幼い頃から迷子になりやすい質の子どもではあって、それはつい、いろいろなものに目を向けて、じいっと観察をするような癖があるからだ。それだけならよかったものの、その観察の対象が多岐にわたるものだから、私の親もよくそれで私を見失って苦労していたようである。

何度も下りたことのあるはずの街であっても、季節は移ろい、露店にも同じものは二度と出てこないために、やっぱり私の興味を引くものは尽きない。警護のために、審神者ひとりで街に降りることは禁じられているので、いつも誰かしらを連れて下りるのだけれど、私と同じ目線で立ち止まるものもいれば、呆れたようにただ見守るものもいて、そういった反応を見ているのもまた面白い。
 最近はよく豊前江とともに街に下りる。それは単に彼の装束の赤い垂れ布が、迷子になりやすい私にはよく映えて見えるからだ。
 豊前江というひとは、美しい、というわけではない。見目は整っていて、気立てもよいが、そう形容するにはいささか俗っぽいように感じる。自らはよく近づいてくるくせをして、しかし誰をも近寄らせすぎず、また遠ざけすぎず、そして気がつくとふらりとどこかにいなくなってしまうような、そんな雰囲気のある刀だった。私はその刀のそういった性分をとても気に入っていて、贔屓にしているのだけれど、きっとそれも、彼はわかっているのだろう。そして私のそれが、恋と呼べる感情であるということも、きっと彼はわかっている。私はそれを彼に伝えたことはなかったが、彼は私をたまに適切に切り離して、私の感情をよそに向けさせるので、私もそれに気がつかないふりをして、ただ黙ってたまにこうして外出に付き合わせるのみだ。
「主!」

 煩雑な大通りは、空気が乾燥しているのか、やけに土埃がもうもうとして、霧の中であるかのように視界が悪い。呼び掛けられる声に振り返る。また迷子にでもなりかけたかな、などと悠長に思っていたところに、
「はぐれてないか?」
すぐ隣で彼の声がしたもので、意表をつかれた。
「この距離じゃあはぐれませんよ」
背後から呼び掛けられたように思ったけれど、気のせいだったのだろうか。迷子を疑ったところは置いておくことにして、声のほうへ、私を覗き込む彼を見据える。彼は何か納得しないような顔をしていたけれど、その表情を眺めているのも束の間、人に紛れてしまいそうだと思えるほど混雑した通りに、よそ見で歩けるようなものではなかった。向かってくるひとを避けることに必死になっていれば今度こそ彼の赤を見失いかけてしまい、慌てて近寄ろうとする前にぐいと手首を引かれたのでつい苦笑いを彼に向ける。
 赤い瞳がこちらを捉える。美しく高貴な、光を湛えた生の赤い色。たまに瞬きの合間に見える、捉えられない赤い光の反射は、まさに彼そのものの気質を表しているようで、私はその彼の瞳の複雑な色が好きだった。つい眺め入るとそれがぼんやりとぶれて、けぶって見え、ひとつ増えて……というところではっと瞬きをすれば、
「おーい」
彼の瞳が当然増えたわけではなく、彼の肩越しに、なにか同じような赤い色がまたたいて見えるのだと気づく。ちょっと身体をずらして確認すれば、それは通り向こうの露店から発されているようであった。あっち、と不意に私が彼に指し示しても、不思議そうな表情をしながらも彼は道を開ける。彼は私のそういったところをどう思っているのかまでは悟らせてくれないが、とにかく否定はしないような性分だ。
 さて露店で赤く光って私を呼んだのは、燃えるような赤い色をした指輪であった。暗い台座におもむろに置かれている様々な色の指輪の中で、その赤い石は一際目を引く。
「きれいですね」
鈍く、硬く、吸い込まれるような光の反射が私を呼び寄せる。店主はただ目で挨拶をしたのみ、それだけの仕草で手にとってもよいと促すので、その指輪に手を伸ばし、──ぱんっと、いい響きで手が払われた。それに驚いたのは当然、目の前の店主も眉を上げてこちらを見る。
「なに「いけん」」
音を立ててまで乱暴に払ったのは、私の後ろから手元を覗き込んでいた豊前さんである。彼がこういったことをするのは初めてで、驚いて彼に振り返ったものの、意図を汲みかねる言葉に首を傾げる。
「他のものならいいが、それはだめだ」
「どうして? 赤くてきれいなのに」
彼はそれに答えない。短く店主に「悪いな」と言って、私の手を引いてそのまま露店を離れてしまった。彼が謝りつつ私の手を検める間にもう一度尋ねてみたものの、答えが返ってくることはなかった。

 それから、何度か同じようなことが立て続けに起きる。
 本丸に出入りする花売りが持っていた、燃えるような赤い花びらを閉じ込めた飾りものに興味を持てば、畑当番で近場にいなかったはずの豊前さんがいつのまにか戻ってきていて、襟首を掴まれる。
