窓から入る陽の光には起こされた。いつもより幾分も気怠い身体を引きずりながら、遅刻だけはしまいと家を出る。玄関を開けるとどんよりとした重い雲と湿気が肌にまとわりつく。
 雨だ。
 まるで自分の機嫌と呼応しているようだと思いながら、道行く人々をどことなく見る。彼らの差す傘は今まで色とりどり並んでいるように思っていたけれど、意外にもビニール傘と黒い無地の色が多いことに気づく。その中に自分の探す人がいないことはわかってはいるのに、目がそれに気づかぬ振りをして辺りを見回したのには自身も辟易した。

 その日は一日中雨だった。一瞬たりともそれはやむこともなく、時間が経つに連れてだんだんと雨脚が強くなっている。教師がなにか板書をしているが、それを書き写す気力すらも起こらない。
 この数週間、恋人であるはずの四月一日から一切の連絡がない。勿論、が連絡しても音沙汰がなく、避けられているのかと思われる程にどこででも彼自身に会いもしない。なにか気に触ることをした自覚はなかったし、別れ話をしたということもなかった。唐突に、目の前から消えたのである。彼が学校にいないはずはなかったが、自ら積極的に動くこともどことなく憚られて、も四月一日を避けるように、彼に会いに行くようなことはしなかった。

 授業終了の鐘が鳴る。教師は教室から出て行き、しばらくすると担任が入ってくる。上の空でいるうちに、終礼も終わってしまった。窓の外ではちらほらと生徒が下校し始めている。その中にも、四月一日の姿はないように思う。鞄に教科書を詰めながら長く息を吐いた。
 今日こそは彼に会いにいこうと決心している。これ以上待っていることはにとって、少しずつ苦しい時間を長引かせているだけにすぎない。今まで先輩である彼の教室に出向くことを憚っていたが、もうそろそろ何かしらの決着をつけるべきだなあ、などと思いつつは自らの教室を出ると上階に向かった。なかなか足を踏み入れないそのフロアは自分のいる階と同じ造りでありながらまったく違うものであるかのようだ。彼の教室を覗くと、幾人かの生徒は残っていたものの肝心の彼の姿は見当たらなかった。安堵のような、焦燥のような溜め息が溢れる。会えなくてよかったのだ。きっと、彼に会ってしまったなら、よくないことが起こるのだとには予期できる。
 幾分か落ち着いたような、それでもそわそわした胸の内を隠しながら家へ帰ろうと踵を返す。自分が来た方とは反対側の階段の方に目をやると、揺れる視界の中に、はっきりと四月一日を見つけた。その瞬間に、鼓動の音が、自らに聞こえるほど大きくなる。はっきりと目があった彼が、 の視界の中で、彼女の名前を呼んだ。声は聞こえない、視覚だけの名前には堰を切ったように走り出す。先ほどまでの思いはなんだったのか、自らにもわからないままに身体は勝手に動いていた。やはりとも言うべきか四月一日は瞬く間に姿を消す。恐らく階段を下っていったであろう彼の影を夢中で追いかけた。放課後でまばらな人にぶつかりながら、階段を駆け下りる。「待って」どれだけが声を出しても、四月一日には届かないように思われた。それでも食いついて、彼を追っていたというのに。
 階段を下りきると、彼の姿は見えなくなってしまっていた。息を整えながらあたりを見渡す。人影は多数あれどそのどれもが彼ではなかった。憤りのような、悲哀のような感情がの身体の中で渦巻く。

