一

 この度の主人が部下の前に姿をまったく現さないことは徹底されていて、まさか自分たちが主人だと思っているものは、狐か何かなのではあるまいか、と思えるほどである。執務室では御簾の内に座っている、私室はそもそも離れにかかる渡り廊下から結界が張られて僕たちは立ち入ることはおろか視認することすらできない、たまさか政府に呼び出されて出かける場合なんぞは、その私室からそのまま乗物に入り、僕たち護衛はその外を歩くことになる。買物などに出ることもなく(あるのかもしれないがまったくその気配を見せない)、食事は執務室の御簾の手前まで僕たちが運ぶ。そして僕たちへの指示はすべて書き物で、主人の声を聞くこともない。執務室の御簾の内はぼやりと透けて見えるものの、その存在がわかるほかには何も詳細がわからなかった。
 そもそも人間側の最高神官から初めてこちらに話が通された時、その突飛な話に耳を疑ったのは、恐らくここにいるすべての刀がそうだっただろう。人間の肉体を与えるからその刀を自ら振るってほしい、など、唐突に僕たちのようなもの──人間の側からすると、存在すらも不確かなはずの付喪神というもの、に接触してきて、あまつさえ共に再び戦をしようなどという提案、それらは不可思議且つ無礼千万な行為に思われた。しかしその話ぶりに否応無しに身を入れて聞くにつれ、ことの深刻さが嫌でも理解せられる。そして決定的には、僕たちはもともと人間の身の、その命の、一等近くにあったのだ、もう一度共に、と訴えかけられれば、断ることは難しかった。人間の方から、こちら側に干渉してくることは長らくなかったし、また、刀による戦の世が再び来ているなどということも、信じがたいことであった。刀の肌を美術品として鑑賞されることに飽くことなどなかったけれど、己の刀としての本性はそうはいかなかったらしい。結局、協力を惜しまない、とはじめに返事をした五振りの刀が、まずは審神者のために降ろされた。
 そうして初めて肉体のガワなどというものを得て、主人の初めての刀として、得た声を震わせてあいさつでもしてみようと瞳を上げれば、その肝心の当代は、前述した御簾の内であった。ひらりと御簾と床の隙から滑り出る紙片に、主人は言葉も交わしてくれぬのだと知る。その様にがっかりした、ということを、最早隠すつもりはない。いくら自らが肉体を得ようとも、主人となる人間の、所持する刀であると、思いたい気持ちは消えないものだった。今まで渡り歩いたどの主人ともできなかった、会話や、意思の疎通というものが、今度こそ、叶うと思ったのに。それでも主人に初めて降ろされた刀である手前、どの感情を押し隠してでも誰よりも立ち働いた。実際のところは僕以外の刀が、僕以上に主人に対して忠誠心を抱けなかった、また不信感をすら抱いているのがわかっていたからそう振る舞わざるを得なかったというところもある。刀は、人間に扱われてこそ。指一本としてこの得物に触れない主人に、程度の差はあれど刀は皆落胆したのだ。この本丸において刀が、人間の容姿を持って初めて得た感情は、すべからく落胆であった。皆が、久方ぶりの主人という存在に、勝手に期待をしていた。そんな様で一年が過ぎ、二年が過ぎ、その間も主人との交流は何一つなく、書面での指示が飛ぶのみ。それでも主人は優秀であったのか、はたまた僕たち従者のためか、本丸は着実に力を蓄え、戦績も優秀な大部隊へと成っていく。そういった日々をまあそんなもの、と思う刀もあれば、従うに能わずと判ずる刀もあるけれど、さして不遇な扱いをされるわけでもないために、幸い内乱が起こるようなことは今までにない。恐らく、どこの本丸の審神者も、このような仕組みとして成っているのだろうというのが、僕たち従者側の見解だった。一人と一振りから始まったここは、今となっては大所帯、五十以上の大小それぞれの刃物が揃っている。