「みて、きれいな耳飾り」
と言ってみるも、「こっちならいい」と他のものを指し示す。
 赤く染められた牛革の手袋を見ていると、「主」と一言だけ言うので、「はい」と返事をしておいた。
 どうにも赤い色がいけないらしいというところまでは途中からわかっていたが、かといって、赤い布のがま口を見ている時には何も言われなかったし、加州とお揃いで施してもらった爪紅にもなにも言わない。全ての赤いものがいけないわけではなさそうで、その線引きが私にはよくわからない。

「……」「…………」「……」
 豊前さんとの無言の目配せが成立しているのは、私の膝の前に輝く赤い瞳のねこがいるからで、それは確かに私が拾ってきたのだった。
「にゃーん」
ごろごろと喉を鳴らしながら膝に頭を擦り付けるねこは可愛い。撫でていてやるものの、しかしねことは違う視線が私に刺さるのでついいたたまれなくなって「先日の嵐でほら、行くところがなさそうだったから置いてあげたの、お腹も空かせていたみたいだし」と早口に言えば間髪入れずに「早く戻して来いよ」と刺さる。
「べつに首輪でつないでいるわけじゃないですう」
「にゃーん」
長くいるのならかけてあげようかしらと物色していた飾り紐を探しているところに彼に見つかったわけであるから、その言い訳はかなりきびしい。
「そいつなら勝手に生きてい「にゃーん」ける」「好きでこの子はここにい「にゃーん」るだけみたいですよ」「……白々し「にゃーーー」い」「ほらこんなに懐いてくれてる「にゃあ」」
「きさん……主に手を出したら許さん「にゃーーーーーー」っ、この」「この子が赤い瞳だからだめなんですか?「にゃーん」」
会話に混ざるつもりなのか、それともただからかわれているのかわからないが、ねこが自由に鳴くのがまた、どうも豊前さんは気に入っていない。
「いやそいつに関してはそうじゃな「にゃーん」ちっとは黙っちょれこの「にゃーにゃー」」「おや、ふふ、ほら豊前さんがそんな怖い顔をするから逃げられるんですよ、ねー」「にゃーん」
しまいに首筋を摘もうとした豊前さんの手をねこはひょいと躱して私の膝に乗る。上機嫌にまた喉を鳴らすので撫でてやれば、「まったくほどほどにしとけよ」と不服そうに豊前さんが言った。
「ほんと? 好きにさせていい?」「にゃーん?」「…………好きにしろ」「やったー」「にゃー」
ねこごときに、腕を組んで、眉間に皺を寄せている豊前さんが私には面白い。結局この赤い色はよかったのか、はたまた可愛いためか、ねこは豊前さんにお目溢しをいただいたようである。

 ひどく魅力的に、きれいに実った果実を見つけたのはそういう騒動をだいぶしばらく繰り返していた時で、気晴らしに入った本丸の裏山でのことだ。燃えるように赤く、熟した果実は、手に取ると柔らかく、瑞々しい。口に含んでみたい、と思える甘い匂いが微かにして、誰も見ていないのをいいことに、ひとつもぎ取る。手に取った瞬間に、どこかに傷をつけてしまったのか馨しく濃厚な香りがあたりに広がって、少し垂れた果汁までも溶け出した鉱石のように透き通って赤い。つい、手のひらに流れたそれを少し舐めてみれば爽やかに甘く、すぐにでもかじりついてしまいたくなる妙味であった。唇をつけてみて、果汁を吸う。このまま皮ごと食べられるのかしら、大丈夫かな。
「にゃーん」
あ、と大きく口を開けたところで、先日のねこが鳴く声がした。
「なんだきみ、ついてきてたの」
ねこの声に振り返れば、いつの間にか持ってきていた籠にねこが収まっている。ねこは私を呼ぶものの、私の呼びかけには返事をするわけでもなく、くわ、と大きなあくびをするのでなんだかこちらの気が抜ける。
「ほら、美味しそうだよ」
手に持ったままの果実を差し向けてみても見向きもしない。ねこは自由だなあと、こちらを向く清廉な赤い瞳を見ていると、いつも顔を合わせている赤い瞳の彼や彼らのことが不意に思い浮かぶ。これを持って帰ったら本丸のみんなは喜ぶかしら。鼻先で果実の匂いをかぎながら、「にゃーん」それが生っていた木に、同じ果実を探す。しかし、どうもそれはひとつきりしかなかったようで、いくら探してみても同じものは見当たらなかった。仕方なくそのひとつのみを(ねこを退けて)籠に入れて帰ることにする。
