視界の端、折紙先輩を確認。
 始業のチャイムが鳴る。貼りだされた今日一日のトレーニングメニューを見ていると、こちらに向かってくる影がひとつ。
「おはよう、ちゃん」
その声に飛び跳ねる心臓を無理やり抑えつける。視界の上方、端に揺れるは触りたくなる程に柔らかそうな金色の綺麗な髪。
「お、おはようございます、先輩!」
その姿と、朝一番に聞けた想い人の声に只でさえはしゃいでしまいそうになる。毎朝のようにそれをぐっとこらえていれば、もちろん彼の顔を直接見ることなど到底できなかった。彼の顔だけが好きだというわけは決してないけれど、その姿かたちだって格好良くきらめいて見えて、それもまた好きなことにはかわりない。きっと顔を上げでもしようものなら、赤面して今以上に取り乱してしまう未来が見えている。大和撫子、大和撫子、と先輩の理想の女性(だと思われる)を思い描きながら、必死に平静を保つ。挨拶以上に会話を続けているわけではないのに、それでもふとした瞬間にボロが出てしまいそうで、隣で同じようにトレーニングメニューを確認する先輩を横目に今日も足早にその場を去った。
 毎日、毎日そう。そうやって朝、一言交わすだけ。でもたとえそれだけでも飛び上がれそうなほどに嬉しい。声を聞けるだけで、姿を視認できるだけでいいのだ(とでも言い聞かせておかないと、ほんとうは触れたくてたまらないのを抑える自信がない)。わたしと先輩がトレーニングをする場所は、幸運にも互いの姿が見えやすいところにあって、それを良いことに、今までどれだけ先輩を見つめていただろう。勿論、先輩がこちらを向けば反射的に目を反らしてしまうのだけれど。
今日もトレーニングをしながら、その彼のスペースを盗み見る。しかし肝心の先輩は朝見かけて以来ずっと姿が見えない。今日はきっと外での仕事があるんだろう。ちょっと残念だけれど、そればかりは仕方がない。すべてのメニューをやり終えてシャワーも浴びれば、いつだっていい時間だ。緊急出動もかからないようだし、平和に今日一日も終えることができる。お疲れさまでしたー、と、少々間の抜けた声で挨拶をしてトレーニングルームを出た。まだ中にいた面々が、まばらに声をかけてくれる。帰る前に先輩を一目見たかったなー、などと呑気なことを考えながらエレベーターの前まで来ると、ボタンを押す前から、ちん、と音を立てて扉が開いた。
「わっ」
そう発せられた相手の声は、たった今思っていた人だ。咄嗟に出てこない言葉が気まずくて、降りてきた私服の先輩と入れ違うようにエレベーターに乗り込む。
「あ、あの!」
否、乗り込もうとした。しかしそれは彼の手がわたしの腕を掴んだことによって阻まれた。エレベーターの扉が目の前で閉まる。
「……はい、なにか?」
頭上から聞こえる声。普段からするとあり得ないような近い距離に気がつくと、一気に顔に熱が集まるのがわかる。掴まれた腕も異様に熱い。恐る恐る顔をあげてみると、紫色の瞳は逸らされていて、白い頬が少しだけ桃色になっている。
「あの……」
だんだんと先輩の目線が下がる。そろそろわたしもつくった自分が崩れそうだというときに、ふと腕を離されてその手は彼のジャケットのポケットを探った。
「これ、スポンサーの方にもらったんですけど」
差し出されたのは最近ここの近くで開店した日本食の料亭の優待チケット。
「二枚あって、その、いっしょに行きませんか。も、もちろん無理にとは言わないのですが」
「えっ、そ、れって、でーと……」
口をついて出てきた言葉を自分で言った癖に、理解するのにしばらく時間を要した。でーと、デート、デー……っ!? 一瞬でよぎった言葉を頭の中で払いのける。勘違い、勘違いだろうきっと。そう言ってくれないと、わたしは。
「そう、ですね」
そんな心中とは裏腹に、イワンは紫の瞳を黒い瞳に合わせながらあっさりと頷いた。
「そ、れは、わたしでいいんですか? もっと、素敵なひとが、ほかに」
そう、たとえばカリーナちゃんとか。ホアンちゃんとか。よくいっしょにいるじゃない。誘われて嬉しいくせに、せっかくのチャンスを無駄にするような、可愛くないことを考えているな、と思った時にはそれがもう口をついて出ていた。
「……僕みたいなのに誘われるのは不服かとは思いますが。僕は、あなたがいちばん素敵だと思います」
告げられた言葉にいつの間にか俯いていた顔をあげる。綺麗な紫色は迷うことなくわたしを見ていた。
「っ……! あ、ありがとうございます」
社交辞令かもわからない、たったそれだけに心臓がうるさくなる。差し出されていたチケットにおずおずと手を伸ばす。
「わ、わたしも、折紙先輩がいちばん素敵だと思います」
自分が今言える最良の言葉を選んだ。のだけれど、告白じみた言葉にすぐに心臓の音が自分のせいでぶり返す。なんてことを言ってしまったんだろう! と思ったけれど、さっと朱が差した先輩の頬につい期待に傾く心を止めることができなかった。

(初々しいわね、可愛いわ)
(そこでキスのひとつくらい! がんばれ折紙!)
(おじさん少し黙っててください)
(そうよおじさん、見てるのばれちゃったらどうするの)
(ボクあんな可愛い初めて見た)
(若えな、あいつら)
(恋はいいね! そして、素晴らしい!)
(いやあ、チケットを貰った甲斐があったね)
(((((ヘリペリデス社長!?)))))
お互いしか見えていない二人には、覗き見隊が居たことなど知る由もない。

2011.09.04

しらりさまリクエストでした。
デートに行くまで、ということで、こんな風になりました。
ご期待に添えられていれば幸いです。
それでは、リクエスト有り難うございました!