急ぎではないんだけど、主が見当たらないから見つけたら声をかけてほしい、というような”探しもの依頼”は大抵オレのところにやってくる。この本丸で唯一、オレが最も正確に、彼女について鼻が利くのを、誰もが分かっているからだ。さて今日はどこで油を売っているんだかと感覚を研ぎ澄ませるとすぐに、方角と距離まで知れるので、確かにそちらへ歩いていく。オレの居室から縁側を伝って、彼女の私室へ抜ける渡り廊下を通り過ぎ、表へ回って執務室を尻目に、書庫に入る。入り口のすぐ横、そこに扉があることなんぞ知らなかったが(おそらく他の刀も知らないのだろう)、そちらから彼女の気配がするので、手頃に置いてあった長い棒で天井を突いてみれば簡単にそれは開き、隠されていた階段が下りた。そこを登って、一応元の通りに戻しておく。
屋根裏かと思えば思いの外綺麗に掃除されており、採光のための格子状の窓辺から陽の差したその先に、主は転がっていた。特に隠しもしなかった物音に振り向かないところからするとどうやら寝ているらしい。そのまま近寄って覗き込めば、伏して昼寝をしている主が硬く身を縮めて魘されているので、ちょっと肩を押して転がしてやったら顔を歪めて閉じたまぶたから涙を流している。こんなところで誰にも隠れて寝ているのだから大層安楽だろうと勝手に思っていたが違ったようだ。よくよく寝言を聞いていると混ざるのはどうやら知らぬ男の名であるので、なるほどオレたちの前ではそういう隙を見せないけれど、きちんと恋煩いがあったのか、と思った。上級の美男に象られた、あやかしのようなものを数多引き揃えていても、やっぱり同族に恋をするのかと思い知らされるのは少々面白くない気分があるが、致し方ない。彼女にとって生きる世界はこのどことも言えぬ間のような場所ではなく、間違いなく現世であるものを、無理に引き止められているのだから。しかし面白くないことには変わりがないので、かけてやるはずだった声を呑んで、蹲ったままの彼女の傍に寝転がって思い切り抱き寄せてやった。自らの羽織を少しずらせば彼女の身体くらい簡単に覆ってやれる。
身を硬くしたままの身体を腕の中に収めると、彼女の、甘美な匂いがする。この艶かしい生命の匂いはある時から急に感じられるようになったもので、このためにオレは彼女の居場所を必ず特定できる。これが感じられるようになった頃、他の刀に尋ねてみたことはあったものの、誰もそれを判るものはなかった。がんがんと、鼻の奥から脳を揺さぶるほど強い匂いであるのにどの刀も判らないなんて、どうかしたのはもしかしたらオレ自身なのかもしれないとも思えた。いつか彼女にそれを話してみれば、あれやこれやと心配されて、挙句無傷にもかかわらず数度手入れ部屋に押し込まれたが、結局今も変わらず、その匂いは強くなるばかりだ。
しばらくそのまま転がってみたものの、彼女の身体は硬いまま、起きる気配もないことが気に入らない。手持ち無沙汰にその匂いの出どころを鼻で探ってみるものの、首筋だろうがうなじだろうが、耳元でも胸元でも、その強度は同じく強く、やはり特定などできない。そうしているうちに何を勘違いしたか身を崩して擦り寄ってきた彼女からまた一層強く匂いが放たれて、くらくらと脳が揺れた。この匂いに身を浸していると、ああこの女が欲しいなアと欲が湧く。けれどそれ自体が御法度であることも重々承知であるし、自分自身もまだ若く、彼女の存在をどうこうできるまでの力を持たぬことも、重々承知だった。
す、と彼女が意図的に吸った酸素の音。悔し紛れに抱き込んでいるので顔など見えやしないが、覚醒したのだということは気配でわかる。身動ぐ身体の動きを止めるように力を込めると、またその匂いが強く鼻を突いて堪らない気持ちになった。
「和泉守さん」
呼ぶ声に無反応を貫く。着物の布地に吸い込まれた音がくぐもっている。「和泉守さん、ね、ねえってば」悪あがきに彼女がオレの襟元をぐわぐわと揺する。案外その力が強いので半分は揺すられてやりつつも、脚まで使って動きを止めれば「潰れる……!」との声がするので緩めてやった。
