汗ばんだ身体に抱きついて、その足先の、綺麗に塗られた爪が跳ねた。絶えず嬌声をあげながら男が首元で唸るのを待っている。今日の爪紅は濃い藍色で、単色だけれどもむらなく綺麗に塗れたと自負している。爪の先まで整えたところで、またはたとえ下着をちょっといいものにしようとも、男はそんなことにまで気付くわけでもないから、私はいつもただの自己満足でそれをやっていた。
仕事を終えて、足袋を脱げば剥げた爪紅が目につく。今夜は出かける予定があるし、もちろん朝まで帰らない予定で、これでは格好がつかない。除光液の匂いが残るのはまるで身支度をしたこと自体を相手に知らしめるようでひどく滑稽であるから、身を清める前に落としておこうと鏡台の抽斗を探る。
「あ、今日は出かけるんだ」
私室の障子を断りも音もなく開けた加州は、悪びれることもなくそう言い放つ。彼は私の初期刀であるからか、私がこうやって夜な夜な遊びに出るようになったことにいい顔をしない。まるで恋人か、親か、そのような視点の彼が、疎ましいと思うこともあれど、基本的には聡く気づいてものを言うだけで、私を止めることもなにもないので性格的にそういうものなのだろうとただ受け流している。
「うん。明日もいつもの時間に戻れると思うよ」
「そっか」
そう言うなり彼は私の目の前に座る。きっと何も用はないのだ。執務も終えて、今日の近侍でもない彼がここに来る理由など、一切ないはずなのだから。
「毎度、飽きないね」
私が爪紅を落とすのを見ながら加州はそんなことを言う。
「まあ、なんとなく。がたがたなの、嫌じゃない?」
「それはわかるけど」
単色の爪紅が好きなのだけれど、今回のは気まぐれに装飾の入ったそれを使ったから、落とすのにやけに時間がかかる。
「たまには赤じゃないのもいいのかなあ」
加州がぼんやりと自分の爪を見ている。
「そうね。今度貸したげよっか」「やった。じゃあ今度は俺が主の塗ってあげる」「うん」
ただ会話をしているだけで、手持ち無沙汰な時間が減るのはありがたい。すべての色を落とし終えて、じゃあ、お風呂に行って来るね、とそこで加州と別れた。
現世の門へ出て男の待つ場所へ迎えど、男も結局同業者だ。会議で知り合って、話が弾むものだから初めはもしかしたら、と淡い期待を寄せたこともあったがそれは杞憂に終わった。結局このような関係に落ち着いて、良いも悪いもさして考えてもいない。楽しいことは楽しいのだ。ただ、純粋に欲望だけを貪ることを許された時間が。全てを忘れて、何かに没頭しても良いと定義づけられた時間が。
部屋に入るといつもいい時間で、寄り道などせず寝台へと手を引かれる。何か睦言のような様相を見せることもあったが、体良く私をその気にさせるためだけにしか働かない、打算しか見せないそれが正直疎ましい。事後同じようにしてくれるというのなら少しは信頼も預けられそうなものだが、ことが終わればさっさと寝てしまう男であるので、まったくもって自分のためだということがわかりきっている。私はただ期待することもなく、ある意味、お互い、ただ没頭することのためだけに利用しているだけに過ぎなかった。お互い無理強いをしない、干渉もしない。私としてはその上避妊さえしてくれるのだからもう言うことはない。男が私の身体を乱雑に剥いて、その手や唇が動くさまに神経を尖らせる。身体は、素直だ。気持ちがよくなる転換機が入れば、もうそこからは、何も煩わしくない。あとは快楽に身を任せて、惰眠を貪るのみだった。
いつも、審神者としての仕事が始まるのに十分間に合う時間に本丸へは帰っていた。そんな有様だから皆私がどこで何をしているのかくらいお見通しなようだが、誰一人、当然のように何も言わない。私が職務を全うしている間は許されるのだろうと思う。玄関で「ただいま」と言えばその辺りにいる男士が「おかえり」と何食わぬ顔で言ってくれる。一度私室に戻り身を清めて着替えるのだけれど、必ず私室に行くまでの間に加州が待ってくれていた。「おかえり」とただ言うだけだから、私も「ただいま」とただ言うのだ。
