室内の装飾のひとつとしてでしか置かれていない鏡台には、椅子が備え付けられていなかった。シャワーを浴びた後のタオル一枚の姿のまま、鏡に近いベッドの端にふたりは座る。当然のようにKKはを自らの脚の間に座らせた。濡れた髪をタオルで丁寧に拭っていく。普段、というより、他の客はこんなこともせず即ベッドに入るのだが、この人はこういうやりとりがお好きらしい。別に抵抗もなければ、お金を払ってくれているので好きなようにさせている。も、髪を弄られるのは好きな方だった。暫くそのままKKに身を寄せていると、ふいに、彼は手を止めてにタオルを預けた。
「やっぱ、風呂上がりの女の髪は、いいな」
唐突にそう言うと、おもむろに後ろの方の髪を一束とり軽く口付ける。
「知ってるか、髪にキスするのは、思慕の情の証だって」
「あら、それはありがたいですね」
「やけに他人事だな」
「まあ、情を持ってはいけない世界ですので」
あっけらかんと答えたにKKは屈することもなく受け流す。こういう態度は逆に困るのだ、とはいつも思う。どうせなら突き放すか、入れ込んでしまえばいいのに。前者なら軽くあしらうだけですむし、後者ならもれな自らの財布が潤う。ほうっとそんなことを考えていると後ろから髪を引っ張られて思考が引き戻された。
「何考えてる」
彼は限りなく感情を制限した人であるが、少し拗ねた声音をしているのがなんとなくわかる。自らの影になっていて、鏡越しでも表情はよく見ることができない。
「あ、いえ、どうせなら、お付き合いなさっている方にでもされればいいのに、と思いまして」
は一文字たりとも考えていなかったことを口にする。こういう風に取り繕えるようになったのは、この仕事のお陰だと言っても過言ではない。与えられた問に客の喜ぶ言葉を返すことが、自らの利益に繋がる。取り繕いはしたものの、彼以外にこんな事を言ったら客を逃しかねないということはわかっている。KKは普段の発言に対してあまり深く考えていないのか、こういうことを言っても大して気に留める様子もない。ましてやこういう態度の方が気に入っているように感じられるのは思い過ごしなのだろうか。
「そんなやついねえよ」
「そうですか」
毎回来るたびに必ず薬指に指輪をしているのを知っているがそれには深くつっこまない。余計なプライベートには口を出さないのがベターだ。
「それはでも、」
は一度そこで言葉を句切って、話を少し前に戻す。鏡越しにKKの顔を伺うと、ん? と返事が返ってきた。
「男の人はそうすればいいですけれど、女の人はそういう訳にはいきませんよね。だって男の人で髪の長い方なんてそうそういませんから。……貴方然り」
そう言いつつは腕を伸ばしてKKの濡れた髪を一撫でした。この人の髪は柔らかくて触り心地がよい。
 いきなり話が戻ったために一瞬の間を置いて、ああ、と返事がある。
「そうかもな。でもまあお前は快く、触られていればいいんじゃないか?」
彼はそう言うなりまた髪に口づけを落とした。これすらも商売道具だとは思うものの、どうにも自分の髪に嫉妬してしまいそうな感情に気がつく。
「商売女にそのようなことをなさるのは勿体ないですよ」
あまりにも恭しく唇を寄せるので、思わずそう呟いた。
「……お前、他の客にもこんな態度なの?」
「愚問ですね、他のお客様にはもっと営業スマイルです」
「そうだよな」
「KKさんの前ではあまり作らない方がいい気がして。嫌ならば他のお客様と同じように接待致しますが」
「いや、いい。が、それも定型句か?」
「ご想像におまかせします」
にっこりと笑うとKKは面白くなさそうにを抱きかかえてそのままベッドに寝転がった。私の言葉は客を乗せるための口上のようにでも聞こえたのだろうか。さすがにそんなつもりはなかったのだけれど、と少し困惑する。確かに、商売女の言葉などほとんど信じられないだろう。というよりかは、基本、信じない方が身のためである。だがそれよりも信じられないことは、自分が一人の客の、今のたった一言に対して悲しみを感じたことであった。恐らく他の客が同じ事を言おうとも、まったく気にもかけないだろうに。この客と他の客のどこが違うのか、にはまだ理解しきれていない。
 はだけたタオルはもうじき意味をなさなくなるだろう。それはKKとが、まだ客と提供者の関係である証拠だ。そして、決して越えてはならない一線の証明でもある。KKに抱き寄せられ、は珍しく自ら客の背中に自分の腕をまわした。

2011.07.08

(髪:思慕)