玄関のインターホンを鳴らす。この売れっ子漫画家(変人)は絶対に在宅しているのに、家の中は物音ひとつしない。しかし先生の場合これは居留守ではなくて、ただ単に聞こえていないだけだということくらい、この数ヶ月で私は学習している。
「露伴せんせー! 入りますからねー!」
と、普段なら大声を出して玄関を突破するのだけれども、それは不発に終ってしまった。大きく吸い込んだ、冷えた空気が乾いた喉を刺激する。しばらく止まない咳に涙目になりながら、私とは裏腹にまるで静かな玄関を開けた。

 いつからだか私が来る日には、玄関の鍵が開いているようになった。たまに予告なしで来ると自らしぶしぶ開けにくるところを見ると、日常的に鍵が開いているわけではないようなのである。
「せんせー? 原稿もらいに来ました」
どうせ返事がないことなどわかってはいるが、声をかけてしまうのが恒例になっている。先ほどの咳で水分を失った喉からは乾いた声が出た。勝手知ったるなんとやら、迷わず仕事場の扉を開けると案の定いつもの机に向かう背中が見える。もう冬も半ばだというのに部屋は暖められていない。きっと私がもらいに来た原稿は既にできあがっているのだろうけれど、何かを描いているというのならそれを描き終わるまで待つしかなかった。
 先生の背中を見ながら近くにある椅子に座る。鞄から手帳を取り出して仕事の確認をしようと開いてみたものの、しばらく眺めても、それは眺めるだけで頭には入らなかった。どうにも集中ができない。寒いからかしら、と思うものの、気づくとそんなに寒くはないような気もする。顔を上げると、今度は声を出してもいないのに咳が出た。先生にはどうせ聞こえてはいないとは思うが、とりあえず咳の音を静めようとハンカチを取り出す。荒い息はハンカチに集まり、顔に触れる。
 熱い、これは、

「風邪を持ち込むな。僕が風邪ひいたらどうする」
「あ、すみません……」
風邪だと自覚した途端に、前方の背中から鋭く声が飛んだ。その鋭い指摘に、編集者としての自覚が足りないと少ししゅんとなる。
「だいたいそうなるまで風邪にすら気づかないなんて」
露伴先生はまだちくちくと耳にも心にも痛いことを言っている。普段なら強気に言い返すところも、風邪だと悟った途端に怠くなってしまった身体では、まともに取り繕うことも適わない。「すみません、原稿もらったらすぐ帰りますから。あはは」などと誤摩化すものの、乾いた咳が幾度か喉を擦った。声をかけてはきたものの、依然机に向かっているし、作業中の先生を邪魔するのはよくない、と、咳をハンカチで押さえ込んでいると、ぱたん、と、今まで膝の上に乗せていた手帳が床に落ちた。
「ああもう、五月蠅いな」
「……ごめんなさい」
その音にとうとう先生が机から離れる。つかつかとこちらに歩いてくるかと思えば、腕を掴まれて部屋から連れ出された。因みに手帳はちゃっかりと先生の手の中に回収されている。
 ……階段を降りていくところを見ると、このまま追い出されるのだろうか? この人ならやりかねない。結構粘り強くついてきた方だと思ったけれど、やっぱり先生の担当から外されるかもなあ、とぼんやりと思った。

「君に渡す原稿がまだ描き終わっていない」

階段を降りきったところで、振り向きもせず先生はそう言った。そんなこと、と思う間もなく、玄関を前にして右に曲がる。奥の方にあった扉を開けたその先は、どうやら応接間のようで椅子やテーブルが配置よく並んでいた。
 そのうちの大きなソファに、勢いよく投げ出される。咄嗟のことに反応しきれず、尻餅をつくようにしてソファに沈むと、手に持っていた鞄を取り上げられた。それを目の前のテーブルに置いて先生は部屋から出て行く。
 ……先生の原稿が遅れている? あの露伴先生が? いや、きっとそんなことはない。だけれども、わざわざそんな嘘をつくこともない、と思う。落ち着かないままきょろきょろと辺りを見回していると、どこから持ってきたのか毛布を片手に戻ってきた。
「ん」
「え、」
ぶっきらぼうに突き出された毛布を受け取るかに逡巡する。背けられた顔の眉間には皺が寄っている。
「とにかく寝てろ! そのまま帰るなんて、ふらふらしてて危なっかしい。僕はその間に原稿を仕上げる」
結局真意は掴めぬまま、突き出された毛布を手にとろうとする。すっ、ともう一度取り上げられる。不思議に思って顔を見上げると、怒気を含んでいる(ような気がする)目と目があった。暫くその状態が続いて、先に目をそらしたのは先生の方で。ふう、と聞こえよがしに溜息を吐いたかと思うと、広げた毛布を頭から被せられてそのままころんとソファに転がされた。
「起きたら上に来い」
視界一面が毛布の中、先生はそれだけ言ってドアを閉めて出て行った。足音からして仕事部屋に戻ったようだ。
 もそもそと毛布から顔を出して、それにうずくまってみる。暖房かなにかつけたのか、少しだけ空気が生ぬるい。

 なんだ、優しいとこあるじゃないか。

 ぼんやりと霞んでいく意識の中で、なんの雑念もなくただそれだけを思った。

漫画家(人)と編集者(感)

 目を覚ますとテーブルを挟んだ向こう側にあるゆったりとした椅子で、二階にいるはずの人が無防備にも寝ていた。

2011.12.31(2016.09.29)