「ねえ承太郎さん、明日海に連れてって」

隣にいる彼女は唐突に話の流れを切ってそう言った。なんの他意もないように、は隣で笑っている。
「独身最後の思い出にさー、わたしともう一度だけ海に行ってよ」
ね? と彼女は承太郎にだめを押す。そうやって願い事をする時、彼女は昔から承太郎の顔を下から覗き込んで小首を掲げた。こうすることで大抵の願いは通ると、彼女は経験でわかっている。案の定承太郎は、やれやれだぜ、と呟いて帽子のつばを下げた。それは照れ隠しのような、肯定の返事である。
「やったー! ありがとう! 承太郎さん大好き!」
それを見て取ったはあっけらかんと、しかし抑揚のない声でそう言った。彼女はいつからかこういう声色を使うようになっただろう。昔は俺のことだって呼び捨てで呼んでいたはずなのに、いつから節々の言葉が変わっていっただろう。
「まったく調子のいいやつだな」
「ん? まあ嘘をついているつもりはないよ」
「……そうか」
拭えない違和感とは裏腹に、じゃあ明日は昼頃から出掛けようか、予定とかある? と彼女は隣で楽しげだ。

 言葉通り、よく一緒に見た海へ連れて行く。幼い頃から今に至るまで、何度も眺めながら歩いた海辺は、今も昔も何も変わらずににそこにある。俺とだけがいつのまにか大人になってしまって、けれども距離感は昔からずっと変わらなかった。
「ほんとうに、結婚しちゃうんだねえ」
水際で足だけを浸して遊んでいた彼女が、ふと海を見ながらそう言った。
「そうだな」
と短く答える。昔から、自分は言葉が足りなかったな、と彼女を前にするといつでも痛感する。は幼い頃からずっと隣にいただけあって、承太郎が言わない言葉をよくわかっていた。沈みゆく夕陽が彼女の顔を照らしていて、彼女はそれを瞳に映しはするものの、どこを見ているのかは定かではない。
「大丈夫ちゃんと、結婚式場にお花届けるね! すごくいいやつ」
にこり、と、音のつきそうな顔をつくって、彼女は振り向く。彼女の本職は花屋だった。期待していいからね、と言葉が続く。笑っている顔は、どことなく偽物だと直感した。何度か、この顔を俺は見たことがある。それなのにいつのときも、俺はその違和感を指摘することはなかった。笑っている、夕日の茜色を受けて、それは細やかに、彼女は笑っている。この顏をする時の彼女の心情を、ほんとうは、俺は、わかっているのだと思う。
 俺が言葉を惜しむことなく話すことができていたら、彼女と歩む選択を俺ができていたら。あるいは彼女の届ける花は、自身のハレの日を彩るものになっていたのかもしれない。昔言い逃した言葉は、再び言う機会をこうして永遠に失う。ずっと隣で歩いていたせいで手をのばせなかったものには、もう二度と触れられない。
「しあわせになってね。わたしもがんばるから」
何も答えない俺に、彼女は容赦なく続けた。俺の、永遠に口には出せなかった言葉を、彼女はやはりわかっているのかもしれない。
 ほんとうは、

 晴れやかな式場は満員だった。隣で白いスーツの彼が、誰かを目で探している。おそらくその人は来ていないのであろうと思う。私はそれを、見て見ないふりをした。

2012.03.06