 元来た道を戻り、裏門から入って離れの私室に回る。汗ばんだ肌と土に汚れた手を早く水で流したかったために私室に直行した……というのはあるが、もうひとつはやっぱり、どうもこれは豊前江に怒られる類の赤い色ではないかという直感が働いたからだ。「にゃーん」私室の裏の沓脱から縁側に上がっていつも出入りしている障子に回ると、これはほんとうに偶然だったものか、裏庭の道場から出てきた豊前さんが、こちらに気がついた様子も間もなく駆けてくる。手合わせをしていたのだろういつものジャージ姿と手にした木刀が、私の前に来る頃には戦装束と彼の得物に早変わりするので、思わず声をあげて驚いてしまった。
「それ、食っちょらんな!?」
一瞬にして取り上げられたそれは、目の前で彼の得物に真っぷたつにされる。
「え、ええ。どうして食べようか、調べてからと思って」
咄嗟に、果汁を舐めたなどと言えるはずもなく、しどろもどろにそう答える。
「毒のあるものでしたか?」
「そんなようなもんちゃ。……油断も隙もねーな」
刀に滴る赤い果汁を振り払う表情は、俯いたために下がった彼の前髪のせいで見えない。破られた果肉もやはり赤く宝石のようにきれいだったけれど、手を出す前に忌々しげに彼が踏みつけにするものだからどうしようもない。ずっと私に着いてきていたねこは、それを見ても驚くことすらせず、我関せずと縁側で毛繕いをしている。
 その日はその後、彼が私から離れることがないので、あの豊前江がどうしたものだろう、と嬉しいのも反面大いに困惑した。「さすがに拾い食いはしませんよ?」と言ってみるものの「当然だろ」とすげなく返される始末。普段は出入りをしない水屋にさえ私について入るので、台所連の刀が驚いていたのも無理はない。私が夕食の支度を手伝っている間にも、ちょっとした手伝いをしつつ彼は私のそばから離れなかった。
「もう、そんなに心配ですか、っ!」
そんなに心配しなくても、と続くはずだった言葉を前にして、横着して手の上で使っていた包丁が指を滑って皮膚が切れた。す、と鼻をかすめる、瑞々しい果実の匂い……? 咄嗟に傷口を口に運ぼうとして、「わあ!?」横からその手が勢いよく引かれる。
「待って、危ない、包丁危ない……っ!?」
手首を強い力で握り込んだ豊前さんはそのまま無言でじいっと傷口を見ている。じわじわと血が、皮膚に滲む。ぎゅう、とまさか傷口を押されるとは思わず、それに驚いて手を引くも離してもらえない。
「痛い痛い、豊前さん、痛いってば」
私の言葉も聞こえているのかいないのか、豊前さんは息を詰めたままだ。
「あれに口をつけたな」
絞り出すような声は、けれど私にはどうしてそれが今持ち出されたのか、そこまで咎められることなのかがわからない。
「すこし、蜜を舐めただけで」
「こんなとこでも、切れば血が出る」
「そりゃあ生身の人間ですから……豊前さんだってその身体なら一応同じものが出るでしょう、そんなにおおごとじゃないですよ」
「そうやけん、そうじゃない……これだけで済んでよかったものの」
「……へんな豊前さんですね」
「あんたは……、……ほーと勘弁しろちゃ。……好奇心は猫をも殺すぞ」
き、と睨みあげるような視線を、彼から受ける。「ごめんなさい」と言ってはみたものの、一体なにがどう悪かったのかよくわかっていないのは、豊前さんもわかっていただろう。彼は息を落として、「薬研呼んでくる」と言ったきり水屋を出て行ってしまった。
「そんなに大した怪我じゃないのに」とひとりごちていれば、そばで一部始終を見ていた堀川くんが「主の性分は昔から変わらないね」と困ったように笑っている。

 次に町に下りようとする頃にはもう日々、彼に触れられない日がないほどに、私に近く彼が陣取るようになっていた。けれど特に関係性が変わっただとか、そういったことは一切なく、ただ一方的に過保護を受けている(何から守られているのかはよくわからないが)ような、そんな気持ちになりもする。
「今日も私を止めるのですか?」
この頃は、日に一回はなにかしら「だめ」を言われるのが日常だ。私の外出を察知して玄関に先回りしていた彼に、下駄を整えながら聞いてみても彼は何も言わなかった。けれど、街中で見かけた珍しい赤い反物に手を伸ばした私を、やっぱり彼は止める。
「あんな赤い染め物、珍しいですよ。誂えたらきっときれいな着物に」
「……だめだってば」
なおも食い下がる私に彼は息をついて頭を掻く。
「どれもきれいだったのに」
今まで「だめ」を言われたものをことごとく思い浮かべる。燃えるように赤い、引き込まれるような色の力をもつものたち。
「赤い色が好きか?」
彼は唐突にそんなことを尋ねた。
「とくだんそんなつもりはありませんけれど……」
「じゃあやっぱりそれじゃなくていいだろう。他のものならいくらでも買ってやるよ」
こういったお説教も耳にたこができているからか、耳に入れながらもつい他のものに目を移す。赤くてきれいな反物、違う赤い色の帯揚げ、青い色の帯締め。真珠を連ねた羽織紐。何を見ていてもやはり、一番はじめに目をつけた赤い反物が一等所有欲をそそった。
