「今日も月が綺麗ね」
 彼女と共に暮らし初めてからもうだいぶ経つが、彼女がその言葉を欠かした日はない。当然月が見えない日もあるが、その日はその日で星を讃えてみたり季節を讃えてみたり。彼女の母国の感性か、ほんとうによく自然を讃えている。もはや日課のようになっているそれを最近は不思議に思うこともなくなった。

 

「それは、あれだ。お前は愛されてるんだな」
久しぶりに飲みに出掛けた先で何気なくその話をすると、虎徹はグラスを掲げながらにやりと笑った。虎徹の言葉の意図するところは掴みきれない。自然を讃えることでなぜそうなるのか、アントニオには理解出来なかった。きっと彼にはその表情がわかったのだろう、アントニオが何も言わぬ間にまたもにやりと笑った。
「何十年も昔の話だ、まだ日本人が英語をあまり理解出来ていなかった頃」
虎徹はグラスを回しながら唐突に話し始める。
「ある偉い文豪さんが英語の教師をしていて、生徒に英文の和訳をさせていた。"I love you."という文章をその生徒は律儀にもそのまま"我君ヲ愛ス"と訳した」
未だその話がなんの関わりを持つのかわからない。話を遮ろうと口を開こうとすると、虎徹は手でそれを制した。
「それで、だ。その和訳は正解だったわけだが、その文豪はそうは訳させなかった」
からん、と氷の溶ける音。
「"それは、月が綺麗ですね、とでも訳しておきなさい。日本人にはそれで伝わるはずです"と、その文豪は言ったそうだ。そう俗っぽい物言いをしなくても、ということらしいが……はそれを踏まえて言ってるんだろう。たぶんお前に伝わらないことは百も承知でな」
溶けた氷のぶん薄くなった酒を虎徹は喉に流し込む。ああなんだそうだったのか、とその話はすとんとアントニオの心に落ちた。彼女はその言葉を、おかえりなさい、という言葉と共にいつも言っていたのだ。自分はと言えばあまりきちんと返事をしていなくて。
「ありがとう」
グラスを空にしてアントニオは立ち上がる。
「おうよ、今日は気の利いた返しでもしてやれ」
虎徹は手をひらひらとふって、グラスを煽っていた。彼が帰る気がないのを確認して、彼の分まで支払ってから店を出る。夜風にあたりながら見上げると、空には雲に隠れ、ささやかに光を放っている月が浮かんでいて、それは彼女が一番好きだと言っていた月だな、と思いつつ帰宅後の彼女の言葉への返答を練り始めた。

おかえりなさい、──

2011.08.04