    二

 現されて初めて戦地へ赴いた時、聞かされていた手入れというものであれば、主人は僕たちの前に姿を現す、いや、現すことがなくとも、自分たちの得物を手に取ることがあるのではないだろうか、と誰しもが思っていた。不慣れな人間のガワでは思ったように動かすことができずに、傷なんてあっという間に拵える。今となってはたかだか敵短刀ひとつを相手に大きめの傷を負わされるようなことすらあった。初出陣を終えて帰ってみればそこには政府の白狐がまだ居残っていて、そのまま執務室に促される。戦績の報告をさせられ、部屋の隅に置かれていた刀掛けを御簾の前に移動させられた時、自分たちの思いは叶わないことを悟った。傷の深いものからそこに刀を預け、主人は御簾の内からそれを霊力のみで手入れしたのだ。軽い傷とはいえ若干時間のかかる手入れを、六振り揃ってじっと待っていたのはこの初回のみで、結局、出陣後に戦績の報告をするとともに、傷のついた得物を刀から預かってその手入れを見届けるのすら、今では僕一人の役割となっている。その全てが誰にとってもやはり面白くないので、いつしか出陣してもできる限り傷の浅いうちに、誰しもが戦略的撤退をとるようになった。しかしそれが幸か不幸か戦績をあげたのは口惜しいところだ。
 それまでの主人は、たとえ刀を振るわなくとも、一度は必ず得物を手にとって、鞘から抜いてみるなり、鑑賞するなり、したものだ。美術品として扱われるとするならば、定期的に誰かがその状態を見、手ずから手入れをして、丁重に保管する。もう長らく実戦刀でなく美術品として扱われていた僕にとってですら、人間の手がここまで遠い状況はただただ違和感がある。僕自身が人間のガワなぞを得てしまったばかりに、主人という存在が飾り物のようになってしまったのだとしたら、この戦争に協力しようと考えた自分を恨まずにはいられなかった。

「きみは刀が好きか」
ある時、御簾を挟んで書類仕事をしながら、主人にそんなことを尋ねたことがある。手の止まる気配がして、主人は傍の雑記帳を手にとる。
『是』
ただ一文字だった。御簾の隙から差し出されたそれを咄嗟に奪う。その綴じられた手帳をめくれば今までのごく少ない会話の断片が見えて来て、そしてそれらはほとんど同じような字数の少ない返答ばかりだ。
「なぜこの戦に加担する」
雑記帳を返さぬまま、一言で答えられぬ問いを投げる。主人は首を振った気配のみで答えなかった。──面白くなかった。主人の全てが。僕たちの問いには機械的に答えるのみで、刀になど興味もないのだろうことが。
「妖を率いて戦などと、難儀な仕事だな」
ついそのような言葉が口をついて出る。ほとり、と僕が道楽に活けた床の間の花器の、白侘助が首を落とす。陽が落ちたのかあたりは薄暗く、主人が手近な紙を手探る音が聞こえる。
「もうこんな時間か。厨に夕餉を言いつけてこよう」
執務のためにとった筆を置いて立ち上がりかけると、御簾がゆらりと揺れた。いつも品物を受け渡す隙間から、雑紙のような紙が差し出される。なるほど、雑記帳を返していなかった。それを受け取ろうと手を差し出した矢先、目の前でそれは突然発火した。息を詰めた音がしたのは、御簾の内からか、自らの喉か。めらめらと燃ゆる紙に、『否』と書かれたいつもの筆跡のみが見えたものの、その他の文面は勢いよく火が回って焼き尽くされてしまった。室内をも明るくしてしまうほどの炎に気を取られて、他に燃え移る心配をしたのはもうだいぶ経ってからで、水物、ととりあえず手近に花器を取る頃には、まるで何事もなかったかのように火は消え、その雑紙も跡形もなく消えていた。

