夜11時前。
 うちに飲みに来るという彼女を出迎えに行く。軽くシャワーを浴びて濡れている髪が夜風に吹かれて少し冷たい。いつも待ち合わせる場所につくと十分もしないうちに彼女は現れた。

「あ、ちゃん」

と、声をかけてから内心動揺する。いつもジャージで来る彼女が、今夜はやわらかいワンピースを着ている。「寝間着、新しいのにしちゃった」と照れたように笑う彼女は、なんというか、いつもより、女の子だった。

「いつもわざわざありがとうです」

彼女の使う言葉は敬語と平語の間の、おかしな言葉だ。しかしそれは僕と彼女の関係性を如実に現しているように感じる。友達以上恋人未満、というやつなのか、それとも彼女はただの友達だと思っているのかはイワンには図りかねる。
 中身が重いことを物語っているかのように持ち手が細く伸びてしまっているビニール袋をさりげなく彼女から受け取り、少し早足で家へ向かう。あまり長く、そんな女の子な彼女を人目に触れさせたくなかった。別に誰か知り合いなどとすれ違うわけでもなく、彼女とは恋仲でもなんでもないというのに。沸々と沸き上がる独占欲をそれと気づかぬようにイワンは彼女との会話に集中した。

 勝手知ったる、というように台所に立つ彼女を見ていると、それがなんともむず痒くて、この曖昧な関係を脱却したいと思わせる。それでもイワンには一歩踏み出せる勇気はなかった。一度壊してしまったものは元には戻らないということを、身を以て知っている。それならば、この想いは自分の中だけに留めておいたほうがいいのだ。彼女のためにも、自分のためにも。

 きちんと腰を落ち着けたのは十一時半頃だったか。彼女はわざわざ両親が送ってくれたという日本の酒を開けてくれた。それは苦くて独特な匂いがして、少し度が強めのようだったが自分はとても気に入った。

 話が一区切りしたあたりで、ちら、とを窺う。彼女はグラスを両手で包みながら目を伏せて物思いに耽っていた。片側に髪を寄せている所為できれいに見える首筋は少し赤味を帯びていて、アルコールがまわってきているのを感じさせる。
 彼女に触れてこちらを向かせたいのを我慢する。アルコールで身体をほんのりと桃色に染めた彼女はいつ見ても目の毒だ。触れてしまったら最後、止まらなくなってしまいそうで、このふたりの間の微妙な距離感も、自分を自制するために無理矢理つくっている。

 一時も手前になった頃、開けたグラスは四、五杯にはなっただろうか。自分はほろ酔い程度にしかアルコールはまわっていなかったが、彼女はかなりまわっているように見える。理由などはわからないが、今日はいつもより彼女の飲むペースが早かった気がする。
 彼女が羽織っていた上着を脱いだ。きっと目の前のグラスを開けたら彼女は眠るだろう。するりと上着から抜いた腕は細く、いつもなら見えない肩は華奢な女の子そのものだった。静かに深呼吸をして、今にも彼女に触れてしまいそうな衝動を押さえつける。きっとすべて酒の所為だと自分を落ち着かせて。この格好のまま寝てしまっては風邪をひくだろうからタオルケットでも用意するか、などとまったく色気も何もないことに強制的に思考を移動させたところで、ふらり、と彼女が倒れた。

 突然の出来事に咄嗟に彼女を受け止める。やはり飲みすぎだったのだろう、遠慮がちに何回か呼びかけても意識は戻らない。

ちゃん! ちゃん!」

少し大きめの声で呼びかけると彼女はうっすらと目を開けた。

「大丈夫?」

先ほどまで触らないようにと必死に抑えていたのに、それさえも忘れて慌てて顔を覗き込む。

「え、あ……大丈夫、です」

その声に少しだけ安堵する。ほっ、と胸を撫で下ろし、はっとした。彼女の少し熱めの体温が肌に伝わってくる。彼女の目は潤み、薄く開かれた湿った唇は熱い息をこぼしている。ずっと触れたかった体温は心地よく、抱き留めてあわよくばこのまま、と考えて思い直した。酒の勢いで、なんて不甲斐ない真似はしたくない。

「水、持ってくるから」

まず自分を落ち着けるために彼女から離れようとする。しかしそれを引き留めたのは彼女の腕であった。

「やだ、いかないで」

彼女の腕は首にまわり、意図せずとも近くなった距離に心臓は跳ね上がり顔に血が集まる。

、ちゃん……?」

彼女は酒に酔っている。今手を出してはいけない。手を出してはいけない。

「イワンくん」

甘い響きで呼ばれる名前はぐらぐらと心臓を揺さぶる。必死に気持ちを落ち着かせていると、彼女の僕を拘束する腕が強くなった。すると間もなく彼女は体勢を立て直して、執拗においていた距離をも取り去ってしまった。

