夢の中に浮遊する蒼い人魚を見た。それは淡い青色のような。それは深い藍色のような。尾鰭を閃かせながら碧の中を泳ぎ、時折こちらに振り向いて、笑う。笑う、けれど、それはただの気配のみで、逆光の中の人魚は輪郭を浮き立たせているのみだ。細かなことは何も見えない。近くに、遠くに、くるくると回り、それは楽しそうにそれは自由に泳いでいる。一方で彼の身体は、中心が抉られるような不快感に晒され、思わず、嗚咽が漏れた。何かを吐き出したくて、けれど吐き出せない。何かが身体の中心に引っ掛かったままでいる感触。彼もまた浮遊しているその空間は海中のようであり、水中のようであったけれども、呼吸は普通にできているのが夢だと実感させられる。
 はっと彼が気が付くと、人魚は向こう側から歩み寄ってきていた。二本の細い脚がしっかりと地を歩く。しかし近付くにつれて、歩み寄る彼女のその足元が赤く光るのが見える。それは軌跡のようでもあるが、光ると瞬く間に消えた。彼女が足を止めればその場はさまざまな赤に色を変えながらずっと光り続けている。それは、いつか見た、誰かのミュージックビデオのような光景だった。恐らく夢の中を借りて、記憶を反芻し、整理しているのだろう。ミュージックビデオの彼は、足取りも軽やかにステップを踏んでいたが、彼女の歩みは軽くはない。表情はやはり分からなかったが、重く、鈍い歩の進め方だ。全身が痛みを表しているようにも思えたのは、先日たまたまテレビで見かけたバレエの影響だろうか? ともすればこの夢は、あのよく知られた童話の世界で……。結末を思うと、瞬時に目の前が暗転した。
 光は明るくなり辺りは橙色に。人魚であったはずの彼女は彼に背を向けて、その後ろ姿はとても着飾られている。おもむろに、彼と彼女との間に一組の男女のシルエットが横切った。動きに釣られてそれを見送り、再び彼女に目を向けた時には彼女はこちらを振り向いている。──目が合った。気がした、だけだ。彼女の顔には影が落とされていて表情など見えはしないのだから。それでも彼女の口元だけが歪むのが見え、そのかたちには見覚えがあった。その口元を思い出そうとするうちに、彼女が大袈裟に短剣を抜いた。それがどこから取り出されたものなのかは知る由もない。彼はこれが夢の中であることをもう自覚しているつもりだった。突然何が起きてもそこまで驚くことはない。
 淡々と物語が進む。彼には彼女がその剣を人影に突き刺すことができないことは分かっていたが、その行く末を見守る。一人で観劇をしているような、そんな気分だ。そう思ってみると実際に、彼の周りは誰も居ない劇場の座席になる。主人公の彼女は影を追って奔走する。視界の先はまた濃い青に包まれていた。その暗さに紛れて影は消え、煌めいた短剣の刃も一瞬のうちに消えてしまった。その舞台の変わりように、終章か、と思うのは自然で。只暗かっただけの青色は次第に紺碧色に変わっていく。
 スポットライトが当てられたかのように彼女のいる場所だけが白く取り残される。顔を上げ、少し髪を弄った彼女のその仕草に彼ははっとした。眼鏡を掛けていないはずの彼の視界は、眼鏡を掛けているときのそれと変わらず、クリアだ。主役の彼女の手の動作、細かい指の動き。しなやかに踊る体躯、その仕草。表情すら見えないものの、それは彼のよく知る人のものだった。どうして先ほどの口元ですぐに思い出せなかったのか不思議なほどに。それは彼が唯一心を開く、唯一愛する彼女の……。そう気付いた途端、彼女は踊るのをやめる。それでも音楽は鳴りやまない。管弦だけの静かで、独特なその音色は耳を擽り続ける。踊りすらしないものの、彼女は未だ、自ら終焉を迎えようとする姫君だ。

 やっとのことで名前を口にして手を伸ばすと、途端に視界に映ったのは空気の泡。音楽も何もない、彼と彼女のいる空間は海底に戻っている。声も聞こえないことに焦り、ぱくぱくと口を開閉したその様子に表情の見えない彼女は雰囲気で微笑んだ。徐々に輪郭がぼやけていく。顔は結局影となり見えないまま、彼女は彼に背を向けた。
「じゃあね」
 一言、聞き違えようもない彼女の声に、冷水を浴びせられたかのように身体が硬直した。夢だ、夢だ、と自分に言い聞かせつつも心は焦ることを止めず、その一言が多大な現実味を帯びて彼に襲いかかる。先ほどまで明確だった視界もだんだんと歪み、目元をこすり必死に視界を確保するも虚しい。霞んでいく視界の向こうで彼女はだんだんと水に身体を溶け込ませていく。この物語の終末は泡だ。幸せと見せかけた、バッドエンド。声を発したい口からは泡だけが漏れ、いくら藻掻いても彼女に近づくことはできない。
 やっと心から信じられる人に出会ったのに。言いようもない焦燥感が身体を駆け巡る。彼女を、手放したくなんてない。待って、置いていかないで、と情けなくも言葉を発すれば、今度は目の前が炎の夜の記憶へと誘おうとする。何度同じ箇所を繰り返したかわからない、聞き慣れたオペラが耳元でけたたましく鳴り響く。今度はまた逆光で、顔の分からない男を見る。そいつは泡にすらならなかった。ドアの隙間から赤を見る。溺れてしまいそうな火の色を。それでも目を必死に開け、それを見極めようとじっとドアの影に身を潜めた。心から憎み、消滅を願うものは姿を消さないのに、愛し、心から欲するものは消えていってしまう。果てしない絶望感を噛みしめ、誰の顔も明らかにならないまま、バーナビーの意識は浮上した。

 ぱっと目を開けると隣で、あ、と声が上がる。起きた、と、簡潔な一言。
「魘されていたね」
大丈夫、とは問わない。必ず、起こされもしない。以前一度だけ起こされたことがあるが、理由を話すとそれ以来起きるまで待っていてくれるようになった。記憶を蝕む夢であっても、バーナビーにとっては隣に彼女がいてくれるという、たったそれだけに支えられている。いつもであれば、それで礼を述べてまた眠りにつくのだが、今日は殊更に寝覚めが悪い。触れられなかった、声も掛けられなかった。夢だとわかっていても彼女を失うのがこんなにも恐ろしいだなんて。

今度はちゃんと発せられる声に安心を覚え、それから彼女に向き直り、背中に腕を回す。触れられる彼女にまたも安心する。
「何か他に」
「貴方を失う夢を見ました」
うつらうつらとすでに微睡みながら言いかけた彼女の言葉に自分の言葉を重ねる。本当は童話を丁寧になぞり、彼女をそれに重ねただけだったのだけれど。暫くその体温を確かめていれば、彼女から安らいだ寝息が聞こえる。ようやく少しばかり安心して自分の瞼を閉じると、そろそろと彼女の腕が背中にまわった。はたと目を開ける。
「なんだ、起きていたの」
静かな声が笑う。
「貴方の方がすぐに消えてしまいそうじゃない」私はいなくならないわ。
ぽつりと呟かれた声は確かに彼の耳に届いた。ああ。と思う。欲しかった言葉はそれだけだった。
「貴方を置いてはいきませんよ」
どちらからともなく腕に力が入る。「私も」と小さな返事を貰えば、ゆるゆるとそれは今度こそ寝息に変わった。もう夜明けはすぐそこに。

2011.07.29