体育館の中で響くのは彼の名前が黄色く染まった声。ボールを持った途端に湧き上がる歓声。ゲームを支配する彼は、老若男女問わず全ての観客をも支配している。自分ひとりでゲームを引っ張っているようでいて、しかし他のプレイヤーともきちんと協力している。彼はまごうことなき名プレイヤーだと、こんなに遠い観客席からでも見て取れる。いつでも、そんな彼の試合を見てきた。練習風景だって、みんなに紛れて見たことが幾度もある。わたしはそんな彼の虜になってしまった一人にすぎない。
それが、ある日狂ったのは一概にわたしの行動のおかげである。少しずつ話しかけるようになって(まあ彼は、ただわたしの言葉に相槌を打っていただけだったのだけれど)、少しずつ近くにいられるようになって。ついに思い切って想いを伝えてみると、彼はあっさりと、頷いたのだった。今思えば、彼は頷いてくれただけで、わたしの気持ちに応えてくれたわけではなかったのかもしれないと、思えるのだけれど。彼が寡黙なことは知っていたのだ。ほとんどポーカーフェイスなことも。それが好きだったくせに、近くにいればいるほど、わたしはそれだけで満足なんてできなくなってしまっていて。彼がわたしを蔑ろにするようなことなんて今までもちろんない。大切にしてくれていることはわかっているし、きっと、悪くは思っていないのだろうことくらい、わたしにだってわかるのに。わたしは、それよりももっともっと、多くを望んでしまっている。それがただ、苦しかった。
試合も、もうそろそろ中盤。誰も皆ゲームに夢中で、他人が席を立とうとも、誰一人気にも留めない。元々一人で来ていたし、客席の後ろの方に座っていたので、それは尚更だ。今までは決してゲームの最後まで席を外さなかったけれど、彼のまぶしい姿が見ていられなくて、初めて、席を立った。
外にある自販機で暖かいカフェオレを買う。中の熱気とは裏腹に、外は静かで極端に寒い。はあっと白い息を吐いて、カフェオレは開けずに手に持ったまま、手のひらだけを温める。ベンチに腰掛けて、白い息が虚空に溶けていくのをただぼうっと眺める。
わたしは彼の負担になりたいわけでは決してないのに、このままではきっとそうなってしまう未来が見えるようだと思った。こんなにも好きなのに。それだからわたしは、彼にわたしと同じ気持ちの重さを求めてしまう。けれど好きだからこそ。そんなことを強要なんて絶対にしたくはない。彼が、どう思っているかということは、聞いてみたこともないからわからないけれど。歪む心が音を立てる。彼にそれを見つけられてしまう前に、きっと離れてしまうべきなのだ。たぶん。おそらく彼ならば、わたし一人いなくなることくらい、なんともないことのはずだから。
カフェオレの蓋を開ける。それはまだにとっては熱い温度で、口に含んですぐに顔をゆがめた。長い、長い息を吐く。今度はそれは白くならない。
くしゅん。
ひとつくしゃみをして我に返ると、身体が冷え切ってしまっていることに気づく。手の中のカフェオレはもう飲める温度だったけれど、それだから当然、一口含んでも結局身体は暖まらなかった。それでも動くのが億劫で、そのまま思考に沈んでいると、周りにはいつのまにかたくさんの人が歩いている。会場から帰途につく人々。口々に話される内容を繋げてみると、どうやら彼のチームが勝ったらしい。言わずもがな、活躍したのは流川楓。何人もの人の口から、彼の素晴らしさが語られる。その中にはいくらか艶やかな声も混じっていて、これはわたしは、違う世界の人に恋をしたんだな、と妙に脳が冷えた。カフェオレをすべて飲み干す。底の方はもう、かなり冷たくなっていた。人ごみに紛れて歩き出す。
わたしはなんて我が儘なんだろう。わたしから想いを伝えたくせに。応えてもらえているのかも疑って、挙げ句、彼の前から消えようとしている。