「でも赤い色にはきれいな色が多いから」
その時、並べられた布の隙間に、ぼやりと惹かれる赤い色が見える。
「……それは色のためじゃない」
ひとりごちたつもりの言葉も、彼は丁寧に拾ってくれたが、私の興味の対象が逸れたのを彼は気がついていないらしい。それに被さっている布を指の先でそっと避けると、桐の小箱に入った焼き物の帯飾りが現れる。
「きれい」と言ったのと、「主!」と彼の声が聞こえたのは同時だったように思う。

 その焼き物の細工につい手を伸ばす。つるりと滑らかな、焼き物特有の冷たい肌触りは、付けられた赤い色柄の印象と一致していない。赤い地色にまた違った赤で描かれた花の紋様は燃えているようで、湛えた色がこぼれ落ちそうである。これはきっと私の持っているあの帯によく映えるだろう。「ねえこれ、あの私の帯に」彼を振り返るとそこは元いた通りではあったけれど、雑踏の中に彼の姿のみが消えている。
「あれ、豊前さん?」
また私がぼんやりとしていたから置いていかれただろうか。今まで私が勝手に迷子になったことはあっても、置いていかれたようなことはなかったけれど。首を伸ばしてあたりを見回してみるも、あの垂れ布は見当たらない。「えー」今度こそほんとうに拾うひとのいないひとりごとが静かに落ちる。
「お嬢さん、それでどうする?」
露店の店主が、きょろきょろと視線を惑わしている私に声をかけた。商品を持ったままだったから、私が店主でもそうするだろう。
「ああ、えっと、そうね。とってもきれいだからもらいます」
「毎度。つけていくかい」
「いいかしら、そのままいただいて」
帯にそれを飾りながら、しばし店主と話をする。「連れはいいのか?」それは豊前さんが戻ってくるかと待っていたからであったけれど、彼が戻ってくる前に店主が尋ねるほうが早かった。
「どっちに行ったか見ていました? 私、ついしなものに夢中で」
「それなら、西の通りの方へ行ったよ」
「そうでしたか。ありがとう」
店先を出て、とりあえず店主の示した方向へ歩き出す。

 迷子には昔からよくなっているけれど、私はこういうとき、すぐに連れを探さないのが変わらない。それはただ、拗ねている、と言えば、とてもわかりやすいのだと、大人になった私にならわかる。私がいつも迷子になるとき、それは大抵私が、何かに興味を惹かれて立ち止まって眺め入るからであるけれど、裏を返すと、親や、私を連れているひとが、そんな私の様子に気がつきもせずに先に行ってしまうから迷子になるのであって、私はいつも、なんだか勝手に置いていかれたような気分になるのだ。私ひとりいなくなっても気がつかないのだもの。それがとても腹立たしい。それは私がひとに構ってほしいと思う重さとは釣り合わないような軽さで、相手に私のことを扱われているような気すらして、……つまり平たく言えばわがままに拗ねているのである。そうであるから、大抵こうして人とはぐれてしまうと、私から見つけにいくのも癪であるし、ぼんやりと見つけられるのを待っている。いくつになっても、こんなどこともわからぬところで仕事をしていても、三つ子の魂はなんとやら、というやつなのが可笑しい。
 西の通りの方へ、と向かってみるものの、一向に彼に見つけられることもなく、大通りの端まで来てしまう。あんまりにも迎えが遅いから、もう迷子であるということも半分忘れかけて、露店の様々なしなものを眺めることに夢中になっていた。通りの端は小間物屋で、赤い和紙のきれいな団扇が特段目を引く。手にとって団扇をやると、その暑さをようやく思い出した。そういえば今は夏である。
「今年は暑いねえ」
お代を渡しながら、店主と世間話。
「うちの豊前江を見かけませんでしたか」「あんたと同じにおいの刀か……そうだな、さっき北の方へ行ったよ」「そう。ありがとう」
通りを折れて、小道を北へ。
「主」

 呼ばれた声に振り返るけれど、どうにも聞き違いだったようで、先より少し減った人ごみのうちにも彼の姿は見えない。自らの鳴らす下駄の音と、どこからか聞こえる祭囃子の音。私に話しかけられないひとの声。そういえば、こうしてひとりでいるのはもうどれだけ久方ぶりであるのかわからない。本丸は、刀とはいえ人の姿をしたものとの共同生活で、一人で出かける自由もなかったから。忘れかけていたけれど、ここに来る前は、他人を厭ってそうしていたわけではなかったにせよ、ひとりでどこにでも出かけていく質であった。
