裸足。あの日から纏っているフレアの白いワンピースはもう薄汚れてぼろぼろで、脚にまとわりつくものだから、走りにくい。ぺしぺし、と自らの足音が冷たい石造りの屋敷に響く。捕まってはいけない。闇の中で燦然と輝く光に見間違えてしまいそうなあの人に捕まっては。

 初めて見たあの人は、薄暗い部屋の中で女をたくさん侍らせていた。その光景に出会したときは、わたしもこの一因にされてしまうのかと思ったと同時に、どこか他人事に、肉体美とはこういう身体のことをいうのだなと思った。その次に見たあの人は、夜中にふと声につられて覗いてしまった部屋で、女の身体を堪能していた。妖艶に腰を揺らし、声すら抑えない女は美しかった。白い背中がしなる。自分の上で、甲高い声を上げるその人を、どこか薄ら笑いを浮かべながら、どこか他人ごとのように、その人は見つめていた。女ががくんと揺れる。前に手を突いて、息を整える。自分はなにを盗み見ているのだろう、と少し熱を持ってしまった自分を恥じながら、自分の部屋へ戻ろうとしたその時、視界の端でゆっくりとその人は起き上がった。そして、そのまま女の人の首筋に顔を埋める。そこまで目の端で捉えてから完全に背中を向けたわたしの耳に聞こえたのは、女の、嬌声にしては凄まじい、喉を裂くような声だ。驚いて振り返ると、今まで恍惚に身をしならせていた女はぐったりと倒れている。先ほどまで肌を上気させていたとは思えないほどに、その顔色は悪い。思わず知らず、軽く息を飲めば、ばたん、とその人はわたしの前まで投げられた。それは、最初にあの人を見た時に、左手側に侍らせていた髪の長い綺麗な女だった。最早目の前に転がる身体には色がなく、脈すらも打っていない。
 その人の息がないことに気づいて、二、三歩後ろに下がりはっと顔を上げると、妖艶に笑った、それでもどこか鋭い眼光を湛えた目と目があう。口元を拭ったその手には、赤く、液体が滴っている。それを視認した途端、わたしは走り出していた。
 その部屋から離れて、その人から離れたはずだったのに、いつのまにか目の前には彼がいる。立ちはだかる彼の強靭な体躯に身が竦む。腕を取られ、抱き寄せられた。首筋には、生ぬるい吐息が当たっている。舌の這う感触に、背筋が凍った気がした。ああこれは、あの女と同じ運命を辿ることになる。
 しかし私は、未だこうして生き延びている。その後抱かれたわたしは、女の殺された同じベッドの中で目を覚ました。行為の後、鋭い歯を首筋にあてて、わたしが貧血になる寸前程度の、おそらく彼にしてはほんの少量の血液を、彼はわたしから抜いた。それから、なにもなかったかのように部屋に返される。
 それからというもの、彼はわたしの姿を見る度、まったく同じことを繰り返した。抱かれるたびに思い出すのは、わたしの足元に転がったあの女の死体だ。自分が生かされているのか、それともじわじわと殺されている序章にすぎないのかもよくわからない状況に、わたしはただ必死に彼に見つからないように屋敷の中を逃げた。

 もう何度抱かれただろう。もう何度、血を抜かれただろう。連れて来られた屋敷の中は逃げ場も、出口すらもなかった。ただひたすら逃げ続ける鬼ごっこは、必ず鬼に捕まって終わりを迎える。捕まれば快楽に堕とされる。どうして逃げなければならないのかすら、わからなくなりそうだった。いっそこのままこの足で彼の部屋まで行って、抱かれてしまいたい気にもなる。身体が熱を持っていく。自分の生命の危機と、生命の起源でもある行為が半透明に薄い紙一重で隣り合っている。
 あの人はきっと、そうやってわたしが心身共に衰弱するのを待っている。そうしてわたしが自ら彼の前に現れたときに、きっと全ての血を抜いてしまうのだ。だからやはり走って、走って、彼から逃げなければ。次に捕まるときは、今度こそ殺される。
 もうこれ以上、体力を削ってしまっては、逃げる足も動かなくなってしまう。理性のまだ残っているうちに、どうにか逃げ延びなければ。わたしはまだ、死にたくはないはずだ。
 どうしたら逃げきれるかなんて、わかってはいない。なぜか出口に辿りつかないこの屋敷の中を、ただひたすらに逃げ回るだけにすぎない。角を曲がる。そして、愕然とした。彼の部屋だ。この屋敷は時々部屋の配置が変わる気がするのは、最早わたしの頭が正常に動いていない証拠なのだろうか。いつかのように、目の前には彼が立ちはだかっている。腕を引かれて乱暴に投げ出されたのは言わずもがな寝具の上だった。
「手間取らせすぎだ」
ああ、初めて聞いたはずの声に懐かしさを感じる。これで抱かれてしまえば、もう逃げる体力はないだろう(そのくせ、半分、いや、8割は、その行為を期待している)。まったく、狂っている。
 そして、洋服を剥がれたわたしの腰に、また唇が、(いつからかわたしは、この瞬間をたまらなく待ち望むようになっていた)。

2011.12.12

(腰:束縛)