「お、やっと来たね」
数本目のシャンパンを開けたあと、つまり夜もだいぶん更けた頃に、派手な音を立てて扉は開かれた。
「よかった……まだ皆さんいた……」
「もうちょっとその格好どうにかならなかったの」
すかさず亜貴が眉根を寄せて、それに息を切らした彼女の背がはっと伸びる。
「すみません。仕事が立て込んでて……」
「まあまあ。ちゃん仕事お疲れさま。神楽、そこ詰めて」
なんでここに。ちゃんは次客なんだから主賓の隣に。どうのこうの。相変わらずの羽鳥と亜貴の間で、はその都度律儀に対応しながら俺の隣に座る。
「こんな時間までお疲れ。わざわざありがとうな」
「いえ、そんな。ほんとうはもっと早く来れるはずだったんだけど」
次の句を言いかけた彼女が、ことり、とグラスを置かれた音に遮られた。
「開いているやつでごめんね」
羽鳥が彼女に微笑む。もうそろそろお開きにするつもりだったんだ。にこり、と微笑んだその顔と対照的に彼女は明らかに、犬であれば耳の垂れたように見える顔をした。「それでは再び乾杯しようか」と桧山くんが彼女の表情をみとめてか音頭をとった隙に、羽鳥が意味ありげにこちらに視線を流す。──先まで次の一本を開けるつもりでいたはずだ。つまりそういうことなのだろう。亜貴を見やればただ黙ってグラスを掲げてこちらに視線をくれただけだった。
「改めて」
「槙、誕生日おめでとう」
「おめでとう!」「おめでと」「おめでとう」

 グラスを掲げればその一杯で話に花を咲かせて、ほんとうに彼らは家路に着いた。
「お嬢さんにはすまないが、俺は明日も仕事でな」
「お構いなく……! 私もこんな夜更けにすみませんでした。……というか、私も帰、」
「慶ちゃん徹夜明けらしいから無理させないでよね」
「えっ、いや、あの」
「こんな夜更けに女の子一人で帰すわけにはいかないでしょ。それじゃあ、素敵な夜を」
颯爽と言い捨てて帰る面々に、も何も言えないようで「おやすみなさい……?」と若干語尾が上がりながらも手を振っている。
足音も遠のけば先ほどまでの賑やかさが嘘のように、室内はしんと静まり返った。
「悪いな。も仕事で疲れてるだろ。家まで送るよ」
「わ、私は体力には自信があるので……。槙くんこそ、忙しかったんでしょう。あの、疲れてるなら、私ももう、」
一人ですぐにでも帰りそうな雰囲気に、黙って空のグラスにボトルを差し向ける。視線での攻防の末に、は黙ってグラスを傾けた。

 は、誰の誕生日の時でもこうやって駆けつけているのだろうかと思う。マトリでも、スタンドの面子の時でもそうやって。確かに、羽鳥の時も彼女は来た。桧山くんの時も。亜貴の時も。しかしそのいずれの時だって彼女はこんな時間までいなかったし、彼らが仕向けているのかなんなのか、結局俺が家まで送って行った。そして彼女も当たり前にそれに従って、当たり前に俺に送られて、今だってこうやって二人で。……勝手にあかるい方に傾きかける気持ちを、しかし肯定などできないと引き止めた。
「あの、」
不意にがこちらに向き直る。目を向ければ瞬間だけ目があって、そして少し逸らされた。酒に強い彼女のことだから酔っているわけではないのだろうが、頰がほんの少し上気している。言い淀んだその表情に、刹那に頭のどこか片隅で踊るような期待がちらついたのを再び押し殺す。
「さっき言い損ねたので。改めて、誕生日おめでとう、ございます」
逸らされた視線が戻って来て、眉尻を下げた顔が笑った。咄嗟の返事に窮したのをどう思ったのか、「ほんとうは仕事終わりに何か買ってこようと思ったんだけど残業になっちゃったしそれに、もっとちゃんとした格好してきたらよかったね」と矢継ぎ早だ。居心地悪そうに組んだ両手に視線が落とされて肩をすくめた彼女はきっとなんでもない亜貴の言葉を思い返したのだろう。その素直さに思わず笑ってしまえば、気の抜けたように彼女が顔を上げた。
「悪い。こんな時間にもわざわざ来てくれて。ありがとう」が祝ってくれるだけで嬉しい。
ふいと頭によぎったその言葉を口に出してしまったのは、彼女の朱の差した顔に気が緩んだからだ。ばつの悪い顔をするのは今度は俺の方だったが、は何食わぬ顔で「私がすぐにお祝いしたかっただけなの」と小さく言うものだから、押し殺したはずの気持ちも期待も勝手に浮き上がってくるようで、小さく、長く、静かに、息を吐いた。
「また改めて何か贈るね」
小首を傾げたの、柔らかそうな髪が揺れる。触れたかった。そう思う間に彼女の明日の予定を聞いていたのは、もしかすると徹夜明けの頭がもう働いていないだけなのかもしれない。

 とりあえず今晩は解散するということにして、彼女を送るために車を呼ぶ。もう朝が近い時間だということを考慮して、約束は夕方にした。──ほんとうは。飾らないことを考えるだけに留めておくのを許すとするならば。このままを帰したくなどなかった。気持ちを伝えて、彼女がそれを受け入れてくれるのならば、と思ったあたりで、もう自分が彼女に恋をしていると自覚してしまったことを思い知る。
「明日は可愛い格好をするね」
「そのままでも十分だろ」
再び彼女の頰に朱が差して、俺が何気無いつもりで言った言葉に照れているのだとわかる。誕生日、ということに免じて、今日だけは、気持ちに蓋をすることをやめてしまいたい。

三千世界のを殺す

2018.03.03

槙くんお誕生日おめでとう