立ち竦むに、後ろから、懐かしい声が名前を呼んだ。振り向くと、階段の奥行き分くぼんだ場所の壁際に四月一日は立っている。廊下の電気の光の届かないそこは薄暗く、彼の表情は見えづらい。
「先輩」
久しぶりにその人を肌で感じて、は恐る恐る歩み寄った。一方の四月一日は静かにを見据えたまま体勢を変えない。不自然な距離が開いたまま二人は一言も発しなかった。
「ねえ」
奇妙な沈黙を破ったのは四月一日のほうである。
「……別れようか」
静かな声でありながら、はっきりと、その言葉はの耳にまで届いた。何となく予想をしていたようなその言葉は、しかし彼女を貫いて思考を停止させる。
「……どう、して」
ぽつりと溢れた言葉はすらをも驚かせる。そのようなことを言うつもりなんてなかったのに。
「なんででも、かな」
彼はそう言って、笑った、ように見えた。その表情で彼が理由を言えずにいることだけはには理解できる。何か、を言いかけて吸った息を、一旦留めて、また吐き出した。何を言おうとしたのか、には自分でもわからない。まとまらない頭の中で、ただ意味もなく目頭だけが熱くなっていく。
「あな、たが、そう、言うなら。今までありがとうございました」
この人はいつも、何かを隠している。それを暴いてしまうことが、彼にとって、自分にとって、幸せなことなのかはにはわからない。それだから、彼の言葉にせずにいることを、暴いてしまうことはには到底できなかった。ただそれだけを言葉にして、頭を下げる。涙が頬をくだるのを袖で必死に拭って頭を上げた。
「ごめんね」
と、四月一日の声が這う。その声はわずかに震えていて、そして眉間にはしわが寄せられていた。眉尻は下がっていて、まるで彼の方が別れを告げられたかのような顔をしている。
「あなたのことが、」
自分よりも何かの苦痛に耐えているような表情に、は思わず口にする。
「あなたのことが、好きです」
自分が口走ったことが余程可笑しなことであることは、当の本人にもわかっていた。四月一日はそれに一瞬驚いた表情を見せた後、目を伏せる。
「あなたの、苦しみを、ほんとうは受け止めてあげたかったけれど」
声は震え続けている。落涙はとどまることを知らず、それを一々受け止める袖はもう冷たくなる程濡れてしまっていた。
「次にあなたが好きになる人が、」それを受け止めることができる人であることを
が用意した言葉は最後まで発せられることはなかった。には何が起きたかがまったくわからない。久しぶりの体温と、それが震えながら自分を抱き寄せていること。そしてその振動が声となって何度も謝っているその事実が、先ほどまでの別れ話と相俟って、何も理解できない。自らの両腕も、その彼の背中に回すことをためらっている。
「ごめん、、ごめんね」
熱い吐息がうなじにかかる。
「おれは……」
声を絞り出すように、四月一日の腕にも力が込められる。
「ちゃんと、きみのこと、好きだから」
その力強さにぎゅう、と身体が軋んだ。
「おれはちゃんを不幸にしたくないのに。おれは、」
散々避けて会わずにいておいて、どれだけの幸せを逃したかということを、この人は気づかないんだと思うと、かなしくて、ならない。
「わたしは、先輩に幸せでいてほしい。でもわたしは、貴方と不幸を共有することが、わたしの不幸であることにはなり得ないと思います」
静かに、息をのむ音が聞こえる。
「わたしのことが好きなら、どこにも置いていかないで」
背中に回しきれなかった手が四月一日の制服の裾を掴む。自らの声は消え入るような音となってしまったけれど、四月一日には伝わっているのだと、その力の入った腕で、にはわかっている。しばらく逡巡していたのかそのまま動かなかったけれど、その力強さも嘘のように、一呼吸置くと、ぱっと四月一日の腕が緩んで身体が離れた。
「さっきの言葉をなかったことにはできない」
彼の瞳は揺れていて、それでいてまっすぐにの瞳を見ている。
「だから、勝手かもしれないけれど、もう一度、おれとつきあってほしい」
肩に置かれた手は若干震えているものの、彼の瞳だけが違っている。覚悟を決めたような、意志の強い光が四月一日の目に宿って、その光にしばしが見蕩れていると、
「ごめん、もう、だめかな」
と、また眉尻が下がった。は、ただ首を振る。彼の背中に腕を回して、頭を彼の胸に預けた。
「よろこんで」
くしゃりと彼の制服にしわが寄る。そして四月一日の細い体躯を力の限り抱きしめた。

2010.05.22
(2011.04.02)(2014.02.27)(2016.09.29)(2018.09.22)

手直しするたびに明記してきた日付がもはや面白くなってきた
四月一日さん一体何があったんでしょうね