「イワンくーん! お疲れさまです! ねえ、今日は飲もう! 朝まで飲もう! いいお酒が手に入ったの」
夜10時。
遅くまでトレーニングルームに残っていたイワンを捕まえては誘った。彼と彼女はそういう仲である。頻繁に互いの家を行き来し、酒を飲みかわす。飲みながら夜を明かし、いつのまにかその場で眠る。俗に言う、友達以上恋人未満というやつなのかもしれない。彼が"恋人未満"とまで思っているかは不明だが。
「ああ、ちゃん、お疲れさまです。明日は一応休みだし、いいですよ」
イワンはトレーニング後の爽快感の中の、心地よい疲労を滲ませた表情をふっと笑顔に変えて振り向く。見切れ職人と謳われほぼポイントなしの彼がこんなにも熱心に身体を鍛えているなんて、誰が想像するだろうか。そんな彼の熱心な姿と普段の笑顔とのギャップがにはとても魅力的であった。
イワンの家で飲もうということにして、は一旦家へ帰る。前回飲んだ時はうちを使ったから、今回は彼の家になるだろうことは予測済みだった。手早くシャワーを済ませて気に入りの下着を身につける。いつも着ていくジャージに今日は腕を通さず、ラフな薄手のワンピースと上着をセレクトした。髪は適度見繕って、手土産を持って彼の家への道を辿る。
さすがにあからさまに格好が違いすぎただろうか、と、夜風に当たりながらふと冷静になる。何もかも計算づくのようなやり方だが、こうでもしないとには勇気が出なかった。
今夜、この関係に決着をつける。別に現状に不満があるわけではないし、むしろ楽しくて楽しくて仕方がないのだけれど、今のこの安定した楽しさに満足できなくなっている自分に気づいてしまった。一線通り越したその先を望んでいるのだ。願わくば私は彼の恋人になりたい。今まで散々友達として接してきた癖に、今更だ。
の家とイワンの家のほぼ中間地点くらいで、彼は今日も待っていた。
「あ、ちゃん」
「いつもわざわざありがとうです」
夜道に女の子一人は危ないから、と毎回わざわざ彼は出迎えに来てくれる。並んで歩く際に手土産を持っているときなどはさりげなく持ってくれたりと、初なようでイワンは紳士だ。女の子としては見られているのだと少しだけ自負できるその瞬間がには嬉しかったけれど、手慣れたその様子から昔隣にいたのであろう女の子を連想させて少し複雑な気分でもあった。
なにやかやと雑談をしながら家まで歩き、彼に続いてキッチンまでついていく。グラスなどを準備しながら手土産の品を開けた。
「この前両親が送ってくれたのだけど、日本酒は飲んだことあってもこれは飲んだことないでしょう?」
そう言って袋から出したのは女の子が飲むにはなんとも渋い焼酎で(この際親がどうして可愛い一人娘にこれを送ったのかは問題ではないと思いたい)、パッケージが思いっきり日本語なのを確認すると、イワンの目がきらきらと輝いた。それを確認してグラスに注ぐ。とりあえず一杯目は五分五分の水割りにしておいた。
それらをリビングに持って行き、ソファに腰を落ち着けたのは十一時半くらいだったか。いつものように隣同士、間には少しの距離をおいて座る。手が触れ合わない程度の距離。そのもどかしい距離が埋められるかを今晩自分の行動が決めるのかと思うと胸が苦しくなった。
とてもくだらないことから難しいことまで雑談に花を咲かせる。その間にも酒はすすみ、ロックだのお茶割りだのと空けたグラスは三杯どころではなかった。日本人としてはアルコールには強いはずのが顔を赤らめているのを余所に、お国の血なのかイワンはだいぶ涼しい顔をしている。火照った身体を冷ますのにが羽織っていた上着を脱いで、その手で目の前のグラスを空けたところで、ぐらりと彼女の視界は揺れた。
「……ちゃん! ちゃん! 大丈夫?」
はっと気づくとイワンに身体を支えられていて、心配そうな表情でこちらをのぞき込んでいる。
「え、あ……大丈夫、です」
自分では状況が掴めないままに返事をする。さすがに度の強いものを飲みすぎただろうか。いつもなら少しでも長く会話をしていたいとちびちびと口にするのだけれども、今日は変な気合いを入れていたばかりに煽りすぎてしまったらしい。そんなことをぼうっと考えていた頭を叩き起こしたのは、自分を支える紛れもない彼の体温だった。
ああ、わたしが欲しかったのは、この温度だ。
「水、持ってくるから」
