投げ出された彼女の手首には、古傷の痕が見える。普段は見えないそれは、アルコールが入り身体が赤く染まらない限りわからない彼女の秘密だ。表面上はただの皮膚で、撫でてみたところで彼女が擽ったそうにするだけで何もない。赤い線の重なっているそれが、まだ生々しい傷痕だった頃、それはおそらく彼女と知り合う随分前のことを、僕は知らない。それとなく聞いたことはあったが、細かな事情は教えてもらえなかった。無碍に過去を詮索することもないので、それきりその話題はしていない。けれどそうやって深追いしないことは自らを守る為の言い訳に過ぎず、本当は過去を聞いてしまって自分自身が傷つくことを怖れているだけなのかもしれない。
隣で寝ている彼女に目を向ける。まったく無防備な寝姿を僕の前に投げだしているのに、きっと彼女には僕に晒していない部分がたくさんある。ひしり、と彼女の手首を掴む。すべらかな、ただほんのりと赤い色をしているだけの手首。撫でてみたところでそこから彼女の本心を伺うことは勿論できない。
ほんとうは、ほんとうはこの傷のことが知りたい。それだけでなくても、自分と出会う前の彼女のことが、特にはこの傷に関わった人間が彼女にとってなんであったのかが知りたい。すべてを知ろうとすることは、傲慢で罪なことだとわかっている。けれども秘密の象徴のようなこの傷を放っておくことは、なんだか他の誰かに彼女の心をやすやすと奪われ続けているような気がして耐えられなかった。
これをはたして独占欲などという言葉で片付けてしまっていいものなのかはわからないが、しかしその他の適宜な言葉が見つからない。自分がこんなにも独占欲が強いなんて、と付き合うまで気付きもしなかった。今までの恋人も大事にしてきたし、それなりに好きであったはずなのに、こんな気持ちにさせられたことは彼女以外にはなかった。
「どうしたの」
ふと声がして、その方を見るとの目はぱっちりと開いていた。その瞳には月の光が反射している。
「なんでもないよ」
取り繕った笑顔の眉が下がっていることが自分でもわかる。
「嘘、なあに」
ぎゅうと掴んだ手首のことを、彼女はきっとわかっているなと、彼女の目が物語っていた。ごまかしのきかない彼女の目にいたたまれなくなる。今を逃したらもう二度と聞いてしまえないだろう。夜中だからか、寝起きだからか、はたまた少し煽ったアルコールのせいか、今なら彼女に許されているように感じる。彼女と目を合わせると、手首を引き寄せて赤い線に唇をあてる。すっと一本、舌で線をなぞった。ぴくりと彼女の肩が揺れる。これがまだ生々しかった頃には赤の他人だったはずの自分の方が、この傷の持ち主よりも余程それに縛られている。
「……こんな痕、イワンくんが見るものじゃないわ」
彼女が静かに放ったのはそんな言葉だった。彼女がぐっと腕をひいて、拘束から逃れようとする。それを僕の手が許さなかったのを見て、彼女はもう片方の手で手首を隠した。
「僕は見たい。のことなら、なんでも知りたい」
彼女の目は手首を見ている。
「これは、」
続かない言葉の先でかちりと合った目元が弧を描いている。それは優しく暖かく、今まで自分が見たことのないような瞳だ。
「昔、好きだった人の思い出」
ああ聞きたくなかった、と理不尽にも思った。今の彼女の目に僕は映っていない。否、月の光とともに眼球に映っているのは僕であるが、その目の見ているのはその昔の男の姿だ。彼女にはきっと僕の動揺が手に取るようにわかっている。
「まあ思い出なんて生温いものじゃないんだけれど」
と目を伏せる。彼女の眼球には影が落ちた。握り込んだ彼女の手首は、細くて力を入れたら折れてしまいそうだ。
「でも昔の話よ? もうどうでもいいの。いま好きなのは、まぎれもなく貴方なんだから」
ずるいなと思う。昔の男を映した目で、ぼんやりと彼女は僕を見る。
「僕は、」
彼女の目は帰ってこない。自分で引き出したくせに、自分を見てくれないことが我慢ならない。握った力の緩みかけていた手首を徐に掴んで唇を当てた。眉間が寄っているのは自分でもわかっている。きっと今、とてつもなく情けなく、ひどい顔をしている。言葉を紡ぎかけたくせに、続きは何も思いつかない。静かに呼吸している彼女が憎らしくなって、苦し紛れに彼女の古傷の痕に歯をたてた。
「痛っ」
小さく声を漏らしたその顔は歪められている。彼女の目がやっと僕に帰ってくる。意外と強く噛んだのか、それとも噛んだ場所の所為か、そこにはすぐに鬱血による赤い華が咲いていた。それに少し口角を上げ、手首を押さえ込みながらの上に覆い被さる。黙って僕を見上げる漆黒の瞳には、今度はきちんと僕だけが映っている。
「その人を思い出せなくしてあげる」
いつになく強気な言葉を吐いた。厭な笑みの貼り付いた顔で。自分こそ狡いのは承知の上だった。彼女が僕のこういう一面が好きだということをわかっていてやっているのだから。垂れた白銀の髪が彼女にかかるくらいに顔を近づける。
その瞳にもう誰も、僕以外の男を映さないように。彼女は唇を引き結んで何も言わない。その白い顔の目の前で、押さえ込んでいた手首を取り上げてもう一度傷痕に赤い舌を這わせた。新しくできた痕は消えそうもない。
2011.08.18
(手首:欲望)