バーナビーの部屋からはシュテルンビルトの街が一望できる。夜の街は人工的な灯りでそれなりに綺麗だ。大抵の女性なら目を輝かせながらうっとりするような景色だろうけれど、いつでもその景色を見ることができる唯一の女性は、必ず不服そうな声を漏らす。
「今日は星どころか月もよく見えないわね」
「そうですかね」
「そうよ」
彼女は高いところが好き、というわけではなさそうだが、どうも窓際がお好みらしく、この部屋に来れば必ずその広い窓から飽くことなく外を眺めている。やれ雨が降っただの、やれ今日は雲が多いだの。バーナビーが少し部屋を空ければ、戻って来た時には手持ち無沙汰な彼女は必ず画面よりも外を見て、ぼんやりとしている。
「飽きませんね」
「そりゃあ、まあ、いつでも違う景色だから」
事もなげにそんなことを言い放って、たまにバーナビーに目もくれない日もあって、そんな時には、そんなものに感じる感情でもないのに、ただその移りゆく窓の外に嫉妬などというものを覚えそうになる。今日だって、それだ。
「今日はとっても月が綺麗よ。ほら」
「貴女は月に恋をしているようですね」
呆れ半分に飛び出した言葉が悋気じみていて、バーナビーは自らの言葉を鼻で笑う。
「なあにそれ」
と言ったなりは面白そうに笑っているのだからなお質が悪い。
「いつだって月は綺麗なものだと貴女は言うじゃありませんか」
窓際に近寄りすらしないバーナビーに、彼女は立ち上がって近付く。少し背伸びをして腕を首にかけて、その顔を覗き込んだ。視線がしっかりと合わさる。
「だっていつでも月は綺麗だもの。満月だろうと新月だろうと。晴れの日も雨の日も」
機嫌を取るような言葉を待っていたわけでは決してない。けれどその彼女の言葉がバーナビーの心臓を波立たせたのは言うまでもない。
「貴女という人は」
「バーナビーなら知ってると思ってたんだけど」
ちょっと、眉の下がったの顔。
「虎徹さんか、イワンくんあたりにでも言ってみたらいいわ」
「何をですか」
「もちろん、"月が綺麗ですね"って」
「はあ」
いつまでも訝しげな顔をしているバーナビーに、はつい彼を甘やかに宥めた。

"月が綺麗ですね。"

 聞いて疑惑が晴れるくらいなら、それはもちろん聞くに決まっている。とりあえずイワンに聞けば、なるほどと言ったなりすぐに赤くなったきりわたわたと慌て、仕方がないので虎徹に聞けば、それはにやにやと真相を語った。
「貴女という人は!」
「へっ、えっ、何?」
家に帰るなり彼女が帰っているのを見越して、リビングのドアを乱暴に開ける。ソファでうたた寝をしていたらしい彼女はその声に身を起こして更に身体を跳ねさせた。
「ば、バーナビー、おかえり……?」
「それならキスのひとつでもしたらいいでしょう」
ずい、と詰め寄れば彼女は未だ目を白黒させている。
「待って、何、なんのはなし」
「教えてあげません」
ええ、と困惑の声が漏れるのもかまわずに、バーナビーは彼女の隣に陣取る。それだけでは飽き足らず、の身体を軽々と動かして、自らの膝の間に座らせてしまった。ぎゅうぎゅうと力一杯抱きしめられながら、挙句肩に頭を埋められればもうは身動きも取れない。
「急にどうしたの」
はあ、と大きくため息をつかれる吐息が、肩に熱い。
「……態度で示してくれないと僕にはわかりません」
「うん。……うん?」
しばらくするとふてくされたような声が肩からあがった。
「今晩は僕の気の済むまでつきあってくださいね」
ふてた声音はそのままに、なんの説明もないまま、片腕がの身体を抑えつけるようにまとわりつく。悪い予感に、は精一杯身を引こうとする。
「ちょっ、と、待って。まだお風呂にも」
「いいじゃないですか。僕のこと、好きでしょう?」
「な! なんて、ことを」
「それとも、嫌いですか?」
「ちがうけど、っ!」
もう片腕が不審な動きをするのに声をあげるも、その腕はもう止まらない。素肌の腹をバーナビーの手がするりと撫でる。ちょっと待って、だの、なに、だの、まだ頭のついていかないらしい彼女の耳に、バーナビーはやわく唇を寄せた。
「"月が、綺麗ですね?"」
「! まさかそれ、根に持って、!」
「人聞きの悪いこと言わないでください。遠回しなことをする貴女が悪い」
「それが日本人の美徳なんです!」
身体をよじってももがいてみても、囲われた身体はバーナビーから抜け出すことができない。その間にも彼の手は身体をまさぐって、つい熱い吐息が漏れそうになる。
「僕が貴女をどれだけ愛しているか、全て教えてあげます」
そんな言葉が囁き込まれて、すぐに、強引に顎が持ち上げられる。強制的に合わさったバーナビーの瞳は微笑んでいるはずであるのに、その奥底の光が恐ろしいと思ったのは決しての気のせいではなかった。
「だから、が僕のことをどれだけ愛してくれているのか、きちんと教えてくれるまで離しませんのでそのつもりで」
優しく、唇が落とされる。それはもちろん、初めのうちだけ。

かぐやひ

2018.09.23
(2011.08.03)