「な、なんなんですか? なんでここに?」
漸くオレの顔を覗き込めた主が眉尻を下げている。
「おう、おはよ」
それを意に介さずまるっと無視して笑ってやったところ、「も〜〜〜」など無意味な音を発しながら目線が逸らされた。腕を解いてやっているわけではないので、逃げるまではできないらしい。
「また見つかっちゃいましたね」
「あんたはわかりやすいからな」
「かくれんぼをしているわけでは、ないのですよ」
「そうは言ってもあいつらがオレにかくれんぼを頼むから」
今日もどなたかの言伝ですか、とそこから当然のように会話をすることになるのがまた惜しい。この女は、オレがどれほどこういったことをしようとも一寸たりとも心を動かしてはくれない。将としてはそれがまさに正しいのだとしても、男としてはそれがまさに正しく面白くない。
「でもあと少ししたら和泉守さんのお仕事もひとつ減りますね」
「どういうことだ?」
「私がいなくなるのだから、私を探す手間はなくなるでしょう」
女の方もこんなに誘うような匂いを発しているのに、またこちらも確かに腕の中に閉じ込めているのに、主はそんなことをさもなんでもないことのようにあっけらかんと言い放つ。返答の代わりに再び脚まで絡めて捕らえるように力を込めると、彼女は笑いながら「今日は甘えたですね」などと頓珍漢なことを言った。この女は、あと数日でどこぞの審神者に嫁ぐことが決まっている。オレたちはその後、一度本霊に還ることも既に決まっていることだ。
相手の男に会わせる、と主が全員に伝えたのはなぜなのか、そこのところはよくわからい。オレたちにその男を会わせようが会わせまいが、今後のオレたちの行末を考えるとどうでもよいことだ。しかしそれが不義理であるとでも(後から考えると)その男が吹き込んだのだろうか、それは決定事項であったらしく、主がその男のものとなる二日前にそれは決行された。
男は、近侍らしい蛍丸を連れて、この本丸に足を踏み入れた。その途端に生まれる違和感は異様なもので、気が淀んだ、と言ってもおかしくはないものだった。蛍丸は必ずその男の数歩後ろを、会話することもなく歩んでいる。門を潜った瞬間から横柄な男だとわかる態度というのはむしろどうしたらそこまで身に着けることができるのか、人間の身体を得てからの日数を考えると後輩とも言えるオレの方が尋ねてみたいような有様だ。大広間に通された男は、誰に勧められる前に当然の如く上座に座った。刀の誰かが茶を入れようとしたものを主が引き留めて、彼女が自ら差し出す。蛍丸と同じ位置に控えた主を見るのは胸糞が悪いものだと初めて知る。
男の顔見せは、一言で表すならば最悪であった。この今の本丸を壊してまで彼女が嫁ぐような男ではない、と全ての刀に思わせたのはある意味で才能である。
男の帰ったのち、誰もがその場では言い出さなかったことが噴出したのは、夕食後の酒の席である。誰かがふと、「あやつはなんと言ったかな」と言った。男が名乗りもしていなかったのは火を見るより明らかで、それはただの口火にすぎない。いつか彼女が魘されている時に聞いたあの名がふと思い浮かんだが、おそらくその男は別の男であろうことは察しがついているので、オレはただ黙っていた。
「しかしよもやあんなものに嫁ぐのであるとは、知らぬ方が良かったな」「こう言ってはなんですが、彼女の行末が見えたも同然ですね」
口々に勝手なことを言い出せるのは、今ここに彼女が不在だからだ。彼女はあの後そのまま、あちらの本丸へ顔見せに行き、今晩は帰らない予定であった。
「惜しいなあ、彼女を失うのは」「いつかまた他のところに顕現されるにせよ、ここを手放すのはやはり名残惜しいね」
普段はどの刀も何となく過ごしているように見えて、心の底は案外彼女に寄り添っているものだとわかる。
「しかし」と誰かが言った。「あれはなんだろうか」と。オレにはその言葉の意味がよくわからず、周りに坐していた加州や長曽祢さんを見遣ったが、それらも首を傾げている。
