うららか、としか言いようのない春先の陽の光に誘われて、ははたと執務の手を止めた。筆を置き、先ほど薬研が運んできた湯のみに手を伸ばす。幾分かぬるくなった中身を一口呑み下した時、ふと、執務室のちょうど外の縁側に三日月が庭を向いて座っているのが見えた。手には新しく用意された湯のみが置かれているのが見える。彼の座っている縁側は陽のあたりが良さそうで、いかにも昼寝に良さそうなあたたかい色を放っていた。
三日月宗近は、つい最近、この本丸に来たばかりだった。しかし来たばかりにも関わらず、三日月のその名はどこからともなく聞き及んでおり、その姿さえも伝え聞いていたために、にとってはどことなく新鮮さはない。そのために、ああこの人があの、という納得ばかりが先走り、初対面で挨拶したのちに距離を縮めることをなんとなく怠ってしまった。もっとも、男士たちは早くも彼と打ち解けあっているようであったので、審神者である自分だけが取り残されてしまったらしかったのだが。
お茶をすすりながら、なんとなしに三日月の方を見てみる。噂に聞いていたとはいえ予想していた彼とその実物とはやはり違うもので、まずもう3寸ばかり背は低いものとは勝手に見積もっていた。だから初めて対峙して彼を見上げた時に、驚いたのはその背の高いこと。それから、髪。なぜだか三日月の髪は長いものだと思っていたのだ。しかし長いといえども、例えば加州のような、鯰尾くんのような、細くて長い尻尾のような髪をしている気がしていた。まあそれもまったくの幻想で彼の髪は短かったけれども。しかしその代わりといってはなんだけれど、頭につけている装飾の飾り紐が、尻尾のような髪に見えないこともない。その藍鼠色のやわらかそうな短髪を眺めていると、ふと飾り紐が揺れた。次の瞬間にはその髪より淡い色の瞳と目が合う。
おいで、おいで、と、三日月が声もなく手招きをする。なんとなく避けつづけていた負い目のために、は抗うことなく手招きに応じた。やわらかな光の縁側のやわらかく微笑んでいる三日月の隣で、正座をする。こちらが口を開く前に、
「そのように見詰められていてはじじいと言えど照れるな」
とゆったりと笑った。
「えっ、あ、ごめんなさい」
まじまじと見詰めてしまっていたことを、は少し恥ずかしく思う。しかし、改めて見れば見る程、美しい人の形をしているともまた思った。やわらかそうな髪に、すべらかな肌と、それから澄んでいるのに奥の見えない三日月の浮かぶ瞳。しなやかな動きに反する線の強い身体。つくりの良い装束。その長い袖から覗く貝のような爪。その指先。その手元はゆるやかに湯のみを盆の上へと置いた。
「そなたは刀が人の形を取ることに驚きはせぬと思っていたが、俺はそんなに珍しいか」
ゆるやかに口元を緩めたその表情に、見慣れぬもととはいえ、つい見惚れてしまう。
「いえ、まあ、その」
口ごもるに三日月はただ笑っているばかりである。
「……やっといらっしゃったなあ、と、思いまして」
やっと目を伏せがちにそう答えると三日月は、はっはっは、と声を出して笑った。
「今回は可愛らしい主を持ったものだなあ」
「そんな……!」
「俺の姿に見惚れているようでもあるし、まこと、小さき女子は可愛らしい」
にこにこと穏やかに微笑んでいる三日月には、の考えは手に取るようにわかっているようだ。
「まったく、からかわないでください」
少し上気した頬を隠すようにふいと顔を背けると、するり、と三日月の手がのそれをとった。すべすべと手の甲を撫でる。
「主の手は、まことに小さいな。刀を握るようにはつくられていないようだ」
先ほどまで筆を握っていたの手のひらは、ところどころ墨で汚れている。突然に、顔色一つ変えずにそのようなことを言い放つ三日月の意図は計り知れなかった。
「……若輩者ですので……。ご期待に添えていなかったらすみません」
「いやなに、そうではない」
やはり剣士が主の方が、刀の本分としてはいいのだろう、と常日頃思っていることを口にすると、三日月は鷹揚に笑いながら否定した。この人はよく穏やか笑うな、と思う。
「刀なぞ知らぬ若き娘が、俺たちのような男どもをまとめるのは苦労が絶えぬことだろう」
三日月は暫く両手で触っていたの右手を、恭しく顔の前にまで掲げた。その掲げられた右手越しに、まっすぐの視線を捉える。
「そなたが例え俺を振れなくても、俺は主の頼もしき戦力となる」
やわらかい笑顔は湛えたまま、三日月はそう言った。これはまるで、昔絵本でよく見た、お姫様に仕える騎士のようだ。彼は、私を守るためにいるのではないけれど。自然と背筋が伸びる。が言葉をかけようと口を開いた瞬間、彼はその手の甲に静かに口付けた。
「末永く、よろしく頼むぞ、主」
瞳の中の三日月が妖しくひらめいている。その瞳に捕らえられて、蛇に睨まれた蛙の様に、ぴしりと固まって動けなくなってしまった彼女を、三日月はまた「愛らしいなあ」と言いながら笑った。
2016.10.03
(手の甲:敬愛、尊敬)