寝室まで行こう」
柔らかく、有無を言わせない声音には顔を上げた。差し出された手に手を重ねて立ち上がる。ふらつく足元をうまく支えながら、蔵馬は彼女を寝室まで運ぶ。自分のベッドに寝かせた彼女の枕元に水を置いた。
「君のことだから、何も食べてないんでしょ? おかゆでも、」「やだ」
作るから、そう言いかけた言葉は途中で行き場を失った。今日、今まで一言も話さなかった彼女からの一言。熱によって潤んだ目はこちらを見上げていて、いつの間にか服の裾は握られている。
 今までの経験上、こうなった彼女が何を意味しているかくらいわかっている。甘えるのが下手な彼女がたまに見せる、きっと他人は知らないであろう彼女の一面。強がりな彼女が弱音を吐くことは稀で、それでも自分でどうしようもなくなったとき。そういうときはこうやって、押しかけてきたり、服の裾を握ったり、何も話さないのにオレの傍から離れなかったり。最初こそは戸惑ったが、彼女を知るにつれてそれは段々と愛おしくなってきて、不器用な彼女の精一杯の甘えが自分にだけ(だと思いたい)に向けられている事が、この上もなく嬉しい。──今日はおおかた風邪でもひいて心細くなったのだ。服の裾を引かれるまま、その手の近くに腰掛ける。寝転がった所為で広がってしまった彼女の髪を梳いて整えた。
「甘えたければ素直に言えばいいのに」
少し笑って、意地悪をひとつ。その言葉にはふいっと顔を逸らした。今度はしっかりと蔵馬の手を握ったまま。その愛らしい仕草にまたくすくすと笑う。
 どうせ手を握ったままなら、と彼女の隣に徐に横になって、枕元によけていたタオルを彼女の額に乗せる。それは軽く目元まで被さって、の視界を上半分だけ奪った。熱い彼女の頰にひとつだけいたわりの唇を落とす。
「寝るまでこうしててあげるから、暑苦しくなる前に早く眠りな」
こんな事を思うのは不謹慎かもしれないが、弱っている彼女はいつもより従順で可愛らしい。
「……ありがとう」
抱き寄せれば、消え入りそうな声でそう呟いたかと思うと、すぐに緩やかな寝息が聞こえ始めた。彼女がオレに回している腕の所為で身体が密着していて、体感温度が徐々に上がっていくのが分かる。もう少し頻繁にこうやって甘えてくれたらいいのに、と苦笑しながら蔵馬はもう一度を抱き寄せた。少し暑いこの熱すらも、今は心地良い。

2011.09.27