本丸の休日を、七日に一日設けている。今日はその日で、彼らは各々自由に過ごしているらしい。私もその日が同じく休日であるから、いつも勝手に過ごしている。箱の中に収めた色とりどりの爪紅を見ながら、先日の加州との約束を考えていた。二、三の色の小瓶を取り出して、見比べる。いつも赤の爪紅で、着物は黒か赤だから、それ系統の色がいいだろうか。装飾があるのなら、金が銀のほうがいいのでは。翻って実は深い群青が似合ったりして。など。お洒落は嫌いではないので、こうやって由無し事を考えることは楽しい。これかな、と深めの平坦な碧を選び取ったところで、主、と縁側から開けた障子を覗く影がひとつ。おやつ、とひとこと言って湯のみと、水まんじゅうが乗った皿を二つ、盆に乗せて持っている。やったあ、と間の抜けた声が出て、すぐに加州を招き入れた。
爪紅の話なんぞをしながら縁側から吹き込む風に吹かれる。曇っているせいか気温はそれほど高くないらしい。団扇も扇子もやらずに、汗も流れることがない。じゃあ今から、爪紅塗ってあげようか、と言いかけたところで電話が鳴り響いた。まず加州が取る。ほんの少し目が細くなって、相手が誰であるのか容易に予想がついた。
「主にだよ」
相手が誰かなんて、加州も告げない。うん、と言って受け取った受話器はやはりわかりきった相手に繋がっていて、まさか昼に電話をかけてくるとは珍しいと思えば、今からどうだなんて有無も言わせない口調が返ってくる。そういえば、先日会った時に、今日が休日だということをなんの気無しに話してしまったような気がする。正直失敗だと思ったが、一向に引かない口調に面倒になって折れてしまった。加州は隣で一部始終を聞いている。
「行くの」
とだけ言うから、うん、とまた同じ言葉を返した。
「何時に帰って来る?」
少し眉の下がった表情に、初めて彼の悲しみを見たような錯覚を覚えた。
「わからないけど、たぶん夜には戻るよ」
「じゃあ、これ、預かっとくから。帰ってきたら呼んで」
その手のひらの中には先の碧が収まっていて、その稀に見る弱々しいお願いに、「約束する」と答えた。
昼間から呼び出しを食らったかと思えばどうやら機嫌が悪かったらしい。第一声からそれを隠しもしない声が私に投げれられて、その幼稚さに初めから辟易する。そろそろ潮時だろうとは思っていたので、これきりにしようと思いながら男に続く。いつもより手荒に、社交辞令もないただの行為が、身体は気持ちがいいけれどそれだけだという感情を誘発した。そもそもただの惰性であったから、切るのは容易だろう。などと考えて、自らの跳ねる爪先をただ見ていた。ほんの少し、爪紅が縒れている。この前塗り替えたばかりなのに、いつやってしまったんだろう。すぐに塗り替えたい、と余所事を考えていたのがまずかったのか、はたまた元から男の情緒が悪いのか、男が舌打ちをしながら逸物を抜いた。終わるのかと思えば私を抑えつけるのでいやな予感に藻掻く。男はあろうことかその薄皮を外して再度挿れようとした。ひっ、と喉の奥が引き攣って、即座に、現世で発揮するのか謎はあったが、問答無用で霊力を護身に回す。男は瞬時に弾き飛ばされて、束の間動かなかったものの、次の瞬間には怒りに身を震わせて襲いかかろうとした。咄嗟に動いて結界を張れば、もう、それで終わりだ。相手が自分より、ほんの少し霊力が弱いと知っていてよかった。身支度を整えて、何の言葉も残してやることもなく、そのまま本丸へ帰る。
亥の刻にもならない時間だった。
「ただいま」「おかえり」「ご飯できてるけど食べる?」「もちろん。先にお風呂に入っても?」「もうちょっとかかるから大丈夫だよ、ゆっくりしておいで」
