隣の部屋から女の声がする。それは言わずもがな致している時の声で、しかしいつものこととはいえはうんざりする。髪をかきあげながら起き上がるとランジェリーの黒い紐が肩から滑り落ちた。
 隣の部屋の女、この声はきっと最近指名の多くなった彼女の声である、彼女はどうしてこうも派手にナくのだろう。声をあげる、というより、なく、というような表現の方が近いような甲高い、激しい声。暫く、寝ぼけ眼でその隣の部屋の方の壁を睨めつけた。ぼすり、と、枕を投げつけてみる。
 ぼすり。
 音そのままのように壁に当たって落ちた枕と、自分のいる寝台のシーツは冷たく固い。別に寝心地など商売にはほとんど関係のないことなのだが、従業員はここで寝泊まりする、否、いろいろと致すのである。もう少し肌触りに気を遣ってもらいたいものだ。
「おはよ」
いきなり部屋の入り口から声がした。窓すらないこの部屋では外の時間がわからないが、客がおはようと言えば仕事開始の合図だ。ぴしっ、と擬音が鳴るように、どう枕を回収しようか、とか、どんな客か、どう接客を、などというようなことが瞬時に頭の中を駆け巡り、自分の表情が自然と営業用に切り替わったのがわかったのではあるが、その次の瞬間には声の主がわかってしまい、すべてがまた起きたままのに戻っていくのもまた、自然な流れとしての身体は自覚していた。
「おはようございます」
とりあえず手櫛で髪を整えながら振り返る。予想は違わない。そこに立っていたのは、Mr.KKと名乗る、何もかも不詳な男だ。こういう店に来るにも関わらず、他の客のように餓えていない、いつも同じ作業着で現れる男。彼は何者なのかなんてにはわからなかったし、また、分からなくてもいいことであった。
 KKは煙草に火をつけながらベッドへと歩み寄る。他の客ならそこからすぐに行動に移しそうなものだが、この男に至ってはそんなことはないとはもう既に知っている。ぼやっとしながらその行動を見つめていると、彼はに顔を寄せて、
「そんなだらしない格好してて良いのか客の前で」
そんなことを言った。事実、ランジェリーの肩紐は滑り落ちたままに、下着をつけていない乳房は半分見えかかっている。
「ああ……あなたがいきなり現れるからですよ」
緩慢な動作でそれを直しながら、はそうつぶやいた。
「好いじゃねえか、これでも客だぞ俺は」
「そうですねー」
「随分な扱いだな」
「それを望んでいるくせに」
なにもかも、わかっているように、なにもかも、わからない男に言う。
 KKはの言葉に鼻だけで笑った。それを横目で見て、は片足をベッドからおろす。
「どこへ行く気だ」
すかさず、KKがの腕を掴む。
「枕を取りに……?」
先ほど投げたのだ。枕は壁際にくたっと落ちている。
「必要でしょう?」
小首をかかげて尋ねてみれば、KKは煙草を灰皿に押し付けて不敵に笑った。
「いらねえよ」
その言葉とともに、の腕は引かれ、またベッドへと戻される。その動作自体は素早く乱暴で、しかし、の身体に衝撃があまりないようにKKが配慮をしていることはわかる。
 覆い被さり、唇が触れる。それは軽く、一瞬だけで、そしてKKは身体を離した。をベッドの上へ引きずり上げて、自分の腕の上へと頭を乗せる。ぎしり、と行為に似合わない音を立ててベッドが軋む。それは所謂、単なる腕枕で。この人はほんとうに、自由奔放だなと思う。
「今日はこれだけでいい。寝ろ」
そう言いながら、この部屋の中で素肌をさらしてもいない異様な客はを抱き寄せた。
「このまま抱かれるかと思った」
飾らない本心が口をつく。それはべつに仕事としての義務感や、私的な期待からの落胆などではなく、ただ、本心を述べた言葉。
「お前はそれを望んでいるのか?」
語尾のあがらない疑問文。KKは答えを見透かしているくせにこの言葉を発している。証拠に、もう、瞼は閉じられている。返事の代わりにそっと瞼に唇を落として(そのとき彼は少しだけ反応して)、潔くその腕に抱かれて眠った。
 お互い何も知らないはずなのに、お互いすべてを解っているような気がして。そしてそれ故に、この限られた空間で、ここまで自由に振る舞えるこの人が、とてつもなくずるいような気がした。

籠の

2012.08.16

(瞼:憧憬)