駆け引きは、相手にのめり込まないことが基本だ。それはどういった類いのものでもそうである。相手の全身が見える位置に線を引きそこを跨がぬように引いて見て、はたまた押して見て、そしてここぞというときにだけその線を跨いで近づいてやると、相手はつい自分の平衡感覚を失う。そこを、当然のように線を跨いで肩を支えてやればもう勝ち筋は見えている。勝ち戦はそうしてできているのだから。
 しかしその決着を迎えるのにはたいそう時間がかかるから、簡単に倒れてしまうなら儲けもの。あんまりに時間がかかるので、普段は途中で飽きてしまってやめてしまうことも多い。けれどそれでよいのだ。大切なのは結果ではなく、その不安定な過程なのだから。それはただの、生きているうちの暇つぶしにすぎない。
 それを悪癖と人は言った。当然だろう。自分以外の人間の感情を大きく揺さぶり、時には害して楽しんでいるのだから。私が途中で飽きてしまうと途端に、今度は相手が私の引いた線のうちに倒れてしまうことも多くあったけれど、そうなってしまうともはやその相手はただの害でしかない。手すら差し伸べる気すら起こらないのを、相手は私を詰るのだ。「この性悪女」。なんとでも言えばよかった。私に刺さる言葉ではなかったし、そういう言葉を吐く相手など、もはや自分にとってとるにたらない物質にすぎない。そういった遊びを長らく続けていたからか、近年においては、ただの物質に成り下がる相手を見極めることもある程度できるようになっている。

 私が本丸を持ったのは遅かった。審神者でない多くの人間は、その仕事についてをなにひとつ知らないのだから、例に漏れず私も世間の平均値を知らないけれども、私はごく一般的に高校を卒業したあと短大で学び、ごく一般的に就職をして、先の長い人生の暇つぶしをしながら生きていた。そんな時にふらりと歩いていた街角で白い狐が人語で私を呼ぶのだから仰天……しそうなものであったが、正直なんとも思わなかったのだ。来いと言われたから着いて行った。その瞬間以降の現世での私の処遇を、私は知りもしない。
 それで本丸で刀を一振り選んだ。とくに理由もあったわけでもない。反りのないかたちが、自分の知っている刀らしくなかったので目についただけだった。刀が人間に成るのも、淡々と見届けて、人間でないものが日本語で方言を扱うのをぼんやりと聞き流していた。なにを言っていたのかすら覚えていない。明るい声色で手を差し伸べる男は、正直なところ好みでもないから、その時は淡白に手を握り返したのみだ。

 しばらく、その刀と、あと複数の短刀と暮らしていた。どの男も好みではなかった。暇つぶしすらもできない環境に放り込まれてしまったらしいが、それはそれで後悔をすることもない。ただ日課をこなして、生活をこなした。
 はじめの刀は、しかし初めの印象とは裏腹に、私のトーンに合わせるように生活の中では黙っていた。血肉を撒き散らすひどい傷に私が流石に怯んだ時ですら、明るく振る舞うわけでもなく「なんちゃあない」と言って苦く笑って見せたのみで、しかしその様が自分の中であとにひいたのだと今となっては知ってしまっている。
 そうして生活をしていれば刀が増えたが、はじめの刀があからさまに顔色を変えたのを見たのは一度きりで、とにかく歴史をまともに学んで来ず記憶もしなかった私にはよくわからなかったが、来歴に関わる何かであったらしい。その相手の刀と一度きりのみ派手に声を荒げて、真剣を交えかけたのを、止めたのはしかし他の刀だ。私はなにもしなかった。否、できることがなにもなかった。その時点ではじめの刀の、男のことを、何か知っているとは言えなかったのだから。