「さてね、何某はどこから連れてきたものであろうなあ」「さて、あのようなものが審神者という職につけるものなのですね」そう口々に言い合うのは老爺連だ。置いてきぼりを食らっているオレを含めた幾振りかが、それを詳しく聞き返すか否か様子を窺っているところを、「どういうことだ」と先に口を挟んだのは彼女の初期刀である蜂須賀だった。
「おや、」お前らにはわからなかったか。
それは言葉で煽られたわけではないというのは、事情がわかったような顔をしているのが軒並み時代のついた刀であることで証明される。口を出す隙のないオレらのような若い刀たちにはわからない何かが、年の功であの刀たちにはわかっているということか。その談合を黙って見守るしかないオレらに対して、それらは酒に口をつけながら、一呼吸置く。
「あれは、人ではないぞ」
ざわ、と場を揺らしたのはその場にいた三分の一ほどの刀だった。
「俺たちを、からかっているのか?」
「そんなはずはない。あれがこの域に入った時に、穢れた気が混じったろう」
「目の前にしてしまえば、否が応でもわかるものです。あれも、それを理解しながらこちらに踏み込んできたのではないでしょうか」
「違いない。あれに降ろされたということは、おそらくあちらの刀はそれに気づけないのだろうな」
特に目配せもなくそのような会話が成り立っている様からすると、やはりからかわれているわけではないようである。物騒な内容を蕩々と話すのはさすがに在る年月の違いを見せつけられているようで複雑な心境を得る。しかしその内容に幾振りかが殺気立ったのは当然で、それらを制するように「まあまあ」とまた一呼吸置かれた。
「どれほど斬り捨ててくれようかとも思ったが、さすがに魅入られた女の手前、それもまずかろう」
「しかし今頃主も得て、勝ち鬨をあげているのかと思うと腹立たしいね」
「あのようなものに魅入られては、主も可哀想だ」
聞いていればまったく勝手なことを言うものだった。ぱきり、と盃の割れる微かな音がいくらか耳につく。ぬめついた指先の感覚で、そのひとつが自らのものであったと漸く気がついた。
主が門を潜れば大抵彼女の刀はそれに気がつくが、その前から歩んでくるのがわかるのはオレだけだ。早朝に主を出迎えに門前まで出歩けば彼女はオレを認めて手を振るので気が抜ける。例の匂いが距離と比例せず強くなった。
「わざわざお迎えになんて出なくてもいいのに」
彼女がただいま、と何の気なしに挨拶して門を潜ろうとするのを引き留める。彼女から昨日の奴の気配がして、反吐が出そうだ。「待て」と言えばさも不思議そうに彼女が振り返るので、きっとそれまで彼女が歩いてきたのであろう道を、彼女の手を引きながら進む。
「どうかしたんですか。どこへ行くの」
彼女は言葉ではそう言うが、特に暴れることはない。それは信用されている証なのかもしれないが、こうやってすぐに気を許すから、あんなものに魅入られるのだとも苛立たしく思う。
「なあ、ほんとうに嫁ぐつもりか」
振り返りもせずにそんなことを言ってやれば彼女は「それは、決まったことですから」と呆れたように笑っている。
「あれに抱かれてきたのだろう」「そんな、こと、言葉にして言えません」
今度は少し落とされた、はにかんだ声。
「あれが好きか」「ええ」
間髪入れずに返った声は明るい。立ち止まると、それを予期していなかったのか、変な声を出して彼女がオレの背にぶつかった。彼女の腕を引いて、オレの隣に立たせてやる。
「あの男はいいのか」
その言葉に彼女がきょとんとするので、あの魘されていた時の男の名を告げてやると、「あの人は関係ありません」とだけ、さも不思議そうな思案顔で彼女は言った。
「脅されているのか」「誰に?」「昨日の奴以外に誰がいる」「そんなことはありませんよ、彼は、そういう人ではありません」「それはオレにはわからねえなア」「そうですか?」「そうだ。それにあんたも心残りを残してまであんなのに嫁ぐことはないだろう」「それはまた別の話ですから」「何が別なものか、あんたは一度しかない時間を歩んでいるんだぞ」「でも私は、彼が好きですよ」
