この屋上で、彼と肩を並べるのはもう何度目になるかわからない。それなりに高いビルは、それ相応に高いフェンス越しであることを除けば、シュテルンビルトの街並みが一望できる。きらきらと輝くネオンのおかげで眼下はまるで星空のようで、一方の夜空といえば一等星すらも見えない。
「月が綺麗ですね」
今日も今日とて彼にそんなことを言ってみる。
「ああ、そうだね、とても綺麗だ」
一等星すら見えない有様の夜空で、月なんて綺麗に見えるはずもないというのに、キースはいつでも変わらず、私を否定することがない。いつも他愛なくここで様々の話をしているけれど、この日常がいつまで続くのか、私はただ、そればかりを考えている。否、これは日常ではないのだ。彼によって救われた私の、後遺症の残らないこの脚が動けば、崩れてしまう非日常。
「今日は天気がいいから、君も調子がいいだろう」
キースの光を含む青い瞳が私を見つめる。いつでも澄んできらめいて、透明感のある美しい瞳。
「どうかしら、わからないわ」
肩を竦めて見せながら、膝掛けをかけてもらった自らの脚をどことなく隠す。──車椅子など、とうにいらないのだ、本当は。助けてもらったのに嘘をつくなんて、と思い悩むことも多々あれど、それでも私は自らの心を取ってしまった。あの時、広くあたたかな腕に恋をしてしまった心を。
「……私は君が好きだよ」
唐突にキースが私を振り向いた。自らの心情と相俟ったような言葉をもたらされたのだから、つい思っていたことが口をついて出てしまっていたのかと手のひらで口を覆う。言葉に詰まる間にもその瞳が眼下の星に向けられたのを見て、──つまりそれは他意のない、みんなのヒーローが誰にでも平等に与える愛なのだということを知る。
「ありがとうございます」
期待をしてしまわないように、できるだけ簡素な言葉を返せば、彼もただうん、とだけ頷いて、あとは何も言わない。

「君に月をとってあげることはできないけれど」
暫くの沈黙を破ったのは高らかな彼の声だ。
「もっと美しい月を見せてあげることはできる」連れて行ってあげよう。
そんな幼い頃夢に見たようなことを言うと、すぐ隣に立っていた彼は、私の目の前に跪く。手を広げて、さあおいで、とまた、きっと他意もなく笑う。彼は車椅子のすぐ目の前に跪いてくれているのだから、ほんの少しの距離を歩くことすらも必要ない。ほんの少し逡巡したものの、彼がにこやかに、私を疑うこともないように待っていてくれるものだから、意を決して車椅子のストッパーを止める。腕に力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。本当はもう治っている脚ではあるけれど、歩けないふりをずっと続けているせいで、筋力が衰えているのは確かだった。──そうしていればきっと彼は時間を見つけて私と会ってくれるから。体重を支えきれなかった脚がもつれる。地面に膝がつく直前に、彼は私をその胸に抱きとめた。
「君の脚は」
頭の後ろからささやくような声が聞こえる。その言葉の続きを、私は一言一句、予知できてしまった。
「もう治っているのだろう?」
息を呑む、ようなことももはやない。ああこれで終わりだと、落胆のような、悲しみのような、怒りのような、安堵のような何かが、心中を駆け巡る。
「君の心配は取り越し苦労だと思うけれどね」
糸の切れたように身体に力が入らなくなった私を、彼は膝の上に座らせた。優しく青い、私の好きな瞳の色が私を覗き込む。
「君が退院するときは必ず迎えにくるよ、必ず」
私に発言を許さないような、そんな力を持って話しているはずもないのに、私はただだんまりを決め込むしかない。
「ほら、綺麗な月だ、近くに見に行こうか」
その言葉に他意がないのかどうか、ざわざわと音を立てる心臓に、もう私には判断がつかなかった。

嘘つき姫と子様

2018.10.08(2011.08.02)