 ひとりで歩きながら、周囲の音を耳にして、好きなようにあたりを見渡し、気になったものに足を止め、「金魚だよ。いかがかな」「きれいですね。でもうちには緋鯉がいるから」「そりゃあ残念だ、ときに、ここに鉢があってね」「さすがに持って帰れないわ。もうひとりいればべつだけれど」。そしてまた歩く。胃の腑の少し締まるような、小さな心地の良い緊張感。「お姉さん、紅はいかが」「まあ素敵! 買っちゃおうかしら……でも、特別に出かける予定もないし……」……。「珍しい堆朱の盆さ。上物だよ」「見事な品ね。うちにこんな大きさ必要かしら……」……。「お嬢さん、別嬪だから今ならひとつまけとくよ。どうだい」「どうったってこんな大きな魚! ひとつだって、ひとりじゃあとても食べきれない」「まだ新鮮なんだ。さっきそこから上がってきて活け締めしたばかりでね」「この近くに海なんてありました……?」「すぐそこだよ、港がある。潮の匂いがするだろう」
そう言われてみると、噎せるような魚の生臭さと血の匂いに混じって、かすかな海の匂いがする。海は好きだ。もう長らく見ていない気がするけれど。
「そのあたりって、海に下りられる場所はあります?」「港をちょっと伝って西の方へ行くと、それはもう立派なもんさ、そう遠くはない」「ありがとう、行ってみます」
そこから少し歩くと迷うことなく港に着く。風に乗って、人の話す声がほんの少し聞こえるのみで、ずいぶん人気もないところに、休んでいる漁船だけがぷかぷかと浮いている。そこから覗く海面の、ぬらりと蠢くさまが懐かしい。
 魚屋に言われた通りに、港を伝って歩く。誰も見ていないのをいいことに、縁石の上をバランスを取りながら歩いた。足元を注視しながら無心で歩いていたけれど、下駄の赤い鼻緒が目に飛び込んでくる。懐かしい色柄は、いつか幼い頃、そう、初めて着物を着せてもらった時に履かせてもらった、花の刺繍の愛らしいそれを彷彿とさせた。……いや、その鼻緒はまさしくそれで、あの時の鼻緒が今になっても私の足に合っている。つい立ち止まって鼻緒を確かめようとした時、「にゃーん」どこかでねこのなく声がして、唐突に昔飼っていた猫が頭の中を占拠した。それは甘えたな黒猫で、人が話していると必ず、なにかにゃごにゃごと、会話に参加するような猫であった。いつか緑のリボンと鈴をかけてやったあれは、尾が増えるんじゃないかと心配したくらいに長く生きたけれど、もうすでに死んでしまっている。
 ざ、とすぐ近くで聞こえた波の音に意識を取られる。すぐ先に、伝い歩いてきた道がほんの少し途切れた箇所があり、そこから音の方を覗くと、雄大な砂浜が広がっていた。水平線の向こうで、どうやら日が沈むらしい。低く位置した太陽がまっすぐに私の方へ差し込んで、あたりを赤く、浮かび上がらせる。
「きれい」
きれいだった。水平線に、薄く雲を掃いた空。夕焼け。光を反射する、蠢く水面。赤く照った砂浜。……ざくざくと踏み締める砂浜の音が心地いい。波の打ち寄せる音、風の行きすぎる音。静かで、心地よく、素晴らしい安らかな光景が広がっている。湿った砂浜も厭わず、つい腰を下ろした。ざらりと手のひらをすべる砂の感触が愛おしい。一息ついたところで、どうも長らく歩き続けていたようだとようやく気がついた。そういえば誰かが迎えに来るんだったか、いや、それを私が勝手に待っていたような……? そんなような気もするが、ともあれおぼろげに薄く広がった思考が、無理に思い出すことも拒んでしまった。団扇をやりながら、ぼんやりとする脳内に、なにも考えることのない安楽な時間を久しぶりに感じて、思考が浄化されていく。脳内に空白を置いたまま、じっと、身体すら動かさずに心地の良い空気に身を任せる。
 太陽が動き、もうじき夜が来る。日が沈むさまを、はじめてじっと目の当たりにしている。静かだ。音がほとんどなく、ひとの声もなく、ただ自らの至福のみを考えていられる。その静寂の貴重さ。だんだんと潮が満ちてきているようで、つま先のすぐそこまで波が打ち寄せてきている。それを眺めていると、きら、と浅瀬で何かが陽光に反射した。重たい身体を動かして、それを拾い上げる。
「赤い、びいどろ?」
手の中のそれは、すべらかに、赤い色をじんわりと吸収していた。覗き込んだ内部は、不思議に光を内包していて、複雑にきらめいている。
「きれい」
おもむろに沈みゆく太陽にまっすぐにそれを翳したのは、そうすればこれがより一層魅惑的に引力を増すと直感したからだ。
 まさに今、陽が沈む。最後の一閃の、美しい明さに手を伸ばして、
「主!!!」
ざ、と波の打ち返す音が身辺の近くで起こり、咄嗟に翳していたびいどろを隠すように握り込む。団扇が波に攫われる。腹のあたりまで海水に沈んだ着物は重く、しかし不思議とあたたかい。
「………………?」
日が沈む。声をかけられたから置いていかれてしまった。