なんでもないことのように言葉が行って返る。その平滑さに”魅入られている”という言葉を思い出して、話しても、わからないのだと直感した。段々と彼女のあの匂いが薄れて、奴の気配が強くなる。
「そいつの本丸まで案内してくれ」「なぜ?」
そこで彼女の瞳が初めて硬く尖り、匂いが気配に塗り込められたのを、オレは見逃さなかった。「主、しっかりしろ」その言葉に女が強く腕を引いた。掴んでいない方の腕が荷物を取り落としてまで懐を探って、出てきたのが懐刀であったのには、さして驚かない。彼女がそれの鞘を払うのを好きにさせる。自らを斬るか、オレに斬りかかるかはわからなかったながらも、刀を振るったことなどない彼女の手つきなど先が読めない方が不自然であるものだ。それを危なげなく薙いで折ってやったが、その程度は予測済みであったのか彼女はそれを捨て去ってまで逃げようとする。もちろん彼女に追いつけないはずもなく、二、三歩で呆気なく捕らえると彼女は唐突におとなしくなった。
「しっかりしろ」「私は正気です。私は明日にはあの人に嫁ぐのです。離して」「だからそうしなくていいようにしてやると言っている」「そんな物騒なこと、いけません」
彼女はオレが何をしようとしているのか、わかっているようであった。オレが彼女を無理に振り向かせれば、主はその手でオレの刀を押さえる。さして顕現を解こうというものではなく、ただ、物理的に押さえるのみの力。
「いけません。わかって、ねえ、和泉守さん」
細々とした声だった。きゅ、と握られた柄頭から震えが伝う。それは神に対する祈りのようなものであると気付いてはいても、再び強く感じ始めた彼女の匂いが脳を揺さぶって離れない。咄嗟にその顔を見ようと、頬を両手で挟んで持ち上げると、彼女の瞳がオレを捉えたその瞬間に、今までにないほど強くその匂いがオレを誘った。「あ」と彼女が発する間もなくその唇に自らの気を吹き込む。彼女が一度目を閉じて、再び開いたその一瞬に、彼女の瞳がオレの色を僅かに帯びてしまったことを悟る。
「案内してくれるか」と再び問えば、静かに「はい」とだけ言って、彼女はオレの手を引いてしっかりと歩み出した。
昼過ぎ、彼女と共に本丸に帰れば待っていたのは盛大な宴会だった。彼女の門出のための宴会かと思い苦虫を噛み潰せば、すぐにそれが違う主題だと知れる。
「和泉守も今日は上座だ。なあ、主」
蜂須賀が、オレと主に盃を渡しながらそんなことを言う。困惑気味なのは主も同じく、しかしもう既に始めていたのであろう刀たちの調子のよい「この本丸もこれでまた暫くは安泰かな」だとか、穏やかな「本当は僕も、ここから離れたくなかったからね」だとか、泣きながらの「主〜、まだ少しはいっしょにいられるね」だとか、そういった言葉の端々から自分たちが何をしでかしてきたのかを察した上で祝っているということがわかる。彼女が不安げにオレを振り返るので、オレはただ、自らの独断だったとそれだけを彼女に伝えた。実際、どうしてこれが既に本丸に知れ渡っているのか、オレの見当がつくところではない。──と言いたいところだが、残念ながらその大元は何となく察しがついている。
勧められた酒に付き合いで口をつけつつも、見てきたことの重大さと、その自らの刀たちの目の前の様子に、はじめ主は戸惑っているようであったが、そのうちに気がほぐれたのか、それともやはり心の底ではこの本丸もまた心残りとなっていたのか(はたまた彼女の盃にすら注がれている神酒のせいか)、次第に肩の力が抜けて、自然と刀たちの間に混ざっていった。オレはその様を見ながら、なにがどうであれ、この件の結末はこれでよかったのだと思う。
「和泉守、じじいたちの酒に付き合わんか」
彼女がオレから離れた隙を見計らって囲んできたその大元どもは、好好爺然と取り繕っていてもその実一切の隙がない。
「謀りやがったな」
盃を受けながら開口一番にそう言ってやったが、
「さて、なんのことかな」
奴らには特に何も効かないらしかった。
