上司と部下、という関係であるはずの彼が、目を覚ますと隣で静かに寝息を立てていた。暗い、電気もついていない、どこか知らない部屋のベッドの上で、見慣れた麗しい長髪が流れている。驚いて息をのむと、がんがんと頭が痛みを主張していることに気がついた。思わず手で頭を抑えると、地肌が布団にこすれる感覚がする。おもむろに布団をめくると彼も私も一糸も纏っていなかった。
 あー。と小さく呻く。あまりの光景に手の甲を瞼に押し当てた。痛む頭から記憶を引きずり出そうとするものの、何一つ掠めはしない。この状況は、言わずもがななのだろうが、どうしてかまったく思い出すことができない。ごしごしと目を擦ると、わずかに手の甲に痛みが走って眉を寄せた。そこに見えたのは引っかき傷だ。これはつまり、この密かに憧れていた上司、ユーリ・ペトロフと、私は記憶のないままに寝ていたということである。

 これまで何人の男と寝ただろう。正直なことを言うといちいち覚えていない程には、数多くの男性と遊んできた。否、その中の極数人は、きちんと段階を踏んでお付き合いした人である。しかしやはり大半は、都合の好い時に都合好く会ってきた人だった。
 恋人という立場の人間がいる時は決して不貞はしなかった。けれどもそれ以外は、遊んでいるのは自己責任であるし自由だろう、というのが持論だ。昔々に恋した男は、自分のことを身体でしか認めてくれなかった。この身体があれば。この身体があれば自分という存在を認められるというその感覚は、人生の根幹を揺るがした。それは裏を返すと、この身体がなければ、私という人間は誰にも認められないのではないかという不安である。その不安と、おそらく生来持ち合わせた享楽嗜好が相俟って、遊び歩くということが悪ではない、と、は思っている。その中で、いつしか男の背に爪を立てて痕をつけないように、相手の首に回した自分の手の甲に爪を立てることが癖となった。

 ころん、と重たい身体を無理矢理動かして寝返りをうつ。自分の隣に寝ている、あまりにも美しいその人には背を向けた。
 初めて会ったときからその容姿には強く惹かれた。部下としてついてみると、物腰はやわらかく仕事はスマートでよく頭の回る、完璧に出来上がった人間だということが知れた。落ち着いた声音もしなやかな指先も、ふと仕事中につく溜め息ですら悩ましい。ああこの人がわたしを愛してくれたら、と思うようになるのは時間の問題であった。しかしそれはそれとして、相手は自分の上司である。仕事にそのような感情を持ち込むことは自身も喜ばしいことではないために、勿論初めから、彼に手を伸ばそうという気はまったくなかった。それが、なぜか今、こうして隣合わせて寝ている。自分の恋心などは忘れて、ただただ烏滸がましいなと感じた。
 溜め息をつく、頭が重い。どうしてこの人はわたしを抱いただろう? 沈み込んでいく思考を救い出す術はなく、経緯の記憶すらも曖昧に思い出せない。この上司はわたしと遊んでくれたのだろうか(そのようなことをする人だとは思えなかったけれど、このわたしですら潔癖の生娘に思われることがいくらかあるので、人の判断なんてわからないものだ)。あるいは少しは心を持って……、そう考え出した頭を強制的に引き戻した。利己的になるのは、結局あらぬことで自らを傷つけるのでやめたほうがいい。ここで朝を迎えるのはあまりよろしくないだろうなあ、とのんびりと頭を動かして(名残惜しいという感情には苦笑した)、上半身を起こした。
 その刹那。思いがけず腕を取られて背中からベッドへと落ちた。白く細い、筋肉質な腕が後ろからわたしが起きるのを遮っている。
「何処へ」
と短く低い囁きがわたしの肌を粟立てた。
「帰ろうかと。……ここはどこですか?」
「私の自宅です」
「いつから起きてらしたのですか、あと、離してください」
「貴女がその手の甲を確認したあたりから。後者は却下です」
「意地の悪い方ですね、起きているのならそう教えてくれたらいいのに」
何時の間にか身体の前に回された腕は、段々と力を増していく。わたしが身動きをとるのを、彼は阻止している。密着した背中には彼の低めの体温を感じた。首筋に吐息がかかる。