    三

 あれから、返さなかった主人の雑記帳を点検してみれば、その返答は大抵十もない定型句に収まっていたことに気がつく。よく今までこれで会話が成立していたものだ、とは思ったものの、つまりそれだけ、誰とも込み入った話をしてこなかった証左とも言えた。あの小火について、その後主人と話もしていないが、もしかすると、主人からその話題を提供することはできないのではないかとも考えられる。あの御簾の内では、もしくは主人の言動そのものに対して、検閲が行われているということは想像に易い。
 ところでその手帳は、ほんとうに雑記帳であったらしく、日記が書かれていないだけ読むのが憚られなかった、という程度のものだ。片隅に落書きのようなもの、なにがしかの計算式、どこで手に入れたのかわからぬ花の乾燥したものが挟まっている等々、種々雑多のことが、普段僕との会話では使われない面に書きつけられている。まだ書きかけの手帳は後ろ半分ほどが白紙であったけれど、その終わりには、手帳を使い切る度に綴じ直しているのか、若干萎びた紙束が綴じられていた。それらに何気なく目を通して概要を把握した時、心の臓腑が嫌な収縮をする。──そこには、つまるところ所有する刀のことが書かれていたのだ。刀帳は別に支給されたものがあるはずであるが、それに漏れるような記述が散見される。添えられた巧くはない刀の姿の絵に、その注釈、声の雰囲気の記述、性格に至るまで、ほんのわずかな会話しか持たれなかったはずの刀のことでさえ、きちんと留め書かれている。いつのまにそれだけのことを見ただろう、と思えるほど、事細かなそれらに罪悪感を覚えたのは言うまでもない。歌仙兼定についての記述は一番最後にあって、そこには刀の姿とともに、いつか僕が初めて活けた花の、その姿までもが描かれてある。更に頁をめくれば現れる、紙に糊付けされた古びた入場券。自らの手が情けなく震えていることに、そこでようやく気がついた。その酷薄さを詰った相手の真実が違うところにあるという事実を突きつけられた胸の内には、様々な感情が大挙する。驚き、悔悟、歓喜、疑念。それらを飲み込んだままでいることができずに、朝も早くから執務室へ足を向ける。
「主」呼びかければ御簾の内が驚いたように身じろぎした。
「すまない、全て読んでしまった」
雑記帳を滑らせれば、それは素早く御簾の内へと引き戻されていく。
「そして先日、きみを詰るような真似をしたこと、謝る」
御簾に向かって座を整えて頭を下げれば、途端に御簾の内が騒がしくなる。忙しなく主人が何かを書きつけた紙片が出てきて、そして燃えた。それを見越していたのかわからないが、燃える度におそらく文面を書き換えているのだろう、紙片が新しく出てくる。燃える。また紙片が出る、燃える。四、五回それを繰り返したのちに、ついに『許』とだけ書かれた紙片が出た。それを受け取って僕が読んだことを把握した途端、御簾の向こうで主人が勢いよく頭を下げた。ごつん、という音がして、畳に頭をぶつけたのだろう。
「っふ、」
主人の人間味のあるところを初めて見た、というところもあるし、自らの感情が飽和してしまった、というところもある。気がつけば、この本丸に初めて笑い声が響いていた。自らの笑う声はこんな音なのだな、とどこか遠くで思う。主人が先と同じ勢いで顔をあげて、呆気にとられている。
「いや、すまない。本当に。気を取り直して、これからもどうぞよろしく頼む」
深々と頭を下げれば、飛び上がる気配。手近な紙を探る音がして、しかしそれではまた燃えると考えたのだろう、一度座を立って、御簾の下から差し出されたのは花器に挿してあったのか、根の濡れた紅梅の枝だった。再び深々と頭が下げられる。
「きみは花が好きか」と問えば、燃え上がらないための『是』という文字が、ただ一文字滑り出た。以前と同じ言葉であるはずなのにこうも心持ちを変えられてしまったことに、自らの軽率さをほんの少し自嘲する。