水屋から顔を出した面々も、私室までに出会った面々も、誰一人いつもと変わらない。早く身を清めたい一心で無造作に服を抜いだのに、その縒れた爪紅が目について、辟易した気持ちで何より先にそれをさっと落とした。厄介な、少し恐ろしい目に遭ってしまったと自責する。
湯に入ればすぐに夕飯で、加州との約束を果たす時間が遅くなることは気にしても、まずは食卓についた。ゆっくり時間が取れたのはもう子の刻を回る頃だ。広間で彼には声をかけていたので、そろりと宵の闇に紛れて彼が私の部屋へ入って来る。
「なにされたの」
入って来るなり、ただ一言だった。彼だけは気づいたのだ。しかし洗いざらい話すことも憚られて、ちょっと、と言葉を濁す。ふうん、と面白くなさげに鼻を鳴らしながら、彼は私の隣に座る。
石鹸の、清廉な匂いがした。いつでも清らかな彼の隣は、ひどく平穏な心地がする。早速その手をとって、彼の、紅を外された生爪を見たのは初めてかもしれない。何も粧わなくてもいいほどに美しい桜色の爪に、私が色を塗ることを少し躊躇う。「綺麗な爪」と思わず零して、「ありがとう」と彼はただ言った。いつもの彼ではない色、しかもこんな淀みのような色を選んだことを後悔する。彼はもっと美しいひとなのに。
「こんな色でよかったかな」
「主が選んでくれた色がいい」
早く塗って、と言わんばかりにその碧の小瓶を手渡される。蓋を開けて、独特のあの匂いが鼻をついた。そろりそろりと筆を動かす間、一言も話さない。私と違って下地も上塗りも必要なさそうで、ずるいと思う。細くて骨っぽい、男の人の手をしているのに、確かにそれは私より美しいのだ。乾かす間、ただなんとなくそのまま彼の手を受け止めていた。見慣れない碧が、なぜかしっくりと爪を彩っている。
「もう行くのやめたら」
不意に落とされた声にぼんやりと思考を浮上させれば、彼はそれ以降の言葉を紡がなかった。
「もう行かないよ」「なんだ別れてきたの」「……そもそもおつきあいはしてない」
わかりやすく、眉間に皺がよる。彼からしてみれば確かに、嫁入り前の女、その上自らの上役が、婚前交渉も差し置いて遊びにまわるのはかなり許されないことであったのかもしれないと今となって気づく。
「じゃあどうしてもう行かないの」
「それは、まあ、なんというか」
言い淀んだ言葉を促すように、彼の赤い瞳が私を射抜いて離さない。なんとも言えずに、ほら、紅、乾いた、とあからさまに話頭をそらせば彼の唇がへの字に歪んだ。
「教えてくれないんだ」
「そういうわけじゃないんだけど」
今度は彼が箱の中から爪紅を選ぶ。手がその中を彷徨って、結局どれも選ばずに彼の寝間着の袂を探った。ころん、と形の違う、彼のいつも使っているのだろう紅が現れる。手を差し出せば、そうじゃない、と言わんばかりに、事もなげに彼は私の正した脚を突いた。
「こっち」
脚を崩して、浴衣の裾が捌けてしまわないように彼に差し出す。爪紅を落としている爪は、あまり綺麗なものとは言えないので恥ずかしい。けれど彼は何も言わず、私の足を手のひらに乗せて、それを彼の色に染めていく。筆のすべるひやりとした感触は、慣れているはずなのに、他人にやってもらうとどこかくすぐったかった。それを見ながらぼんやりと、これが乱されることはしばらくないのだろうなあと思う間に、昼間の男が思い出されてきて、一人で頭に血を登らせる。
「私のこと、単純に人間として思いやってくれなかったから」
だいぶ間が空いたが先ほどの彼の質問への答えはこれでも十分に成り立った。へえ、と彼は先までのしつこさが嘘のようにただ相槌を打つ。
「じゃあ主のことをちゃんと大事にしたら誰でもいいの」「そんなことはないわ」
塗り終わった紅の容器を、私がさっき鏡台の上に置いたままにした碧の小瓶の横に並べる。