空になった容器を捨てる場所もなく、ゆらゆらと手に持ったままそれと同じゆっくりとした速度で歩く。当然周りの人の歩く速度の方が早くて、周りに取り残されていく様は、なんとなく今の心情に似ていた。ふらふらと歩いていると、ぽたりと何かが頬に落ちた。雨だと思うが早いかいきなりそれは強さを増して、周りもそれに気づいたのか皆足早に去っていく。また、取り残される。予報にはなかった雨は傘を持たないをじわじわと責め立てていった。髪から滴る水滴が首筋に落ちて、思わず身震いした。これは雪に変わってしまうんじゃないかと思うほど、冷たい。手は悴んでもう動きはしない。明日はきっと、風邪をひてしまうだろう。濡れきった腕で身体を抱いた時、不意に背後に人の気配を感じた。それはわたしよりも幾分も背が高くて、細身の、
「どあほう、濡れてる」
一言、それだけで彼だとわかる言葉。振り返りもせずにそれを聞き取った時にはもう、彼に腕を掴まれて走り出していた。寒さによって鈍った触覚が、彼のいつもより高い体温を伝えてくる。
結局体育館まで逆戻りして、屋根の下で雨宿りをする。どうやら彼も、傘を持っていないようだった。流川くんは鞄の中からタオルを取り出してわたしの頭に被せる。わさわさ、と少々乱暴に髪を拭われながら、わたしはされるがままになっていた。
「どうして、途中で出てった」
一通り拭き終わったのか手が止まる。タオルはそのままに上から声がかかるけれど、身長差とそのタオルの所為で彼の顔は見えない。
「あー、えっと。……流川くんが格好良すぎてつい出てきちゃった」
その返答自体はあながち間違ってもいなかった。タオルが肩にかけられたおかげで見えた彼の目は、その言葉に鋭く細められる。
「うそ。なんで」
「ん、まあ、」
端的な返答はやはりわたしの言葉なんて信用していなかった。こんな誤摩化しが通用する相手ではないことはわかっているのだ。腹をくくってほんとうのことを言うまでか。髪を手で梳きながら次の言葉を考えていれば、
「いなくなるつもり」
脈絡もなく放たれた彼の言葉の語尾は上がっていなかった。すべて見透かされてしまっているように、鋭い瞳にじっと見つめられる。
「どうしてそんなふうに思うの」
「最近元気なかったから」
「そう、結構よく見てるのね」
思わず出てしまった嫌味にはっとして口を閉じる。目を伏せてちらりと彼を伺うと、訝しげな視線に捕まった。そして、沈黙。
「お前はそうやってなにも言わないからどうしてほしいかわかんねえ」
暫く黙った彼は、そのままを見続け、それだけを呟いた。
「そんなの、流川くんもじゃない」
ああ、なんて、可愛くない女だろう。やっと彼がわたしのこと、気にかけてくれたのに。
「……じゃあ、どうしてほしい」
「べつに、」
「言え」
「む」
今更、甘い言葉がほしかったなんて。今更、愛されてる実証がほしかったなんて。やっと彼がわたしを見てくれているのに。意地になったわたしの口からは、ちょっともそういう言葉がでてきてはくれない。
「どこにも行くな」
「……どういうこと」
「別れたくない」
もう意地としか言いようのない言葉を、流川くんは意外ともとれる言葉でさらりと受け流す。彼の表情を見ていられなかったわたしの視線は、その手がわたしの腕を掴んだところだけを見ていた。
「好きだ」
「そんな都合い、」
それでも意地を張ったわたしに、彼は言葉を求めることをしなかった。引き寄せられて強く抱かれたと思えば、強引に顔を合わされる。やっと見たその先で、彼の漆黒の瞳がぼやけて揺れる珍しい光景を見た。わたしの意地は途中までしか言わせてもらえずに、唇が押し当てられる。その身体はわたしより大きくて、温かいくせに、わたしよりも震えている。
2011.12.05