彼は月のような人だと、初めて会った時にぼんやりとそう思った。落ち着いた群青のリボンでくくられて揺れている銀色の髪や、少し色の悪い肌や、どことなく中性的な雰囲気が。それはまるで深い藍色に浮かぶ銀色の月で、満月よりも三日月のようだ。そして彼と深く知り合っていくにつれて、その感覚は確かなものへと変わっていった。いつでも冷静沈着な様子や、ある一定の音の幅から出ない静かな声、人を射抜くように見えてしまう彼の銀色の瞳。それらはまさに冬の静まり返った空に冴え渡る銀色の、つめたい、それである。
 私は昔から月を見ることが好きだった。まるで夜空を切り抜いているようだとずっと思っていて、そして幼い頃は月に住むうさぎを信じていた。うさぎは居ないと悟り始めたころから、月はなんとなくつめたいものになった。今でも空を見上げ月を探すことは日課となっている。
 つめたい裁判官、私の上司であるユーリ・ペトロフはいつも大抵遅くまで残業している。部下というよりも秘書のような立ち位置の私は、それが終わるまで一緒に残務をこなす。私につきあうことはない、と彼は言うが、何となく上司よりも早く帰るのが申し訳ないと思う気質は私が日本人であるが故なのだろうか。かたり、と、彼の椅子が音を立てる。書類を整理する彼の手がゆるくなったのを確認して、私は紅茶を淹れにいく。業務後のあたたかい紅茶は私がここに来る前からの日課のようだった。そしてそれにつきあうことを私は許されていて、給湯室にはカップが二つ揃えてある。紅茶を淹れてティーセット一式を持って執務室に戻ると、先ほどまで机に積まれていた書類はほとんどファイリングされた後だった。一旦自分のデスクでカップに紅茶を注ぎ、彼のカップとティーポットをほぼ何もなくなった彼の机へと持っていく。
「お待たせしました。今日もおつかれさまです」
「ありがとうございます」
それらを乗せてきたトレーは自分のデスクへと持ち帰り、椅子に座った。彼が一口口を付けたのを横目で見ながら自分も口を付ける。あたたかい匂いが鼻から抜けて胸の奥を通るこの感触がたまらなく落ち着くことを、ここに来て彼とお茶を共にするまで私は知らなかった。一息つく静かな音と、かつり、というまた静かなカップの音が部屋に響く。しかし響く音はそれくらいなもので、もう数年こうしてお茶をしているが、彼と長く話すことは未だかつてない。こういう静かな時間は自分としても好きであるし、彼が寡黙な人であることもわかっているので無理に話すこともない。私はいつも、あたたかいカップを両手で包みながら窓の外をぼうっと見ていた。
「ミス・
ふいに横から静かに声がかかる。窓の外から視線を外してその方を見ると、珍しく彼と目があった。
「貴女は、いつも何を見ていらっしゃるのですか」
急な質問に少し答えを窮する。
「いえ、ただ……窓の外を」
「そうですか、いくらそちらに目を向けていても気づかないものですので……」
どうやら呆けた顔を見られていたらしいことについ照れ笑いをこぼす。
「今日も、月がつめたくて、綺麗ですね」
彼にとっては唐突ともとれるように私がそうこぼすと、彼もまた窓の外に目を向けた。言葉の少ない彼が珍しく話すものだからつい目を離せずにいると、彼は何かを言いかけて逡巡して口を閉じてしまった。なにか考えているようである。なにかまずいことを言ったかしら、と思いつつこちらも返答できずにいると、彼の目はまた私のほうに戻ってきた。
「……今のは、他意はなく?」
思案するのは今度は私の番だった。
「日本では、」
と、そう彼が続ける。
「愛の言葉をそのように言うと聞いたことがあったので」
「……ああ、裁判官は博識ですね」
勿論自分としてはまったくそういう意味での他意はなかったのだが、そういう感情がないとは言い切れない部分もある。yesとも、noともとれるような曖昧な返事をあえて返した。彼が少し咳払いをする。
「まあ今のは、忘れてください」
恥ずかしがっているのか、いつも凛とした瞳が珍しく伏せがちに逸らされると彼はまた窓の方に目を向けてしまった。それにつられて私も同じように視線を変える。珍しく部屋に響いていた声は、またしばらくなくなってしまった。
「ミスター・ペトロフ」
さっきまでの会話の余韻の中で、私は彼に声をかける。彼はこちらを向いたようだったけれど、私は視線を窓の外の月から離さない。
「私にとっての月は、いつもつめたく冴えていて美しいと思っています」
彼は何も言わなかった。意図を読みかねているのはわかっているが、助け舟を出すつもりはない。彼が微動だにしないので、私は室内にいる月の方に目を向けて、眉根を寄せて笑った。

真夜中ティータイム

2014.02.26