    四

「輿入れか」「狐の嫁入りだな」
通りすがりにそれを小馬鹿にした声がする。主人が政府へ赴くということは聞いていたので正門前で待っていれば、その小八葉の車が離れの結界の向こうから幻出する。政府の牛が一頭、間違いなくこちらへ歩むのみで、車添いは一人もおらず、その護衛を必ずひとり、刀のうちから伴うことになっている。
「では行こうか、行ってくる」「はいはい気をつけてねー」
前者を答のない乗物の中へ、後者を見送りに来た加州へ告げる。後者からは返答があり、前者からは返答の代わりに、車の御簾の下から、閉じられた扇の先が首を縦に振るように動いた。それは会話の道具として最近取り入れられたもので、是、否、それから簡単な問答くらいになら、その動きで読み取れる。加州が手を振ったのにも扇を開いて応じられるそれが、僕たちとの関係性を今になってようやく少し良好にしたことは間違いない。
 護衛とは言っても、本丸の正門を出るとそこからは藪の中の一本道で、現世へと繋がる鳥居までただ歩くのみだ。そこに突然現れる何の変哲も無い鳥居を潜るとすぐに現世の建物へと繋がって、どういう原理か知らないが、そこで主人とは別室に移されることになっている。主人の用事が終わるまでその何の変哲も無い白い部屋で待たされ、そして、帰る合図はこれもまた唐突に、壁に現れる扉。それを開けば元の薮の鳥居に戻り、主人の車と合流する。そして、来た道を戻るのみだ。たかだか牛の歩みで四半刻もしない道に、今まで特に危険を感じたことはない。
 定期的に政府へと足を運ぶが、毎回ほんの半刻もしない用事である。今日も今日とて変わらずに復路を歩けば、ひらり、と風に煽られた花弁が目の前を舞っていった。風上に目を向けると草薮の少し奥に山桜が見える。
「山桜」
と僕が言う前に、その扇が床を叩いて小さな音を立てていた。同じ方向を扇の先が指すのだから、主人の言いたかったことも同じようであろう。そのまま扇を広げて、その花弁をつらまえようと苦心しているが、そううまくいくものでもない。扇の上を滑っては逃げていく花弁に、しまいには風を送って主人は遊んでいる。
「二、三枝拝借しようか」
その提案に扇が踊った。主人の軍の采配等は聡明であるから今まで当人はおそらく中堅の、若くはない人間であろうと思っていたけれど、こうした何気ない会話ができるようになって、実は思ったよりも年若い人間であるのではないだろうかという疑惑が出てきた。画一化しきれないその扇の動きは、主人の人物像を隠しきれていない。
 牛を流してはいるがしかし車を離れるので、注意深く辺りを警戒しつつ桜の枝を拝借して戻る。花盛りの枝と、蕾の多いものと、引き揃えながら、「山桜にほふあたりに尋ねきておなじかざしを折りてけるかな」、なんとなしに覚えた歌を口ずさんでいた。
「折ってしまうといけないから、持っていてくれ」
御簾の隙にその枝を忍ばせれば、先まで遊んでいた扇が見えない。「主?」覗きこむ訳にもいかず問いかければ枝が引かれて、ぱきり、と小さな音がしたかと思えば、折られた小枝の乗せられた扇が戻ってくる。何かが書き流されたそれから火が出ることはなかった。『かざしをる花のたよりに山がつの垣根を過ぎぬはるの旅人』。その文面は、意味も深く考えていなかったそれの、歴とした返歌。「おや、振られてしまった」と笑えば、主人も笑った気配がする。主人にこういう面があると知ったのはつい最近だ。どうやら文学に明るい上に、機転が利く。頭の回転が早いのだろう。検閲にかからないこういった話題を、弾ませるのに長けていた。それだから、僕は主人との会話の楽しさ、というものを、ついに得てしまったのだ。返された枝を髪に挿して見せれば、また御簾の内が華やぐ。