 薄明の中に振り返れば、それは肩で呼吸をして、波を蹴散らしてこちらに走り寄ってくる。帯刀した得物のずれる音、見るうちに抜刀して、それが私に向けられる。
「……」「……」
柔らかそうな黒い髪、細い体躯、筋肉質な腕まわり。緑色の上衣と、すっきりと赤の際立つ服装に、──時代錯誤な刀剣を携えた男。私はそのひとから、この手の中にあるびいどろをどうしても守らなければならない。
「頼む」
波に逆らってそれが一歩私に近付く。けれど、座り込んでいる私は腹まで重く海水に浸かっているものだから、ほんの少し身を引けただけであまり激しく身動きが取れない。「いや」と首を振っても向けられる鋒の位置は変わらない。けれどそれはどことなく、どこを狙っているのか、私を害したいものなのか、定かではなかった。
「あなたが呼ぶから、置いていかれてしまった」
思ったことを述べれば、美しく整った顔が、容赦無く歪んだ。苦虫を噛み潰したような表情とはまさにそれのことだっただろう。
「みんな待ってる」
ころころ、とびいどろを手遊んでいると、それに気がついた鋒の向きが明確に変わって閉口する。
「……みんなって?」
私の疑問に、それは言葉で問いに答えなかったし、私はそれに目を向けていなかったので、どういった表情をしていたのかは知らないけれど、続く言葉は小さく太く震えていた。
「……俺は豊前ごう」ごうのよしひろが作とう。
──それは質問の答えではなかった。唐突に、名乗られたのだと思う。思う、というのは、あまり耳慣れない言葉が多く、瞬時に脳内が漢字に変換しなかったため半分も頭に入らなかったからだ。「打ちがたな。ムメイだがナカゴの裏に朱書があって、だから俺はそう呼ばれてる」
「そう」
理屈はわからないが刀を向けられながら名乗られるというのは、武士の名乗りのように今から殺すという合図ででもあるのだろうか。
「俺はあんたの刀だ」
どこか遠くにそれを聞き取りながら水平線を振り仰ごうとすれば、視界の端で瞬時に鋒が動いた。硬い音と、胴に少しの衝撃。はっとそこを見やれば、波の下で赤い帯飾りがはらはらと砕けて沈む。織の帯がほんの少し切れて、糸が水中に漂っている。
「せっかく手に入れたのに、もったいない」
「……それはいけんち言ったやろ」
一度胴から離れた刀はそれでも私に向いている。彼は、理屈も教えてくれないのに、どうしても手の中のこれを許してはくれないらしい。
「だってきれいだもの」
「あんたにはまだ早い」
「私を子ども扱いするの?」
「違う。主が、……。いや、あんただから頼んでる」
刻一刻と日が沈む。けれど沈んでしまえば、代わりに迎えの星が、空に昇るだろう。握り込んでいた手をそっと開くと、燃えるような瞬きの、蠱惑的な赤いびいどろが現れる。
「どうしてだめなの」
それはどうしても答えを得られない問いだった。ほんとうのところは、私にも、彼がそれを答えられないことくらい、ずっとわかっていたのだ。
「主が本当に望む答えは持ってない。けど、……俺が、あんたと見てみたい景色が、まだたくさんある」
「……そんなにわがままなひとだと思わなかった」
「主だってそうだろ」
そこで彼は、取り落とすように刀を下げた。同時に膝を折って、俯いた彼のうなじが晒される。鞘に納めることもしない刃は、たゆたって海面を斬った。どこからか光を受けて一筋光を流しながら沈むそれは、ひどく、きれいだ。
「……赤い色が好きか?」
項垂れた彼の、柔らかな黒髪が揺れる。そういえばいつか同じようなことを聞かれたけれど、その時どう答えたのか、思い出すことができない。
「うん。好き。きれいで、安らかで、害のない感じがするから」
「俺にはそれはわからない」
「私にだって、ほんとうのところはわからないけど、だからそれを確かめたいの」
彼はそれに、何度聞いたかわからない言葉を再びこぼした。
「……頼む」
それはいつの、どれよりも細く、弱い音だ。
「今のところはそれを、諦めてほしい」
濡れた手甲が重そうに、私に差し出される。完全に落ちた陽が、少し視界を悪くさせたものの、その先にあるびいどろはにぶくきれいに、未だに光っている。
「でもこんなにきれいなのは、今だけかも」
手のひらの温度でぬくもっていたそれを転がす。反して彼の手は行き場を失ったまま握り込まれた。依然俯いたままの彼の表情は見えないけれど、その肩は震えているようにも見える。──それもそのはずだ。なぜ今まで思い至らなかったのか、彼は刀だ。海水など、本来の身にとっては毒以外のなにものでもないだろう。
「ぶぜんさん。……私のことは、もういいから」
彼を帰そうと肩に手をかけた刹那、跳ね返るように彼は私のその腕を払った。