「……主はここから離れたい?」
さわりさわりと足の甲を撫でる指がくすぐったい。加州の問いたい意図はいつも読めない。
「なんで……? 別にそんなことは思わないけれど」
そっか、とそこでようやく彼は満足したように笑った。
「ねえ、主」
その何かが晴れた笑みに見とれていたのも刹那、ぐっと近づいた加州が、私の身体にのしかかる。
「待って! なに」
「俺にしようよ」
見慣れない爪色が私の頰を撫でる。え、とその言葉に瞬時に返答をできなかった。
「そんな素っ頓狂な顔して。やっぱり主はそんなこと、考えた事もなかったんだね」
「加州……?」
「俺はずっと、主のそばにいるよ。主を、人として、大切に、必ずする。ここにいる誰よりも、主のことずっと知ってる」
それは好意と呼べるのかわからない、執着のような何かだと脳が言うけれど、しかし仮にもひとの、感情を、私が一概に決めつけることなどできない。
「でもあなたは刀で、神様じゃない」
「そんなこと俺には関係ない。それとも主は今この人の身を持っている俺を拒絶する?」
「しないけど、でも、」
しーっ、と彼が私を黙らせる。顔がぐっと近づいて、赤い瞳に呑まれそうになる。
「じゃあもう、何も考えなくていいよ、主」
難しいことは、あとでたっぷり悩もう? そんな甘言を、もう唇の触れる間際で放った。さして強く押さえつけられているはずでもないのに動かない身体は、私が抵抗をしていないことを自覚させられる。流されていいはずがないのに、今までの彼との生活やそれらを思い返せば、際立って否定すべきことも見つからない気がして、つい、彼の肩を形ばかり押していた手の力が抜けた。
ちゅっ、と軽く、唇が触れる。弧を描いた目元が妖艶に笑う。唇が触れるたびに、結われていない髪が鎖骨あたりをくすぐった。だんだんと、口付けが深くなる。可愛らしい音を立てていたものが、ひどく淫靡な音に変わっていく。生ぬるい舌に口内を捉えらて、ぞわりと背筋が浮いた。目を開ければまだ明るい室内に、自らを貪る男の表情がよく見える。「電気、消して」と請うと、私の上から退く事もなく照明が落とされた。暗さに目がついていかず、私にはなにも見えないのをわかっているのか、彼はそのまま、私の浴衣に手をかける。あっという間に帯を解いて心もとない下着まで取りさらわれてしまった。布団でもなんでもないただの畳に、私の浴衣を敷いてその上に横たえられる。ちゅっ、っという上機嫌な音が首筋にして、鎖骨を通って、胸まで下りた。やわらかく、傷つけることのないように、強く吸われたり、甘く噛まれたりする。目が慣れて赤い瞳に光る色までわかってしまった時、それに気づいた彼が目だけで笑って、乳頭を噛んだ。「っ!」身体が跳ねる。甘く噛んで、赤い舌がぺろりと舐める。同時に反対側は手で玩びながら、私が甘く喉を鳴らすやり方を逃さない。
「ひ、ぁ、っ、」
離れに私室があるとはいえ奥の寝室でもない。誰かに聞かれやしないかと働く理性が声を押しとどめるけれど、きもちのいい身体は次第に声を抑える力すらも取り上げられる。
「ね、声、聞かれちゃう、……ゃだ、あ」
そうだね、と胸元で笑うのにすら肌が粟立った。散々指でいじったほうに唇を移しながら、手がまだ下へとくだる。脇腹を撫で、内腿をただ手のひらがなぞる。
「んん、っ」
「主。だめだよ。ほら、見てて」
思わず天井を振り仰いだのを咎められた。ゆっくりと視線を戻すと、自らの身体が彼の唾液に光るのが見える。彼の手の動きは見えないけれど、足の付け根を指が往復する感触だけで、はしたなくも耐えられなくなってしまいそうになった。目が合って、まるで情事が嘘のように彼がにこりと笑う。私はきっともうひどい顔をしているのに、「かわいい」と一言溢れた言葉の先で、散々焦らされたそこに指が触れる。加州がやっと私から身体を離して胸は解放されたけれど、同時にぐちゅりと音を立てて中に指が入った。往復する指にひっかかりもなく、ぐちゃぐちゃという音が初めから響く。