    五

 迂闊だったのは言うまでもない。皆の練度が上がりきるところまでいってしまっていたのだとしても、新しい戦場であったのだ。危なげない進軍をしていながら、狩り損ねた敵に一瞬の隙を突かれる可能性を、考えなかった自らの落ち度。背後から薙がれた傷からどれだけ出血しているのかはわからないが、その傷が左腕の神経を絶ったらしいことは消失した腕の感覚が物語っている。反撃してその散らされた牡丹の仇をとったものの、戦略的どころか部隊長負傷による撤退というザマだ。帰還後、他の刀も無傷ではなかったためにいつものように得物を預ろうにも、片腕が使えないのではそう簡単にゆかない。その上、このままの姿で主人に会うことは無礼に思えて少しでも身を清めようかとも思うのに、痛みというものは強烈に襲ってきて、そのような余裕も剥ぎ取られてしまった。
「肩、預けろ」
それだけを言って僕を支えたのは同じく出陣していた和泉守で、彼も軽傷の体だ。他四振りの得物を和泉守が抱え、僕といえば肩を借りてなお身体を引きずるようにしてしか動くことができない。
「第一部隊、帰還……」
頽れるように執務室に入室すれば、言葉の途中で白い光がばちばちと音を立てた。「馬鹿ッ、結界に触るやつがあるか!」和泉守が隣で驚いた声を出す。目をあげれば御簾の向こうで主人が倒れていた。結界である御簾に触れて弾かれでもしたのだろう。御前までようやく辿り着いて座り込むと、視界がぼやぼやと崩れる。戦果報告をしつつ無事な右腕で和泉守が持ち出した刀掛けに得物を掛ければ、飛び上がった主人はまた懲りもせず御簾の間際にまで近寄った。髪か、何かが恐らく御簾に当たっていて、ばちばちと小さな光がいくつも散る。手入れを始めたはいいものの、霊力が激しく揺れている。
「落ち着け。それに札、使えるんじゃないのか」
少し後ろに控えた和泉守が冷静に主人を諭して、その声にはっとした霊力が安定を取り戻した。このまま手入れしていては半日以上はかかるのだろう傷に、式神を使役する札の存在すら忘れていたらしい。衣の裾で光を散らしながら、棚から札を取って戻ってくる音。ぐらり、と身体の力が抜ける。「之定!」畳に叩きつけられた身体に何が痛いのかもうわからない。折れるまではいかないような気配であるが、こんなにも苦しいのなら身体は難儀だと思った。
「まったく、不甲斐ないよ」
自嘲すれば霊力がまた揺れる。主人が札に力を込めたのか、かッと身体のうちが燃えるように熱くなって、瞬く間に傷が直る。乱れた呼吸が次第に穏やかに戻り、身体から重さが消える。撥ねていた血すらも清められて、最後に左腕の感覚が戻った。札は荒療治なのだろう、どことなく違和感が残っているような身体を和泉守に支えられながら起こす。左の掌を開閉してみると、四半刻もすれば完全に回復する予感を見せた。
「すまない、驚かせてしまって」
主人が盛大に首を横に振っているのが衣擦れの音でわかる。扇の先が身体の傷を見せろとしきりに呼ぶのでぎりぎりまで御簾に近寄った。
「この通り、もう大丈夫。次回からは一層気を引き締めると約束しよう。他の刀も手入れしてやってくれ。皆いつも通り酷くて中傷だ。時に……」
和泉守が次の手入れの準備をしていたので自分は戦術についての意見を述べれば当の主人から返答がない。「主?」先までせわしなかったのに、微動だにしないものを不思議に思っていると、かたかたという小さな音が耳を打った。その音の先で扇がわずかに震えて床を打っている。そこで初めて、主人が酷く動揺していたことに思い至った。思えば、ここまで深い傷を負ったのは、この本丸にいる刀のうちで初めてのことである。
「なんだきみ、泣いているのか」
驚いて否定しようとする扇の先を捉えると、その震えは僕にまで伝染するほどに大きい。

    六

 向日葵を庭に植えたいと言ったのは、なんと主人だった。それまでも確かに花の咲く庭を作られてはあったけれど、そういった要望が出たのは初めてだ。近頃では執務室に出入りする刀も増えてきて、その話を聞いていたものが(主に一人であるが)面白がって主人の指示した何倍もの量の種を庭にばらまいた。そんなに撒いて育つものか、と小言を言った矢先、本当に育って花まで咲かせてしまうのだからこの空間には呆れる。やがて黄色く染まりきった庭を、しかし主人は大層に喜んで、毎日またも結界に弾かれそうなほど近く、御簾に寄って眺めている。それだから、「そんなに好きならば摘んできてあげようか」と提案したのは自然なことだった。
 かなり大ぶりな花だから、とりあえずひとつでいいだろうと、開け放した執務室の主人を振り返りながら選ぶ。重たい花の首が折れぬように持ち帰って、花器を探す前にその御簾の内へと差し入れた。普段そこからもののやりとりをする際は、畳にものを一度置いて、御簾の内にその半分ほどを滑らせて受け渡している。受け取る時も同じように、畳の上で。しかし向日葵は同じように滑らそうと思えば花弁に傷がついてしまいそうで、それを乗せられそうな手頃な盆すら間近に見当たらない。それを探す間に花を萎れさせてしまうのも惜しく、ただ、深いことを考えることもなかった。
「ッ、失礼」
手渡そうとした、花の重みに茎が動いて、それを止めようと咄嗟にもう片方の手を出したそこで、それに触れた。驚いたのは双方で、せっかくの花がぼとりと畳に落ちる。花を追った手がまた触れて、そして初めてちらりと御簾の外に出されたそれを見た。まさか本当に主人を狐だと思っていたわけでもなかったが、そのなめらかな白さは自らの肌の色よりも透明だと思った。──今までかけらも見ることの叶わなかった、主人の指先。努めて僕たちに見せないようにしていたはずの自らの身を、こんなにも呆気なく晒してしまったのは、主人もよほど花に浮かれていたのかもしれない。もしくは、僕に対する警戒心が……。そんな思いに、はしたない、許されない真似だとわかっていたのに、その指先を追い縋ってしまったのは自分だった。手を追って御簾の内側へと触れれば、ばちりと音を立てて結界に弾かれる。どうやらこの御簾の隙という空間は特殊で、主人の身体をのみ弾かないようにできているらしい。指先が力に焼かれた感覚にはっとする。
「すまない、妙な真似を」
我に返って慌てて手を引いたのに、それを止めたのは紛れもない主人の手だ。
「きみ」
手に触れられて、振り払うことなどできようはずもない。その主人の初めて見せた実体に、触れたくないはずがないのだ。やわく握られた、焼けた指先を、文字通り主人が手当てする。指同士が擦れるやわらかな感覚。あたたかさ。それは刀など、武器など持ったことすらもないようなしなやかな手だった。指先が少し墨で汚れているところに、その人柄を確認する。あっという間に直されてしまった指先を、憎く思ったのは仕方がない。
「ありがとう」
きゅっと力を加えられた主人の指先が返答をした。未練がましくそれに握り返したところで、誰かが廊下をこちらに進んでくる気配がする。
「主、水をお持ちしましたよ」
するりと御簾の内に戻る指先。向日葵もその手に取られて、やがて入室した長谷部に返答したのはいつもの扇であった。
「もしかして肝心の花器がまだだったか」
御簾の隙からこちらに向かって向日葵を振る主人に、長谷部が僕を振り向く。
「ああ、蔵にあったはずだからすぐに持ってくるよ」
花切り鋏を袂に入れるのを誰に言われるまでもなく口実にして、長谷部の瞳から自身の指先を逃す。衣に擦れる感触に、淡く重なってしまった掌の大きさが、一回りも違うそれを思い返した。主人は女人だったのだ。

