雨の日は、神様が泣いてると、昔、誰かに教えてもらった。

 降りつづく、雨。しとしとぽたぽた。喫茶店で珈琲を飲みながら、軒から垂れる雫を、飽きもなく眺める。……どうせ今日も、貴方には会えないのでしょう、神様。
 神様に片思いをしてから、空を見上げることが多くなった。晴れている空ではなく、夕焼け空でもなく。ただただ降り注ぐ水分を宿している、雨の日の空。夕立や、通り雨や、天気雨や、霙雲とか。暗くて、鬱陶しくて、大嫌いだった雨の日を、貴方の所為でこんなにも好きになった。昔はまだ会う時間もあって会話も普通にできていたけれど、相手はなんていったって神様。最近は、忙しくてほとんど姿さえ見ることができないものだから、手持ち無沙汰に空を眺めていたのが切っ掛けだった。
『雨の日はね、神様が泣いているのよ』
いつか聞いたその話がもしほんとうなら(というかほんとうに天気も神が管理していそうで)、誰の為に彼は泣くのだろうなあ、などと考える。そもそも誰かの為に泣くことがあるのだろうか? 仮にも神様などという、生きとし生けるもの全てを見守っていなければいけないような存在が、例えば誰か一人や、何かひとつのものに肩入れするようなことが、あるのだろうか。
 嫌な感情や嫌な思考ばかりが頭の中を駆け巡る。私は彼を好きだったけれど、彼は何を思っていたのか、まったくわからない。彼が誰の為に涙を流そうとも、本来は私には全くと言って関係のない話なのだ。彼は神様で、私はなぜか彼と知りあってしまっただけの人間だ。
 第一、いつから彼のことを神と呼ぶようになったのだろう。初めはちゃんと彼のことも名前で呼んでいたのに。

 終わらない思考に終止符を打つため、手に持って温まっていた、冷めた珈琲を一気に飲み干す。荷物を持って店を後にした。
 雨は止む気配すらしないし、私が家を出た時は降っていなかったものだから、傘なんて当然持っていない。ざあざあ、ではなく、しとしと、であることが幸いか。家につくまでに下着まで濡れる、というようなことはないだろうし、と雨の中をそのまま歩き出した。ゆっくりと、家路を辿る。

 だんだん雨は激しく強くなってくる。雨の降る度に思い出させられるのに、どうして神様なんかに恋をしただろう。頬に伝う水滴は、いつのまにか雨以外のものとなった。びしょ濡れで、惨めで、滑稽だ。今日まで永らく会えなかったのだから、どうせまた永らく会えないだろう。会えもしない人をひたすらに想うだけ、というのは長引くとつらいものがある。もういいかな、とふと考えついた。家に帰り着くまでに、全て流して、もう、神様のことは、忘れよう。

 ゆっくりゆっくり歩いていたのに、家まではもう数メートルしかなくて、ひとつ角を曲がれば着いてしまう。こうして思い返して見ると、忘れたくない記憶ばかりが頭のなかで蘇る。忘れたくないのに。ほんとうは。それでも、忘れなければ、自分が苦しい。

 さようなら。

 ひとつ息を吸って、角を曲がった。
「……お前、風邪ひくぞ」
「……なん……で、いるの」
心底驚いた様子の神が、私のアパートの入り口に立っている。いつもの姿。別段悲しそうでもない、いつもの姿で。神は、神様だから、私の心なんて実は読めているのではないだろうかとすら思われた。そうやって、ちょっとずつ私の心を引き延ばして。
 どうしようもなく立ち止まる。神様までの距離、3メートル。
「だーからっ、風邪ひくって。肩、震えてんじゃねえか」
一向に近づかない私に、ほら、と彼は近寄って傘を掛けてくれた。
雨を遮ってしまったら、泣いているのがばれてしまう。近づいてしまったら、嗚咽が聞こえてしまう。それでも、会いたくて会いたくてたまらなかった人を(しかも諦めると決めた人を)前にして涙を止められるほど、私は演技が上手くはなかったようだ。必死に声を押し殺して、手の甲で目をこすって、どうか、ばれませんように、と、私は誰に願うのだろう?
「……どうした? 男にでもふられたか?」
私を見かねてか、神はおどけたことを言った。ぽんぽん、と、頭に手が乗る。貴方に、ふられたようなものだったのだけれど、と最早ここで言わずしてどうしようか、と頭をよぎる。
「ちがう。……違う」
首を振る。髪をしたたる水滴が弾かれる。声が、震える。目線は、彼の姿を認めた時から、足下の儘だ。何と言ってもこんな顔なんて見せられないし、彼の顔も今は見ていられなかった。
 もう、おしまいにしようね。
「だって全然会えないんだもの、疲れちゃった。私ね、ずっと、神が、」
言い終わらないうちに、頭の上の手が頬に降りて、その暖かさに驚いて言葉を止める。やっぱり彼は全てわかっていて、私に言わせないようにしているのではないだろうか。聞いてしまったら友人ですらいられなくなってしまうのでは。
 そんな迷いとは裏腹に、ぐっと目線を合わせられる。
 神は一言、ごめん、と言った。
 目の前で、彼がずっとつけていた薬指の指輪を抜き取る。それをぼんやりと眺めていると、それをぎゅっと握り込んでポケットに入れると同時に、顔を持ち上げられて唇が重なった。触れるだけの優しいそれは、自分の身体が冷え切っていることを思い知らされる。正常に働いかない頭で、頭が真っ白になるというのは、こういうことを言うんだな、などと漠然と思った。
「ちゃんと全部話す」
眉尻の下がった、弱々しい瞳と目が合う。傘に当たる雨の音はいつの間にか小さくなっていたのに、至近距離で合った神の目は、少しだけ潤んでいた。

さみだれ
(神様が泣いているのを見た日)

2011.03.30(2016.09.29)