「俺はあんたを迎えに来たっちゃ」
そのまま落とされた腕に海面が飛沫を上げる。あの目標の赤い垂れ布が、波に落ちた。
「あんたはそうしてすぐにふらりと消えようとする。何度止めても、気の赴くままに、忠告なんぞ聞きやしないで」
「だって、」「そんなにそれが恋しいか?」
もともと快活なひとではあるけれど、彼がこんなに矢継ぎ早に言葉を紡ぐのは聞いたことがない。迷子にしたのは豊前さんなのに、と喉まで出かかったそれは言わせてもらえなかった。彼のだらりと下がっているだけだった手が、おもむろに私の肩を強い力で掴む。その力が少しずれれば、彼の手は大きいから、そのまま私の首を締めてしまうだろう。
「……くれちやる!」
地を這うような声だった。彼が吠える、その音が振動として肌に触れる。
「あんたがほしいもの、なんだってくれちゃる。そんなにそれがほしいのなら、……いつか必ず俺が、あんたに与える! その時のあんたが嫌がろうと、逃げようと、必ず!」
ぐらりと揺すられた身体に、咄嗟に閉じた手のひらも間に合わず、びいどろは音を立てて海へと落ちる。それを目で追ってたどり着いた、私を覗き込むように射抜かんとする彼の瞳は、──赤かった。高質な、すべてを跳ね返すような、美しい光の反射を持つ、生の、赤い瞳。
「きれい」
そうだった、このひとの瞳も、美しく赤かったのだ。暗さに開いた瞳孔が、どろりとしたその生きるゆらめきを強調する。
「あんたは俺の、この瞳の色も好きやったな。……いい。この瞳に誓っちゃるよ」
思わず私の口から転がった言葉を、彼が拾わないはずもない。なにも答えられない私に、信じらんねーなら抉り取って持たせてやろうかと、当然のように彼の手が動きかけて、そこでようやく我に返る。
「待って」
彼の赤い瞳は確かに美しく輝いて、私をまっすぐに見ていたけれど、あのいつかの赤い石のような、先のびいどろのような、あの類の誘惑を持ち合わせてはいない。それは逆に光を反射し、反発させ、私を貫かんとする美しさだ。私が惹かれてきたにぶい赤の引力は、しかしこの輝きの中に含まれているのかもしれない。
 彼の頬を包んで、指を目蓋に這わせる。彼はその指に目を閉じることすらせずに、じっと私を貫き続けた。
「……あなたこそ、ほんとうは私みたいな、ぼんやりしたのに捕まるようなひとではないでしょう」
「……あんたが、俺を捕まえたっちゃろうが」
拗ねたように呟いた言葉に、彼の張り詰めていた呼吸がゆるんで、眉が下がる。それに釣られて私も、深く、長く息を吐いた。「……私も捕まっちゃった」
 そこでようやく、音が、五感が、戻ってきたような感覚を得る。身体に感じる鈍い痛み、寒さ、打ち付ける波の音。海水の肌を伝う感触。どこかで人の叫ぶ声、金属の──刀のぶつかりあう音、大勢の足音。鼻につく潮の匂い、血の生臭さ。縛られた身体が引き攣る苦痛。怒号、木材の倒れる音、何かに切られた熱い痛み。瓦の割れる音、何かが燃える臭い。彼が私を触る体温の高さ。私の肌に滴ってくるぬるい他人の血液──。そしてまた、静かな波音に戻る。
「……戻りましょうか」
「ん。帰って来てくれ」
水底に沈んだ、赤いびいどろに目をやると、やはりそれは、今だけでもきれいな誘惑を放っている。私を見つめている彼が、私のその視線の動きに気がつかなかったはずがない。けれど、先に立ち上がった彼はただこちらに手を差し出したばかりで、だから私は、震える彼の手をとってただ身を任せる。彼が心底安堵したように息をついて、こわごわと私を抱き寄せるものだから、私も少しは申し訳ない気持ちになって彼の背に腕を回した。本来なら持つはずのない彼の鼓動の音が聞こえて、けれどこんなところじゃあ彼の体温まではわからないので、初めてそこで少し後悔をした。「ごめんなさい」と漏れた言葉に、肩越しに同じ言葉で「ごめん」と返ってくる。その言葉に、このひとはもう私を躱すような心算もないのだと思うと、今度こそ悪いことをしたような気持ちになってきて、手持ち無沙汰だった手が湿った彼の髪を撫でた。ゆっくりと身体が離れて、今までのいつよりも近いところで瞳が合わせられる。「……ごめん」暗闇の中でわずかに見えたその彼らしくない縋るような表情は、彼の持つ生めかしい赤に、私を溺れさせるには十分だった。

「う……」
意識を取り戻してすぐに目に入ったのは、丸くきれいな赤い瞳で、「にゃーん」いつからか本丸に住み着いているねこが私を覗き込んでいた。
「ねこ……」
「審神者様、審神者様……! 意識が戻られましたか」
次に視界に入ったのは、少し煤けているが、これまた赤い隈取りの、──この本丸付きのこんのすけの顔である。
「う゛―ん……」