    七

 恋、という感情を、書物の中で知っている。また、それが人間に齎す影響を、人間の側にあったのだから、よく、見ていた。それで、知っている。特定の人間に会ったあとの主人の珍妙な行動、その人間と連絡を取るときの緩みきった表情、その人間とすれ違いに起こす地を揺るがすような激怒に、その人間に別れたときの激しい悲泣。僕たちは在り始めた昔から人間に近いのだから、その血や、骨や肉を断つ感覚を体感することと同じように、人間のもつさまざまな機微を、間近で、見ていた。恋、という感情は、そのただのひとつにすぎない。
 執務室に花を飾っていたのは僕の道楽にすぎず、それはここに現された初めから誰に言われるまでもなく行っていることだ。庭や裏山から僕が拾ってくる花を、主人が欲しがるようになったのはいつ頃からだったか。そのうち御簾の隙でのやりとりは日常茶飯事になり、しかしそれに間違ってでも主人の姿を目にすることはそれまでなかったのに。
「これはあの花器には合わなかったね」
何にも気がつかないふりをして、あの後初めて御簾の前に蓼を差し出した時、僕の臓腑はみっともなく震えていた。裏山から摘んできたそれは、そもそも花器のためではなく、あまりにも見え透いた嘘だ。主人が僕のその手口に開いた扇でも差し出したのなら、また雑記帳でも寄越したのなら、ここ最近ずっと燻っている感情に蓋をすることを選ぶつもりだった。主人を試すような真似しか最早選択できないほど煮詰まった頭は、その感情を恐怖している。主人に拒絶されること、もっと平たく言えば、彼女ただ一人に厭われる、ということへの恐怖。加えてその発端に得てしまった、知識のみのその感情を。黄昏時に冷えてきた室内はいつも静寂に包まれているはずなのに、主人が蓼に沈黙しているその数秒が恐ろしい。どうか拒絶してくれ。どうか受け容れてくれ。相反する思いは留まることを知らない。
 つ、とその体温が再び僕に触れた時、精一杯残したつもりだった退路は、いっぺんに絶たれた。主従という関係性を超えた感情を自らが抱いてしまったことを、僕はその瞬間に認めたと言える。掌に乗せた花ごと、その冷えた主人の指先を握り込む。それでも拒絶しない体温は、主人が、僕の下心をまるごと呑んだことを肯定していた。
 その花を介した密会は、いくらでも続けられた。初期刀であり今までずっと近侍を務めあげてきた僕が執務室に入り浸ったところで、他の刀には全く何を疑われることもない。昼も夜も問わず、人気のなくなった執務室の御簾の隙で、ただそうしながら会話をするだけ。しまいには花すらも不要になって、彼女が指先で僕を呼ぶことすら増えた。不意に肌が当たることに、もう軽い詫びを入れることもない。容姿も声もわからなくとも、彼女の気質と手の温かさに恋をした。しかし逢瀬を重ねるにつれて、自らの欲に歯止めが利かなくなってきていることにもまた気づかされる。あれだけ欲した主人の断片を得て満足したのも束の間、得られてしまえばもっともっとと貪欲に求める心が止まらない。その声を聞いてみたい。名前を呼ばれたい。その瞳を覗きこんでみたい。この手にもっと触れられたい。手ずから刀を鑑賞して、手入れしてほしい。毎日何を思い、何を見て、何が好きで何が嫌いなのか、その心のうちを知りたい。例えば帯刀されるように隣に座って、同じ景色を見たい。そして寄り添って、許されるならその肌を堪能したい。──自らは人間のガワを得ただけであると思っていたのに、それらはまるで、知識のみで持っていた人間の、劣情に似ていた。その感情は書物にはほとんど載っていないものだ。主人を渡り歩く中で、見て覚えてきたことばかりだった。美しいだけの物語は理想論なのだと、頭で理解はしている。
「こんな恋情があってたまるか」
抱いてしまった、次第に増幅していく劣情を、自らが認めてしまっていることを、認められない。