「裁判官」
わざと、普段呼んでいる役職名を強調したような言い方をした。読めない彼の心情を好意的に捉えるには、自らの立ち位置が複雑すぎる。こうやって抱きとめられるというささやかな夢の幸福を甘受してしまえば、現実に引き戻されたときの絶望感に打ち拉がれてしまうだろう。それならば最初から、夢など見ないに限るのだ。
「"ユーリ"」
「……はい?」
「つい先ほどまで貴女はそう呼んでくれたのに」
催眠をかけるような甘い言葉が耳元からわたしを貫く。
「……ミスター、ペトロフ。わたし、まったく覚えていないのですけれど」
「そうかもしれませんね、あの様子では」
「飲み過ぎていましたかね、頭が痛いです」
昨夜、仕事終わりにバーで酒を飲んだことまでは覚えている。見知らぬ男と隣り合わせて。気が合いそうだったので、きっと今夜はこの男と遊ぶのだろうなという予感がしていた。……男? あの男はそういえばどうなっただろう。
「そうやって貴女がまた違う男と不用心に歩いているから、攫ってきてしまいました」
「なんでそれを知って……? 一体昨夜どこで貴方と」
「昨夜だけではありません。あの行きつけのバー、あるでしょう。あの付近で貴女をよく目撃していました。家に帰ってくるにはあの道を通るのが一番ですので。……様々な人間といっしょにいますね、いつも連れている男が違う」
その言葉を聞いた途端、息が詰まった。悪いことをしているつもりはないし、別段そうやって遊んでいることを話もしないだけで隠し立てしているわけでもない。ただ、ただ知られたのが彼だったことに、ひどく動揺した。彼の手が臍の下辺りを撫でる。
「貴女のその手の甲の、傷の理由がやっとわかりました」
身体をこわばらせたとは裏腹に、とてもおだやかな声音を持ってユーリは話す。
「っ、離してください……!」
いてもたってもいられなかった。自らのすべての行いを、あろうことかこの人に知られていたことが、苦しくて仕様がない。その上どういう理屈を持ってわたしを抱いたのか、まったくわからないことが悲しかった。
 必死に藻掻くを他所に、彼の腕は依然彼女を閉じ込めたままだ。
「落ち着きなさい。このような状況を自分で作っておきながら、こんなことを言うのはどうかと思いますが、……貴女は無防備すぎです。昨晩の貴女を攫ったのは、貴女があの男にまぎれもなく一服盛られていたからです」
「そんな、」
「だから、覚えていないんでしょう。前後不覚でしたよ。あのままあの男に貴女を明け渡していたら、今頃貴女はどうなっていたか」
その言葉にさっと肝が冷えた。
「……ごめんなさい。……助けていただいて、ありがとうございます」
抵抗をやめたをユーリは静かに抱えなおす。わたしがここにいる理由は判明したけれど、未だこの状況の経緯はわからない。酩酊した以上に酷かったのであろうわたしが、きっと無理強いをしたに違いない。彼は恐らくそれに乗じただけだ。
「でもわたし、帰らないと、」
そう呟くや否や、彼はぐいっとを後ろに引き寄せて、そのままその身体に乗り上げた。ぐらぐらと揺れる深い灰色の瞳と初めて目が合う。眉根の寄った険しい目は、獰猛な狼を思い起こさせた。
「貴女をここで帰してしまってまた危険に晒すくらいなら」
整った顔が歪む。しかし歪んでしまっても、恐ろしいほどに綺麗な顔だと思った。静かに上下する自分の胸が見える。目をそらした彼女の顔をぐっと掴むと、あとちょっとで唇が触れそうになるその距離までユーリは顔を近づけた。
「帰さない」
と一言、唸るように呟く。
「貴女を傷つけるものから囲ってしまいたいとずっと思っていた」
至近距離で鋭い瞳に射抜かれて、は身が竦んで言葉が出なかった。顎を持ち上げていた手が頬を撫でる。
「あのバーで貴女を見かけると、次の日には手の甲の傷が増える。それをつける男がずっと憎かった」
唐突な、告白ととれなくもないその言葉に混乱する。
「私では、あの男どもから貴女を攫えませんか」
その瞬間に、の目からぶわりと涙があふれた。
「だって、わたし、そんな」
言葉を紡ぐと、吐息が混じるのがわかる。
「貴方に愛されていいような女では」
ないのに、そう続くはずの言葉は彼の手が呑み込ませた。の口元をしなやかな手が強い力で覆い隠す。
「貴女のそういうところは美徳であり欠点です」
それに驚いてまたたくと、はたはたと涙が目尻から流れた。
「私が貴女を愛する理由を、貴女自身が必ずしも認める必要はない」
強い一言だった。すべてを見透かすような灰色の瞳が鋭くわたしに斬り掛かってくる。信じられない気持ちは多々あれど、それは確かにもっともかもしれないとは思った。
「絶対に私が貴女に傷をつけないとは言い切れないでしょう。でも、貴女を傷つける男どもよりかは確実に、貴女を守る」
くふ、と抑えられた口元で吐息が漏れる。この人は、この人なら、この身体がなくともわたしを愛してくれるのかもしれない。夢をみることを、許されているのかもしれない。
 は彼の流れる銀髪に震える手を差し込んだ。背中に腕を回す。抑えられた口元が解放されると、その代わりにゆっくりと唇が塞がれた。

 白む空に三日月が透ける明け方、は男の背中に久しぶりに爪を立てる。

2011.10.13
(2016.10.03)

ユーリさんがようしゃべる………