「外まで聞こえちゃうよ?」
開かせた脚のふくらはぎに戯れのように口付けながら、いじわるな調子がまた笑った。
「やだ、や、あ、あ、ぅ、ああ」
「でもこんなにぐちゃぐちゃだから仕方ないか」
指が増える。たった二本の指がそれ以上の質量を持っているようにしか思えない。わざと音を立てながらじっくりと抜き差しされて、じっくりと内壁をなぞられたある場所で、ぎゅう、と彼の指を呑み込みそうなほどに身体が反応する。
「っ! やだ、そこ、あああ」
「うん」と彼は変わらない楽しそうな調子だ。びくびくと動く脚を抱える加州の爪が鈍く光って見える。赤い、美しい瞳は、私のはしたないそこが涎を垂らすのをじっと見ている。
「あ、っああ、ん、ぅあ」
もう声を抑えるなどという芸当ができるはずもない。その快楽の波に抗うのに必死で、敷かれた浴衣をぎゅうぎゅうと握りしめる。
「かしゅう、やだ、いっちゃう、っ、っひああああ!」
中の刺激に気をやりそうだったところに、突然その外の突起を押し潰される。想定外の快楽に強制的に背が浮いた。つま先にまで力が入る。ちかちかとする目の奥が鎮まらないのに、粘液でぬるついた指でその芽を擦り上げるのを彼の指がやめてくれない。
「ああ! まって! もう、っ、も、や、ああ、あ!」
やだやだと首を振ろうと、いくら力が入って彼を脚で挟んでしまおうと、一向に終わる気配のない暴力的な快楽に犯される。
「やだ、ゃ、や、しんじゃう、しんじゃうから、ああ」
「すごいぐじゅぐじゅ」
ずるいと思うほど涼しげな顔で、彼はずっとそこを見ていた。もう意識を飛ばしてしまうのではないかと思えた矢先、ようやく指が止まる。身体が、快楽の余韻で痙攣する。大きく不規則な呼吸を必死に整えているのに、彼が着物を脱ぐのがわかって、つい腰が退けた。
「こら、逃げるの?」
ぐっと腰を掴まれて引き寄せられる。割り開いた太ももを掴んだ手が、粘液で冷たい。
「ちが、にげない、けど、っ、まって」
「ほんとに? いらない?」
ぐちぐち、と丸みを帯びた先端があてがわれる。その熱量に、もう欲しくないと思った中が勝手に収縮した。どろり、と蜜が溢れる。「正直」と加州がそれを見ていて笑った。ほんの少しは、私の息が整うのを待っていてくれたけれど、いつのまにか溢れていた涙が乾くのは待ってもらえない。
「んんぅ」
腰を掴まれて、押し込まれる。熱い、と感じて、ふと避妊していないということを悟った。
「まって、抜いて」
という言葉はもはや聞き入れてもらえない。ゆっくり、締まった中をそれが押し広げていく。みちみちと音のしそうなほど狭く、その形がすべてわかってしまいそうだ。
「ねえ、っ、! ねえ、まって」
加州。ぐ、っと再奥まで、全て入ってしまって、彼の動きが止まる。
「なあに」
「ね、一回、ぬいて、」
「やだ」と残酷なほど彼は正しく笑った。私はそこで不安や恐ろしさや様々なことが頭の中に去来する。気持ちがいいのに脳の奥底が冷えていくように身体が硬くなったのがわかったのか、加州は戯れるようにまた脚に口付ける。
「主が心配してるの、これのことでしょ」
確かにそれは鏡台の、一番下の抽斗に入っていたのだ。なぜ彼がそれを知っていて、いつ取り出したのか、はたまた元から持っていたものか、わからないが、その真四角の包装を見せつけるように、彼が私の手に持たせた。彼が身体を倒して、私に覆いかぶさる。ぐぐ、とさらに奥に彼のものが入り込む。
「ね、おねがい、加州」
は、とそこで初めて苦しそうな声が加州から漏れた。彼はまだ動いていないから、きついものがあるのだろう。けれど、それなら、一回ぬいて、
「あるじ」