    八

 こんなにもやわらかくすべらかな肌を、主人が持っているのはどうしてなのだろう。肉体、という点では自分と変わらない組成であるはずなのに、手、という同じ形状のものをとってしても、こんなにも自分のものとは違う。
 御簾の隙から引いた彼女の手は、部屋を温めているのにも関わらず冷たい。指先を温めるようにゆるやかに包んで摩る。それらは肉感がないというわけではないのに細く、力を入れれば折れてしまいそうで、きっと僕のものより何倍も骨が細いのだろうと思わされた。爪だって、とても小さく感じる。爪の生え際をなぞるにも、僕の指の腹でいっぺんにさわれてしまう。彼女の手を取った回数をもう数えてはいないけれど、いつだって壊してしまいそうに思えて、余計な力を入れることなどできない。小さな爪の艶を堪能して、切り揃えられた深爪気味の爪先に自分の爪を当てれば、爪の大きさが容易に比較された。その色が健康的な爪の色より少し青みがかっているのは、彼女の身体が冷えているからだろう。まだ温まることのない指を、側面を確かめるように二指で挟んで動かす。指先から根元へ。指の骨の細さと関節の膨らみ。指の股まで下りればもう一度指先まで摩る。指の先同士を擦り合わせる。飽くことなく、深く手を繋ぐようにゆっくりと何度か上下してじっとりとそれを繰り返すと、指の股を爪で掻いたのに、されるがままの彼女の指先が少し跳ねた。今彼女の利き手を遊んでいることで、ある意味彼女から言語を奪ってしまっていることに気づいていないわけではない。筆談も、扇も、今の彼女には与えてやらないのはただの興だ。やわやわと指先を手の甲へと向けて、その筋をなぞる。手で包みながら親指で撫でる掌はまめひとつなく柔らかく、触り心地が良いけれど、少し汗ばんで滑りが悪い。手全体を撫でながらその肌を堪能して指を手首へと流す。御簾に近いので少し強引に手首を引けば、御簾の向こうで彼女が前のめりになった。いつもは袖に隠された腕が広く晒される。ゆるく握り直した手首は、僕の指に余るほど細い。手首の突起をくるくるとやわくなぞると、僕の掴まないもう片方の手が畳に少し爪を立てている。内側の血管に親指を這わせながら遊ぶ。皮膚が薄いためかそこをなぞると彼女の反応が大きく返る。そのまま肘の間際、袖のうちまで、ゆるやかに確かめていけば、ついに身体全体が小さく揺れて、それに自ら驚いて短く息を詰めた気配がした。彼女が身動いで、その片手が無意識にか口元を覆って顔を背ける。ふふ、とつい笑みがこぼれたのは見逃してほしい。こわばった指先に構うことなくゆるやかな愛撫を続ける。指の腹で腕をなぞり、掌へと戻る。先と同じように何度も往復しながら指の股から爪へと戻れば、その指先は先よりも随分温まっていた。手相をなぞるように親指を動かして、するとこわばった指先がまた跳ねる。それはとても愛おしく、僕の恋情を満たした。結界を挟んでいるのだから、僕を止めることなど彼女には容易いはずであるのに、このようないけない遊びに身を預けてくれる。それが、嬉しくないはずがない。飽きもせず彼女の指に指を絡めながら、暖かくなった手の甲に唇を近づける。彼女は、それすら見ていたはずだったけれど、決して腕を引くことはなかった。火鉢で湯を沸かす音に負けるほど小さな、音を立てる。
「僕は、この恋を、認めることにしたんだ」
そう呟けば未だ遊ぶ僕の指を彼女が握り込む。弱く首を振った。そんな告白をされたところで、この一重の結界に、どうしようもないと、そう彼女が思う道理もわかっている。彼女の手をそのまま裏返して、掌を上に向ける。その白い腕の血管沿いに現れている文様を指でなぞって彼女を伺うけれど、その僕の返答の意図は彼女には読めていない。そこに這う文様は、低級かつ略式の呪詛だった。これを解けば、主人の結界が晴れるのだとその内容すらわかってしまうほど粗末なもの。このような遊びを始めてすぐに、僕はそれに気がついたけれど、政府が施したのだろうそれを、彼女は視認できていないらしい。