そう言って離されそうになった身体を慌てて引き留める。アクシデントとは言え、チャンスだと思った。この先を押し進めてしまえば、もう先程までの関係には戻れない。酔った頭には、それを躊躇する余裕も、普段なら感じる気恥ずかしさも考える余地はなかった。
「やだ、いかないで」
そう言いながらイワンの首に腕を回す。酒が入っているから成せる技だな、と頭の片隅では冷静に俯瞰している。
「、ちゃん……?」
一瞬、イワンの身体がたじろいだ。嫌なのかもしれない。嫌なのかもしれない。でもそれなら今晩だけでも、たった今だけでも、この体温は手放したくなかった。
「イワンくん」
倒れかかった身体はいつも以上の身長差を生み出している。彼の胸元から顔を見上げた。彼の顔に酒ではない朱が差したのをは見逃さなかった。ぎゅうっと首もとに抱きついて、自分も体勢を立て直す。膝と膝が触れ合う程度の距離まで近づいて、そのまま顔をあげずに、肌の白い彼の綺麗な喉元に顔を埋めた。
「ちょっ、っ!」
その舌の感触に彼がわずかだが頭を後ろにひいて顎をあげる。身体を震わせたのを皮きりに、段々とそれは大胆になっていく。を支えたまま腰にあった腕は肩に移動され、彼の腕がの身体を離そうと強いけれども強制力のない力を入れた。そのわずかな抵抗感に、きっと今日で終わりだな、とぼやけそうになる意識の中で思う。肩を押されている力を寂しく感じながら、すっとは動きを止めた。と、同時にイワンの抵抗も止まる。その一瞬の隙にぐっと体重をかけて彼の身体をソファに押し倒した。わっ、と驚いた声があがる。彼の顔の両脇に手を突いて、狭いソファの上で彼の上に跨った。
「わたしと、こういうこと、するのはっ、いや、ですか」
切れ切れにしか発せなかった言葉。ぐわぐわする頭ではもう自分がなにをしているのかもあまり認識していない。ただ頬に涙が下ったのだけはわかった。
彼が困った顔をする。彼は優しいから、わたしを傷つけない術を考えている。
ぐらり、とまた身体が揺れた。イワンの身体の上にばたりと倒れてしまう直前に腕に力を入れて身体を支える。それでもゆっくりと腕の力は抜けて、彼の身体の上に重なってしまった。一度力が抜けた身体はなかなか持ち上がらない。身体が熱い。二人分の体温と酒と、少しばかりの羞恥心のせいで。明らかに息があがって上下しているの背中にイワンは腕を回した。そのままゆっくりとイワンが身体を起こす。ソファにを座らせて立ち上がった。なんの言葉もなく立ち去ったその後ろ姿を見送っては静かに目を閉じた。
ああ、終わった、なんて思いながら酒に酔った身体に身を任せる。淀んだ意識に引きずりこまれそうになったところを掬ったのは、唇の知らない感触と喉を通る水の冷たさだった。うっすらと目を開けると鼻が触れそうな距離に彼の顔がある。こつん、と額が合わせられた。水滴のついた彼の唇はやけに色っぽいなと思う。の頬に添えられた手が後頭部にまわって、また喉を冷たい水が下った。
唇が音をたてて少し離れて、角度を変えてはまた合わせられる。徐々に覚醒してきたの頭はすべてに追いつかない。最初は触れるだけだった唇も、舌が唇を這ったのに驚けばすぐに口付けは深くなった。くぐもった声が漏れ、散々口内を跳躍した後にゆっくりと唇が離れる。閉じていた目を開けると二人の唇の間を銀糸が伝っているのが見えた。そんなに顔が離れていない時点で目があって、なぜか身体がびくりと揺れる。彼は合わせた目を逸らそうとせずに、それでも瞳はゆらゆらと揺れていた。彼の意図がまったく読めない。わたしは応えてもらえているのだろうか? ためらった手は自らのスカートの裾を掴む。彼の目がぱっと横に逸れたと思ったらぐらりと視界が揺れて、今回は意識はあるのに身体が倒れていた。彼の腕によって、押し倒されたのだ。後ろに倒れたことで自分たちがいるところがソファではないことに気づく。見回しても知らない部屋で困惑したが、彼が乗り上げたこれがぎし、と音を立てたので何処なのかはすぐにわかった。今度はわたしの方が事態についていけていない。イワンがスカートの裾を握っていたの手を取る。指を絡めて顔の横でベッドに縫い止めて、それから彼が首筋に顔を埋めて、
「これが、さっきの答えです」
その言葉を聞いたあとのことは、先に飲んでいた酒の所為かほとんど覚えていない。
2011.07.27
(喉:欲求)