重たい身体を起こして、鈍く痛い首筋を摩ると、普段手に当たる髪が幾分かない。ざら、と土っぽい肌触りに、身体の汚れと、血か何かの液体が乾いた痕を感じる。これがどういった状況なのか、思い起こそうとするものの、記憶は途中から曖昧で、ただ最後に見たような記憶の場所は、時間遡行軍に拐かされたあとの暗い屋敷の地下牢であった。しかし私が今寝かされているここは間違いなく私の本丸の私室であるから、自らの知らぬ間に私の刀たちが、身分を取り返してくれたに違いない。
「一時はどうなることかと思いましたよ、本丸に帰城したのになぜだか目を覚さないし」
こんのすけがあれこれと話すのがあまり頭に入ってこないうちに、耳をつんざいたのは縁側の向こうの蝉の声で、ついそちらに目を向ければ、庭には見事なカンナが咲いている。眩しさに目を細めながら眺めていれば、半泣きのこんのすけは恨めしそうに、「ご無事で何よりです」と私の前に頭を下げる。その姿のいじらしさにこんのすけを膝に乗せて撫で回していたら、抗議するようにねこもにゃごにゃごと言うので、同じように膝に乗せて撫でてやった。
「おかえり、主」
不意に縁側からかかった快活な声は、豊前江のものだ。彼の声に一瞬で、腕をひとつ落とされた彼の、満身創痍の姿が脳裏をよぎる。
「ただいま、豊前さん……!」
思わず彼を振り仰いだけれど、その身体に異常は何一つない。拾い聞いていたこんのすけの報告から、刀たちの一時的な手入れはすべて終わっているとのことだったから当然といえば当然だ。急激に上った心拍数を落ち着けようと深く呼吸を繰り返していると、彼は私に近寄るなり居住まいを正して、こちらもまた深々と頭を下げた。
「主を危険な目に遭わせたのは俺の責任だ」
手繰り寄せた記憶から、彼の言いたいことが多少知れる。私が今こういう状況になっているのは、彼と連れ立った外出先で敵襲に遭ったからだった。けれど、街中での同時多発的な敵襲、その上、私自身が彼を私から離れさせて、他の本丸の審神者を守らせたのだから、頭を下げられる謂れはほんとうにひとつもない。
「そんなことは決してありません。私こそ、不甲斐なく申し訳ありませんでした。……それから、ありがとうございます」
私もまた、同じく頭を下げる。彼にここまで連れて帰ってもらった……ような気がする。それはしかし拐かされた敵の本陣からだったのか、それとも違う場所からだったのか、なにかぼんやりとあいまいな記憶が横たわっているような気がするのに、頭のどこかに引っかかっていて完全には思い出せない。こんのすけとねこが膝から降りて、ねこは珍しく彼に近寄って行った。畳についた手にねこがすり寄るものの、彼は悪態をつくことも、ましてや動くこともしない。
「ね、おねがい、お顔を上げて。決して、豊前さんのせいではありません」
動かない彼の頬を包んで顔を無理やりにでも上げさせれば、彼の赤い瞳が、きらと昼の光を反射して私に向けられた。赤く美しい、見慣れた、私が彼に惹かれる一因になった透き通った清廉な瞳の表情。
「あとできちんと手入れをしますね」
けれどそれが、どこか見慣れない色を湛えているような気がする。彼が私に視線を合わせながら数度瞬いて、私はそのなかに何か、大切なことを忘れているような気さえ覚えた。靄がかかった頭の奥底からその正体を浚う手前で、ようやく動いた彼がひとつ、ねこを撫でた。
「にゃーん」
と嬉しそうにねこが鳴いて、満足したのか縁側へと出ていく。ねこに向いた私の視線を戻させるように、私の頬を包んだ彼の手のひらが、あたたかい。
「……無事でよかった」
柔らかく慈しむような表情。瞬時に恥ずかしくなって目を逸らそうとしても、彼の手が許してくれなかった。打って変わって恋びととしての空気に切り替わった彼を、私以上にこんのすけが驚いたように見ているのは、このような関係性になってまだ日が浅いからだろう。私ですら彼のこのような表情に慣れていないのだし、こんのすけはこのように関係性が変化したことを知らなかったに違いない。けれど私は、彼のこの温かな手のひらの温度を、ほんとうに以前からもらっていたのだっけ。──ちり、と赤い閃光が目の前を走る。きれいな、赤い、誘引する、それ。彼の美しい赤い瞳がそれを湛えていただろうかと思わず覗き込んでみるものの、一瞬よぎったそれをその瞳の中に捕まえることはできなかった。
「主」
彼が私に瞳を合わす。いつもの赤くきれいな色のはずなのに、やっぱりどこかが違って見える。けれどそれはきっと、私の体調が万全ではないための思い過ごしに違いない。
 彼の瞳はいつだって変わらずに赤く輝いて、私は初めて彼に会った時からずっと、そのきれいな瞳の色が欲しくてたまらなかったのだ。

2021.03.01