初め感じた違和感は、彼女が忍ばせていた懐刀だった。オレが斬り捨てても、彼女の手を離れても、それは、ただそのままそこに破片と共に在った。あれは、なんでもないただの、刀だ。つまり彼女はおそらくそこまで、事情はわからぬにせよきっとある程度は正気で、婚姻を受けるつもりであったに違いない。
「しかしこれで和泉守さんの想いは叶いやすいでしょう」
「何の話だか」
今度は話題をこちらが煙に巻く。徳利を差し出せば何を言うことなく、やつらは盃を受ける。
その後、彼女に案内させたその屋敷では、博多藤四郎に出迎えられた。応戦などする気概もないらしいその本丸の刀たちは、易々とオレたちを裏からその内部へと招き入れる。その頃には主もオレの吹き込んだ気は抜けたようで、ただただ黙って従っていた。案内された奴の私室には結界のひとつも張られておらず、それも寝乱れた汚い布団の中で、先まで主がいたのであろうところを薬研藤四郎に替えて、太平に寝ている。薬研藤四郎の目は当然開いており、オレたちを認めたままその場からじっと動かない。それにしても、奴の居城に入り込んでいるのに、ただよくない気配がそこかしこから漂っていることが知れるのみで、オレにはあの刀たちが言った”穢れた気”とやらがやはりあまり感じられなかった。
「時に和泉守は主の”匂い”がわかるという話をしていたな」
唐突に何を言い出すかと思ったが、それはこれらを話し相手にしていると日常茶飯事であるからさして横槍を入れることもない。
「ああ、これが他のやつらにはわからないなんて不思議なほど、強い匂いなんだがな」
「それは今も主から匂うものか?」
「ん、そうだな、」
その時、不意に向けられた視線を辿ると、大広間の向こうの端で刀に囲まれている主とばっちりと目が合う。
明日にはそこに嫁いでくる女を主人とした刀が何をしに、こんな時間に嫁ぎ先の屋敷まで忍んで来たのかなんぞ、そこの刀たちはわかっていたはずだ。それでもその二振りは、そしてオレの主もまた、オレのやることを見ているのみで一切口を挟まなかった。それだからオレは、眠っている奴のそばまでずかずかと入り込んで行って、躊躇いもなく首を刎ねる。本当に妖であればこれが一番効果的であるからだったが、その頃にはオレにも既にそれをわかっていた。だから、刎ねるというのは過言で、骨まで断つことなどはせず、すぱりと肌の上面を斬ったのみだ。それにしても不可思議であったのは、眠る男は確かに呼吸をしていたのに、その痛みに声が発されることも、また目すらも開くことはなく、浅いはずの傷口から盛大に血飛沫が舞ったことだ。しかし斬られた身体の存在が揺らぐことや薄れることはやはりないので、その男は、間違いなく人間であった。
視線が絡んだことに驚きを見せた彼女から、ぐわ、と甘美な匂いがここまで襲う。
「ほら、今、かなり強く匂う」
「なるほど、それならよい」
はっはっ、と愉快そうに笑う奴らは本当に何を考えているのかよくわからない。オレが困惑した顔を返しただろうところをまた躱して、そら、呑め呑め、と上機嫌に徳利が傾けられる。
血飛沫が畳に落ちる前に、すぐさま動いたのは薬研藤四郎だった。その得物が男の心臓を貫く。それから、そこの刀たちが主だったものに刀を向けるのを、今度はオレの方がただ、眺めていた。主の目を覆ってやってもよかったが、それを彼女が望んでいない気がして、オレの羽織の裾を握りしめるのをそのままに肩を摩ってやる。どこから来たものかその場にいなかった刀たちが次から次にその人間だったものを斬り裂いていくのが止まることなく、暫くの後、は、と我に返った次郎太刀がオレたちを手早く清めて外に送り出してくれた。そこではたと、あの男のものだと思い込んでいた気配が唐突に彼女から消える。そういう絡繰かと漸くそこで腑に落ちた。「これはただ、アタシらの謀反だから」と主に言い含めた次郎太刀が、見送り際にオレに深く一礼するのを、咎める気にはなれない。
