最近のライターは火をつけるのに骨が折れる、なんて思いながらはベランダに出た。たまに、ごくたまに、なんとなく、煙草が吸いたくなる日がある。それはほんとうにただの気まぐれで、だから彼女の家には灰皿すらない。彼女が煙草を吸っていることを知る人も、誰もいない。
夜風に当たりながら、咥えた煙草に火をつけたのは燐寸だった。
大きく息を吸って、煙を吐き出す、一服目。
ああこの匂いだなあ、なんて思いながら、二服目。
滅多に吸わないものだから、口にするたびに味を思い出す。懐かしいな、なんて、三服目。
口に含んだ煙をくゆらせるのが、にはたのしい。
「なんでそんなもの吸ってるの」
「……なんでだろうね?」
不意に後ろからかかった声に、驚くこともなく振り向く。想像通り、その先には周助くんがいる。
「口寂しいなら僕がそれを埋めてあげるよ」
「そんなんじゃないのよ」
こういう気障なことを言っても、彼はさまになるのだ。つい笑ってしまえば、ほんの少し機嫌を崩した様相でまた質問が返ってくる。
「じゃあなんで?」
「さあね」
適当に相槌をうちながら大きく息を吐いた。煙が、なんとなく喉を擦る。彼は当たり前だけど、そんなもの吸いもしないのに、臆することもなく、の隣に並ぶ。
「君、喘息だかなんだか持っていなかったっけ?」
「よくご存知で」
べつにわたしとしては惚れたはれたの沙汰もなかったはずで、想いを告げただのなんだということもなかったはずの彼は、なぜかこんなにもわたしの懐に入り込んできている。喘息、と言えばおおごとのように聞こえるけれど、差して生活に困るほどのものではないのだ。ただ、人より少しだけ、喉や肺のあたりが弱いだけ。
「それとも特別に早く死にたいの」
「そうかもしれないわね」
「酔狂だね」
「そんなの初めから知ってたでしょ」
そしてこの次の言葉は、言う前からにはわかる。
「そうだね、そういうところが好きだよ」
「またそうやって軽いこと言って」
ふう、と煙を吐く。周助くんは、ほんとうになにも臆すことなく、わたしに発言する。いつの間にかそのペースに乗せられてしまって、今では彼はこの家の合鍵を持っている。
「君に害が及ばないように隠れているのに、ついに見つかってしまったわ」
「隠れてるつもりなんてないでしょ」
なんとなくの厭味を言ってみたりもしたものの、そんな彼には何の効果もなく、表情も崩れない。わたしのほうが少しばかり年上のはずなのに、彼のペースを崩せないことが少し悔しい。今まで一度も、それを崩せた試しもないのだけれど。
「これでも君の健康を心配してるのよ」
「このくらいじゃなんともないよ」
「仮にもプロのスポーツマンがそんなこと言わないでよ」
ひとつ、咳をする。単純な身体的反応の咳を、こんなことを言うのが癪で、気をそらせるための咳払いをしたのだという意識にすり替える。
「どうせ君とキスすれば同じことじゃない」
「今まで煙草吸ったあとに君に会ったことなんてなかったでしょ」
またひとつ、咳。一回咳をし始めると連鎖するのがいけない。
としては彼を恋人だと思ったことはない、と思いたい。ふらりと現れる”ただそれだけのための友達”だと、思っていなければ釣り合わない気がしている。もうすぐ一本目が吸い終わる。
「今からそうするから変わらないよ」
「屁理屈ね」
「僕も酔狂なんだよ」
「ほんとうに物好きだわ」
言いながらまた数回咳をした。一本目の火を消して、二本目を取り出そうと手すりに置いていた箱に手を伸ばす。
「君もさっさとちゃんとした恋人でも見つけて」「だめ」
きたらいいのに、という言葉は周助くんの声にかき消された。煙草の箱を取った手は、彼に掴まれている。
「そんなに咳き込んでるのに、まだ吸うつもり」
初めて聞く強い語気に少し身がすくんだものの、だって、と反論する前に、の口からは空咳が漏れた。
「おれはをちゃんと見つけてきたし、あとは君がおれのことを恋人としてみてくれるだけでいいんだけど」
これだけ好き勝手わたしの領域に入ってきておいてどの口が言うんだろう。なんて思いながら顔をあげると、いつもの柔和な表情はどこにもなくて、初めてその切れ長の鋭い瞳と目があった。射竦められたように声が喉を上がって来ない。その代わりに乾いた空気だけが幾度も喉をかすめていく。
それを見かねてか、彼はわたしをぐいぐいと引っ張って部屋の中へと入っていった。勝手知ったるなんとやらで、当たり前のように寝室に向かう。いつものやわらかな所作なんて微塵も感じさせないような荒っぽさで、周助くんはわたしを押し倒した。ベッドのスプリングが跳ねてその反動が身体に押し寄せるのに、彼はわたしを力の限りベッドに押し付ける。煙草の箱はいつのまにか床に投げ捨てられていた。
「さみしいならおれが、埋めてあげるよ」
暗い室内にまだ夜目がきかずに、覆いかぶさっている彼の表情はよく見えない。ただその口にする言葉で、彼が激情に駆られていることだけはわかる。
「昔の男の煙草吸って早死にしそうなんて、馬鹿なんじゃないの」
が反論しようと口を開けた時に彼が発したのはその文句だった。
ああ、なんでこの人はそんなことまで知っているんだろう。一言だってそんなこと、言ったことなかったはずなのに。
押さえつけられている手首が、ほんとうに折れそうな程に強く握られる。
にはなにも言えずに、ただ彼のなすがままにされるしかない。ごめんなさい、と言えたらいいのに、まだそれを言う勇気も、覚悟もない。彼を正真正銘の恋人として、迎え入れる余裕が、まだ、ない。
このまま手荒く事がすまされるのかと思いきや、周助くんは力を抜いて上体を起こした。
「……ごめん」
数回深く息を吐いて、静かにそう一言だけが零れる。
にはやっとその時、彼の表情を垣間見ることができた。ふらりと彼女の身体から離れる。
「まって!」
そのまま部屋を出て行こうとする彼を、は震える声で呼び止めた。彼は振り向くことも、返事をする事もしない。恐る恐る、起き上がって彼に近づく。床に転がった煙草を踏んだ気もしたけれど、もうそれに構う事はできなかった。触れられる距離になっても、どうすることもできない。
が逡巡しているうちに、また歩き出しそうな雰囲気を感じたので、咄嗟に服の裾を掴んだ。
「まって、ください」
絞り出した声は消え入るようだったし、なんて幼稚なことしかできないのだろう、と自分でも思うものの、これ以上の行動がとれない。
「……さみしい、です」
ただそれだけをうつむいたままどうにか言うと、彼は無言でわたしを抱きしめた。
2014.07.13