電話。
待っていたような、そうでないような。出たいような、出たくないような。イワンからなのか、それとも。
バイブが鳴って、着信音が鳴るまでのほんの数秒で色々なことが頭を駆け巡る。鳴り出した着信音は知らない番号を知らせるものだった。異常な早さで打つ鼓動を抑えつけ、震える手で電話を取る。悠長に鳴っている着信音は余計にを焦らせた。
電話に出る自分の声は震えている。気付かないふりをして自分を騙そうとしているが、今日かかってくる電話には心当たりしかないのだ。知らない電話番号なんて、その最たる例だった。電話の向こう側の緊迫した空気に息が詰まる。予想通りの言葉とその知らない声に腰が抜けた。電話を切って、その場に蹲る。動きたくない。見たくない。目の前にしたくない。しかし縁起でもないけれども、もし何かが起こった時に、彼の近くにいられないことはもっと嫌だ。大きく息を吸って立ち上がる。平静な表情の仮面を被るように、いつもより濃い化粧を手早くすませて病院へ向かう。病院に着いて彼に会っても、身体の震えは止まらなかった。
「行ってらっしゃい、気をつけて」
「……行ってきます」
いつもよりかなり強ばった表情をしている彼にこれ以上余計な不安を煽らないようにと、あの日は精一杯の笑顔でイワンを送り出した。その凛々しい姿を見送ったのはつい一昨日のはずだったのに。今目の前にいる彼は傷だらけで、薄い呼吸を繰り返している。
ベッドの傍まで駆け寄ってしゃがみこむ。触れて良いのかも分からずに、ただただ彼の顔を見つめた。髪と同じ色素の薄い長い睫毛は開く気配がない。言葉を失った私に、担当医は一脚の椅子と膝掛けを置いて病室から出て行った。
恐る恐るイワンの手を握る。その手のいつもより少し高い体温に不安を煽られる。そこまで重傷ではない(しかし大事がないとは言い難い)というようなまどろっこしい言を医者は放った。病室の中はただ白く、無機質で、私たち以外には何もなくて、規則正しい電子音が響いているだけである。この真っ白い部屋は、私の気力をも奪っていくようで、このままイワンが目を覚まさなかったら、などという縁起の悪い妄想だけが膨らんでいく。それと同時に今度は彼と出会ったばかりの頃を思い出して、順々に記憶が繰り広げられる。あの時ああしていれば、あれを言わなければ、など、今の心境と相まってか考えつくことは消極的なことで後悔ばかりが渦巻いていく。
じわり、と目頭が熱くなった。その感触にはっとして、必死にそれを押し戻そうとする。泣いてはいけない。あの時、イワンが帰ってくるまで、彼を困らせないように、何があっても絶対に泣かないと決めたのだ。もし今彼が起きたら、自分の身体なんて気にも留めないで、私の涙に眉根を寄せるのがわかりきっている。平静につくった顔の化粧が乱れないように、だから私は泣いてはいけない。じわりと滲んでくるを目頭を指で押さえながら、ただひたすらにそう思った。
彼を不安にさせないように。私が彼の重荷になってしまわないように。私はこんな時もきちんと彼を信じて、強くあるべきだ。
唇をかみしめて堪える。指先に滴った涙ごと、イワンの手を強く握りしめた。
どのくらい経っただろうか。うっすらと目を開けると、彼の腕に覆い被さるようにベッドに俯せていた。途中から記憶が曖昧に、いつのまにか眠ってしまっていたようだ。ゆっくりと身体を起こす。鼻の奥が熱い。ぼろぼろと頬を伝っている涙は、結局寝ている間に泣いていたことを物語っている。手の甲で自分の頬を拭って、その手はまた自然と彼の手に戻る。一回手を離すまでは気付かなかったが、握りしめていた彼の掌は少し汗をかいていた。
彼が起きる気配はまだない。しかし規則的な電子音と、小さな呼吸音はきちんと続いている。寝て、起きたら、イワンは起きていると思っていた。どこかのドラマや通俗な小説のように。それはとても勝手な想像であって妄想とすら呼べるものなのに。意志のない彼の、握りしめられた手をそっと開く。湿った手をやわやわと揉みながら、今度は眠っている彼の身体に俯せた。早く、私のところに帰ってきて。冷たい布団越しの彼の腹は、それでもあたたかく上下している。
小さく呻く声が聞こえる。それは聞き違えようもない、愛しくて自分が一番守りたかった人の声だ。うっすらと目を開けると彼女は自分の身体の上に俯せて眠っていた。彼女を起こさないように、ゆっくりと肘をついて身体を起こす。それにも気付かずには寝付いている。何日ここに張りつめたんだろう。何日自分は眠っていただろう。あの戦いはどうなっただろう。に握りしめられている右手は温かくて少し湿っている。包帯を巻かれた逆の手を握ったり閉じたりしながら、ああ、生きてるんだな、とぼんやりと思った。目元の化粧の滲んだ彼女の顔が見える。結局、自分は、この一番愛しい人を守ることができたのだろうか。左手を彼女の頭の上にやって、ぽんぽん、と軽く撫でてみる。今はもう流れていない涙の跡を拭った。愛しい人を悲しませてしまう自分が非力で悔しい。イワンは唇を噛みしめるとまたばたん、とベッドに横になった。
2011.07.15
(腹:回帰)
それだけ愛されている、と考えつかないのがイワンくん