「ちょっ、っ!」

彼女の意図は掴めない。喉元に生温い感触がして唇が寄せられる。なんだか誘われているようにしか思えなくて、それでも酒の所為で誰かと自分を間違っているように思えなくもない。離しがたい彼女の体温から逃げるように肩を押す。ふと止まった彼女に少し寂しさを感じながら(自分が我が儘だと言うことは言うまでもなく)、これでよかったのだと混乱している頭の中を宥めていると、ぐいっと身体が押され、力を抜いていたために抵抗もなくソファに倒れてしまった。彼女の細い脚が、動きを封じるように自分の胴を跨ぐ。彼女の白い腕は、顔の両横について、これではまるで、押し倒されたような、

「わたしと、こういうこと、するのはっ、いや、ですか」

その言葉を聞いた直後、体勢を立て直して襲ってしまいたかった。意中の人に熱い吐息で押し倒されていながら応えないなんて、どれほど野暮だろう。だがそれも躊躇われるほどに彼女を傷つけてしまうのが怖くて、もしなにかの間違いで彼女がこういう振る舞いをしているのなら、と思うと抱きしめようかと伸ばした腕も彼女の背中までは回らなかった。答えられずにいるうちに、長い髪で暗く影を落とした彼女の頬に涙が下る。それはぽたぽたと自分のジャージに吸収されていく。涙を拭いたい。それでも拭おうかと少し躊躇したほんの少しの間にまた彼女の身体が揺れた。受け止めようとするもその前に彼女が腕に力を入れる。それでも堪えられなかったのか彼女の身体は胸元に落ちた。
 もしかしたら自分も、結構酔っているのかもしれない。重なっている部分が熱く、身体が汗ばんでくる。その体温が嬉しくはあったが、しかし彼女は悪酔いしているだけではないか、などと幸福をどこか疑ってしまっている。自分の後ろ向きな性格を憎く思いながらもとりあえず状況を打開しようと力が入らないのであろう、大人しくなってしまった彼女の背中に腕を回し、負担をかけないようにゆっくりと起き上がった。呼吸にあわせて彼女の肩が上下する。スカートのはだけた脚の白さが目立つ。このままでは彼女をほんとうに無理矢理に壊してしまいそうだと思った。それだけはどうしても避けたくて、自分を宥めるために彼女の身体を離した。

 台所にペットボトルの水を取りに行く。冷蔵庫から取り出しそれに寄りかかり、ふう、と一息ついた。ああほんとうに彼女は、僕を僕として見て発言しているのだろうか? 彼女から離れ、だんだんと熱が逃げていく。それと比例するかのように不安は大きくなっていって、消極的な考えばかりが頭に浮かんでは消えていった。ペットボトルを額に当てて、気分だけでも頭を冷やそうとそのままリビングへ戻る。

ちゃん、水……」

そう言いかけて、彼女がソファに沈んでいることに気づいた。悪酔いした上にあれだけのことをすれば、それは身体的にも精神的にも削られてしまうだろう。ソファの端に腰掛けて眠っている彼女の髪を撫でる。信じがたいけれどもし、もし彼女の好意が自分に向いているのだとしたら、ここまでも無理をさせたのは自分なのかもしれない。そしてそれをなんだかんだと言って気づかない振りをすることは、余程酷で、馬鹿げたことなのではないだろうか。自分の情けなさに気分を重くしながら、彼女の髪を撫でる手を止めた。
 いつもならリビングで雑魚寝するのだが、今日の彼女は薄着である上にあれだけ飲んでいる。こんなところで寝てしまっては体調を崩しかねない。起こすのは憚られるしどうするか。散々逡巡した結果、

「ちょっと……ごめんなさい」

そう一応ひとりごちてから彼女を横抱きにした。朝起きて飲めるように、と水のペットボトルを片手に持って移動する。寝ている人は重い、とは言うが彼女は思ったほど重くはなかった。寝室を開けて、ゆっくりとベッドにおろす。膝裏から腕を抜き、横たえようとしたところで彼女の目が開いた。

「あ、イワン、くん」
「ごめんなさい、起こしましたか?」

ふるふる、と首をふる。目はまだ微睡んでいて、ほんとうに起きているかは定かではなかった。また彼女の腕が首にまわる。彼女の唇が一回首筋に触れて、それから、

「あの、お水、ください」

彼女はなんとも気の抜けたことを言った。どきりとした心臓が静まる気配もない。こんなにも彼女の一挙一動に振り回されるなんて、今まで思いもしなかった(もっと艶っぽいことを期待したなんて言えるはずもない)。聞こえてくる自らの鼓動が落ち着かないことがなにか悔しくて、仕返しがしたくて、ペットボトルをおもむろに手に取った。彼女に渡す前に開けて、水を口に含む。不思議そうに見上げてくる彼女を支えながら濡れた唇で口づけた。頬に手を添えて、唇を割ってゆっくりと水を流し込む。飲み下すのを見届けてから唇を離した。一度閉じた瞳をゆっくりと開けた彼女と目があって、先程とは違う目の光が宿るのを見て、ああ、起きたな、と悟った。それでももう彼女から離れることはできなくて、こつんと額を合わせてから、抵抗させる隙を与えずにまた彼女に唇を落とした。

2011.07.29

(首筋:執着)