 はじめの男を、なんと呼ぶべきか、数年悩んだのはそれからだ。ほかの刀はいろいろに男を呼ぶ。陸奥、陸奥守、陸奥さん、むっちゃん、吉行、はたまた“龍馬の”。私は未だに濁しているが、長らく近侍の座にいる男は、気にしているのだかいないのだか、どう濁しても返事をする。あちらは私を“主”と呼べばいいのだから詮ない話だ。男は私の名を知らない。そういう決まりになっている。男は名前も知らぬ一個の人間のことを後生大事に守るのだから、私がもう少し幼い人間だったならば、勘違いをしたのだろうと思う。でもそうするには私は幼くはなかったし、そこまでまっすぐでもなかった。乾燥で引っ掻いた肌の傷に、痒さと僅かな湿り気で気がついたのを、姿の変わらない彼から隠すように袖に隠す。姿の変わらない男たちを羨ましく思う気持ちはなかったのに、姿の変わっていく自らをほんの少し恥じたのだと気がついたのはあとになってからだった。

 男から私という人間はどう見えているだろう。長くもない時間で、私はすぐに過ぎ去ってしまうはずだ。私は男よりも短い有限の淵を決められている。そうして何人もの人間を主と戴いてきたはずの、たった一人でしかない。──私は気がついていた。男は、私と鏡になるように、ある一定の“線”から近づいてこないのだと。もうここにきて何年になるか知れないそのうちで、忘れてしまった気がしていた駆け引きの線を、私は男に対して無意識のうちに引いてしまっていたのだ。相手の全身を眺めていられる線。それは言ってしまえば自らを傷つけないための予防線として機能している。そこを越せば、そこを越すことを相手が許せば、自ずと相手とより親密になってしまう、そういった境界線。それは、侵食してしまえば、相手から傷つけられることもあり、また相手を傷つけることもしてしまうような、生身の血管の通る薄皮なのだった。若いうちに知らぬふりをしていた事実は、ほんとうは幼いうちから知っていたことだ。それを直視してしまえば自らが他人に対してどれだけ残酷な“遊び”をしていたのか、それすらも突きつけられることになってしまうから、目を逸らしていただけにすぎない。
 男は、それを私に突きつけたわけではない。けれどそのひとと長く過ごすうちに、当の私が、不覚にもそれに触って気がついてしまったのだ。昔であれば、ひょいと突き破っただろうその薄皮を、傷をつけ血を流す無配慮を、今の私が彼に持ち合わせることもできないことに。だから、私は彼の名前だって決められない。