ひとつ唇が軽く落ちて、彼の眉間に少し皺がよる。昼間に見た悲しみのような、はたまた嘲るような表情が浮かぶ。
「刀との間に子供はできないよ」
秘密をささやくような声だった。耐える口元から小さな犬歯が見える。俺、こんのすけに聞いたもん、と続く声が、嘘やはったりのようには到底思えない。信用できないわけではないのに、しかしこのまま溺れてもいいものかどうか、きっと私の瞳が揺れた。
「やっ!」
ぐちゃり、と卑猥な音ともに、彼が腰を動かす。
「何にも考えなくてよくしてあげる」
手の中のそれを取り上げられて、彼はまじまじとそれを点検する。
「俺が人だったら、きっと主は俺を選べない」
ぽつり、と加州が呟いた言葉はひどく沈鬱で、私はもうそれだけで彼を疑うことなどできなくなってしまった。はあ、と加州が息をついて、そこで目の光の色が変わったのを見せつけられる。加州、とただ名前を呼ぶと、持っていたそれごと、手が床へ縫いとめられた。指を絡めて握られて、その中に硬いビニールの端が当たって痛い。確かめるようだった動きが、重さと、速さを増していく。散々覚えこまされたそこは、加州が動くたびに忠実に快楽を拾っていった。
「うぅ、かしゅう、あああ、っ、や」
「やだじゃない」
荒い呼吸を呑むように唇を貪る。唾液が口の端から零れ落ちて、加州の汗が私の首筋を伝う。ぐちゃぐちゃとひどい音が増すにつれて、全てが遠のいていく。私はもう目の前のひとのことしか考えられなかった。何度なんども名前を呼ぶのに、まったく足りない。
「うん、主。あるじ。っ」
「うう、あ。あ、いい、きもちい、かしゅう」
快楽を欲する身体が、がくがくと勝手に腰を揺らす。いつのまにか手も解けてしまって、肌が密着するほど彼の身体に抱き縋っていた。汗で肌が音を立てて、髪がはりついてしまうほどに暑いのにやめられない。彼の首筋に甘えるように顔を埋めれば、そこから自らの脚が彼を離すまいと巻きつけているのが他人事のように見えた。
「う、う、もう、 ! だめ、っ」
彼の身体にも力が入る。もうどうにかなってしまいそうなくらいに気持ちがいい。
「っゃあああ、っ、ああ、あ」
膣がぎゅうと彼を締め付けた。身体中に力がこもって、逃し方がわからない。背筋を駆け上がった快感が頭を芯から焼いていく。
「きつ、主。俺も、」
「うあああ、あぁあ」
加州が私を掻き抱く。痙攣する身体を許さないとばかりに、快楽を注ぎ込まれる。もう確かな言葉も発することができない。
「もうやら、あ、や、っ、あああ」
とどめとばかりに打ち込まれたそれが奥を穿って、ぐっと腹の底が熱くなった。苦しいほどに抱きしめられて、静かに再奥に何度も叩きつけられる。じんわりと熱い中に、初めて吐精された感覚に朦朧となって、ふつり、とそこで意識が途切れた。
翌朝、浅くまどろみから目を開けてみればきちんと寝室に寝かせられていたけれど、身体の節々は痛いし重い上に、目の前で私を抱きしめて安らかに寝こけている加州がいて、すべては嘘ではなかったと、わかってはいたのに思い知る。そのまま動くこともかなわずにいればまた眠ってしまって、次に起きた時にはその昨晩と何も変わらない赤い瞳が、じっと私を見据えている。
「ねえ。俺にしようよ。主をずっと大切にする」
昨晩聞いたのと全く同じ台詞を彼はもう一度ゆっくりと言った。私はそのあとの会話すべてを反芻して、ただ目を伏せる。碌に出ない声の代わりに、ただ、ひとつきり、頷いた。それでもその返答に安堵したように、「煩わしいことはこれからたくさん悩もう」と彼は眉を下げて笑う。私の前髪を払いのけた指先は、つややかに縒れも剥げもしない碧が彩っている。私は塗ったばかりの爪紅が縒れていることに気がつくこともできない。
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2018.07.17