真昼間から飲んでいても酒に強い刀どもは夜が更けても飲み続けられる。主はと言えば、そもそもよく眠れていなかったのか、夕刻になる前にふらふらと頭が揺れ出した。当然のように彼女を私室へ運ぶ役割がオレに宛てがわれて、片附けなんかは気にしないでね、など、明後日の気遣いを向けられる。眠ってしまった彼女を横抱きに廊下を進むと、その振動がよくなかったのかまたも身が硬くなっている。敷かれたままだった布団に彼女を下ろすもいつの間にかオレの着物がかたく握り込まれていて、離れることがかなわなかった。ごろり、とそのまま彼女の隣に横になる。いつかのように抱き寄せれば、うう、と呻いた彼女が今度は間違いなくオレの名を呼んだ。ただそれだけのことがただならぬ嬉しさをオレに与えて、強く抱きしめれば、「ん」という意識の浮上した声と、強くなる生々しい匂い。「和泉守さん」とくぐもった声がオレを呼んで、しかし今度は襟から揺すられることもなかった。顔を上げた彼女がぼんやりとしている。
「疲れてるだろう、このまま眠ってな」
緩やかに数度瞬きした彼女は意識の半分を夢の中に置いてきているようだった。「うん」と素直に幼く言った彼女が、もぞもぞと身体を動かすので少し力を緩めてやれば、両腕がオレの首の後ろに絡んでその身が更に近くなる。強く、強くあの匂いがオレを誘う。……ああこのまま、彼女が欲しい。
「今日は主の方が甘えたじゃねえか」
留めどない欲を押し殺すようにからかってやれば、目を閉じたまま微笑んだ彼女が、うん、とまた言って、「和泉守さんはいつもいい匂いがする」と付け足した。首元に擦り寄ってくる彼女の髪がくすぐったい。そんなことを言う彼女からこそ漂う、甘美で、脳を揺さぶる強い匂いは既に飽和状態だ。その匂いがしているのか、していないのか、もはやオレにすらわからなくなってきているというのに、彼女の言う同じ意味合いのそれは大層気楽なものだ。
障子から差し込む夕陽が彼女の髪の艶を一層増して、それを追うように梳いてやっているとそのうち彼女が気持ちよさそうに微睡んだ。腕が緩んだのをいいことに、梳いていた髪を寄せて、その首筋をあらわにする。しかしその女の白い首筋に、先につけられた小さく赤い痕を見つけてつい頭に血が上った。オレがひたすらに耐え忍んでいるものを先駆けて、女を手に内にしたという主張に、ふつり、と糸が切れる。
わざといやらしい音を立ててその首筋に強く吸い付けば、身を揺らした彼女が次第に覚醒していくのが手に取るようにわかる。場所を変えながらそれを繰り返していると、幾度目からか呼吸を止めていた女が、ついに「待って」とか細くないた。それを無視して舌で首筋をなぞりながら耳まで辿る。耳朶を甘く噛んだところで、「お願い、和泉守さん」と上擦った吐息で弱々しく手が胸板を押すので、仕方なく離してやった。渋々見下ろした彼女が、何かを言い淀んでいる。
「あの、……いやじゃないん、です。けれど、」
先ほどまで眠っていたからか、はたまた別の理由かで掠れた声を恥じるように目が伏せられる。これ以上感じられないと思ったその匂いが、そこで一気に花開いたのだと知覚した。
「その、こんな身体じゃ……。でも、それでも良いと言ってくださるのならせめて……、せめて、身を清めさせてください」
その時、この女の、オレにしか感じられない匂いの正体を理解する。いつの間にか、自らの身体をその細腕で守るように抱いている女のいじらしさ。先ほど押し留められた欲が、膨れ上がってふつふつと込み上げてくる。ぐ、と奥歯を噛み締めて黙ったままのオレに、不安げに見上げた彼女の瞳のゆらぎが引き金となって、その唇を、徐に奪った。見開かれた彼女の瞳を捕らえながら一度唇を離して再び寄せると艶かしい匂いが一層ひらいて、繰り返すその行為に耐えられなかったらしい彼女が慌てて目を閉じた。そのまま有無を言わせずに続ければ彼女はもうオレを止めることはない。その匂いごと、念願の彼女を全て奪い取りながら、未だに女一人の存在をもどうにかできる力を持ち得ていない自分を心底安堵する日が来ようとは、思いもよらぬことも起こるものだと頭の片隅で考える。
和泉守兼定×女審神者アンソロジー「道ならぬ恋」再録
2020.08.22