 彼が修行に出ると言ったから、私は諾と応えた。私にとってはただの3日だ。3回眠れば過ぎてしまう時間に何を思うこともなかったのに、旅支度をした彼を正門から送り出して戻った執務室の広さに漠然とした不安を抱えたのは想定外だった。近侍の仕事はもちろん、ほかの刀が手伝ってくれている。彼らのうちで、早く修行に行き戻ってきたものは幾人もいて、そのたびに祝ったりどうしたりしていたのに。私は彼がもう二度と帰ってこないのではないかと不安で仕方がない。
 彼だけではないのだと思うが、私は私の刀たちに、“それなり”のことしかしてこなかった自覚がある。元から家族だどうだと細やかに睦まじくやるような性格ではないから、どちらかというとどのひとに対しても、仕事の関係性のひと、程度の接し方をしていた。決して悪く扱ったつもりはなかったが、それ以上の越権をできる性分ではなかったし、対する刀もそれを尊重したのだろう。そういった関係性を、悪く思うこともしなかったのに、ただひとり、彼が数日いないだけでそれを激しく後悔した自分が、憎悪するほど嫌だ。これではひとりに入れ込んで、自分の都合よくならないから、自分の行いを反省しているだけにすぎないだろう。そういった平等を欠くような、また、価値の重みを変えてしまう行為はひどく狡猾に思える。
 けれど日に日に不安は増す一方だった。ついに、いっそ帰ってきてくれなければ心置きなくここを捨てられるのに、とすら思った矢先に、当然なのだから、当然の顔をして、彼は正門に現れた。私といえば連日の寝不足で、それが感じ取れたのに執務室の自席から腰を浮かすこともできない。
「大将」
それを見かねたのか私に声をかけて手を引いたのは厚で、それは私が初めて顕した刀だった。彼は帰ってきたら好きに自室に戻るだろうと思おうとしたのに、そんなことは厚が許さないのだ。今まで修行に出した刀は正門で必ず出迎えていた。だからきっと厚も、私をそこまで連れて行くつもりだったに違いない。処刑台に連行されるような重たい心地でおとなしく手を引かれていると、玄関前の廊下の角で彼が立ち止まるのでぶつかってしまう。
「ほら」
もう一度私に声をかける彼は、私と同じほどの背丈だから、背に隠れようとする私を無理に引いて横に立たせる。そこから玄関へ押された背に足をとられてよたよたと数歩よろけた先で、そのひとは私をしっかりと支えた。
「ただいま」
聞き慣れた声がそう言っただけではあったけれど、肩に添えられた手指を見慣れてはいても、ほとんど知らずにきてしまった体温を着物越しに感じる。
「あ……」
おかえりなさい、が出なかった。肩にかけていた、彼の手が抑えたままのショールを縋るように握りこむ。普段ならば、彼はそのまま二言三言なんでもないことを話してくれて、それで終わるのに。彼は手を離すことも、なにを言うこともなく、ただ、待っていた。それは今までにはなかったことで、その沈黙の間に、ずくりずくりと血が流れていくような痛みを感じる。──きっとほんとうは私こそが待っている。彼が勝手に事態を動かしてくれて、私は傷ついたり、はたまたそうでなかったりということを、自動的にさせられてしまうことを。しかしそれを、帰ってきた彼は、きっと、許してはくれないと示していた。
「あの、」
ショールを持つ手が震えているのを、馬鹿らしいと思うのに、どうにも止めることができない。彼が衣を変えたことがかろうじてわかるけれども、あのまっすぐな瞳を、見上げることなどできない。それをしたが最後、線の向こうに倒れてしまわない自信がなかった。
「おん」
「あ、……、…………」
彼の手がほんの少し動く。ぴりぴりと肌が切れるような心地が勝手にする。
「……おかえりなさい」
言葉が逃げた。彼もわかっているから、もう一度ただいまを言うものの、解放されはしない。再び沈黙が流れるのを、もう二度と許されないようだ。彼は彼の手で私を傷つけることはないにせよ、私自身が長年逃げ続けた痛みをこれ以上無感覚でいることを許さないらしい。彼は優しくはなかった。添えられた手が肩を宥めてくれることもない。けれど、それは、ほんとうに優しくないのだろうか? ほんとうに優しくなどなかったら、もしこれが昔の私であったら、すぐに消耗品のように私を捨ててしまったに決まっている。
 ちら、と、目を上げてみる。それでも彼との身長差は大きいから、その襟元あたりで視線が止まってしまった。緩やかに、おだやかな、呼吸が見える。じりじりと視線を上げて、私は、その線にようやく再び自ら触れる。
「むつ、の、かみ、さん」
ぐ、と彼の手に力が入ったのに驚いたのは仕方がないことだ。は、と逃げた身体を彼の手が無理やり戻して、私の身体は簡単に平衡を失った。受ける衝撃に目を瞑る。力の逃し先は、ショールから、目の前のそれへ。簡単に移ってしまってそれで、ようやく私は彼のまっすぐな瞳を見た。
「主」
取り払った近さでためらいもなく、光を受けた橙の虹彩が私を呼ぶ。
「おんしが今までどう生きてきたかわからん。けんど、わしが知る限りのおんしは愛しい人の子じゃ」
それは眩しかった。そういった明るさは、目の前にすると自らを焼いてしまいそうで怖かったのに。
「わしはおんしの身体の傷を治すことはできんけんど、倒れる前に支えちゃれる。そんなに怖がることはないき、これからもわしを使っとおせ」
開いてしまった口から、私にはなにも言葉を選ぶことができない。けれど、ひとつ頷けば今度は彼も納得したようで、そうして初めて、自ら伸ばした手にも、きちんと受け取るひとがいてくれるのだと知った。

2021.10.21