    九

 僕の腕を流れるどちらのものともわからない血が、ぽたりと畳の上に雫となって落ちた。強く握り込んだ彼女の手が痛みに驚いて暴れるのを押さえ込む。僕がまるで騙すように彼女に差し出した一本の花盛りの山査子は、その役割を十分に果たしてくれたようだった。
「すまない、我慢してくれ」
血に塗れた彼女の掌を無理矢理開いて、その傷口を探す。山査子の棘が裂いた傷は案外深く、すぐに見つかったそこに、自らも傷によって血の滲んだ指を這わせて直接神力を送った。いつもの戯れとは比べ物にならないほど強く彼女の手を握り込むと、血液の混ざる水音に、わずかに御簾の内から嗚咽のような声が、初めて漏れ聞こえる。今まで気配も聞いたことのなかった彼女の声が聞こえるということこそ、主人の結界が弱まってきていることに他ならなかったけれど、彼女にしてみれば何が起きているのか何一つわからずに恐ろしいことだろう。その計画を碌に説明もせずに実行したのは確実性を高めるためにすぎなかったが、それでも自身に痛みを与えているはずの僕を弾き飛ばすことすら躊躇っている様子の彼女を見ると、事前に話すべきだったと後悔の念が先に立った。彼女の身体に巣食っている呪詛を強引に書き換えているのだ、酷い痛みであるはずなのに、僕の手を固く握り締めたままただそれを受け容れている様が痛ましい。一度など、痛みに我を忘れて御簾に突きそうになった彼女の手を、庇った僕の腕が弱く結界に焼かれたのを見て、御簾の外にそれを押しやりさえした。がくがくと身体を震わせながら、結局最後まで彼女は抵抗しなかった。結界が完全に消失した頃には山査子の花はすべて萎れてしまっていて、彼女は息も絶え絶えに伏せることしかできない。血の流れた跡の残るその腕をじっと点検する。呪詛が消え去っていることを確認して、掌につけてしまった傷を治そうと口をつけると、いつかのように、しかし弱々しく指先が跳ねた。
「っ、いけません、歌仙さま」
それが彼女の声で、初めて聞いた言葉だ。疲労の滲む、焦って、掠れた、高すぎない、甘い声だった。「きみの声が聞こえる」思わずほろりと落とした言葉に、はっとした主がゆるやかに身を起こす。繋がれていない方の片手が恐る恐る御簾に触れると、それはただ、揺れた。「やっぱり」
そう言ったきりの彼女を見届けて、繋いでいた手を離し、居住まいを正す。
「僕の一存できみに無体を強いた。罰を受けろと言うのなら、甘んじて」
深く頭を下げると、主が押し黙る。しばらくそのままこちらを見ているかと思うと、先ほどよりもきちんと整った、しかし幼くなったような声音が押し付けられた。「とても痛かったです」「すまなかった」「何が起きたのかと思いました」「先に話すべきだったと僕も悔いたよ」「……これまでの全ては嘘で、謀叛かとも」「それは、断じてない」「でもなぜこんなことを」「きみに許されるのなら、……いや、どうしても、きみがほしかった」「……」「僕は、ひとりの人として、きみを好いている」「……ではどうして、」
ころころと転がされる声が心地好く行っては返っていたのに、その最後の言葉は、袖が口元を隠したらしくひどく朧気だった。
「……どうして先ほどまでの勢いで、私を奪ってくれないのですか」
その言葉に、思わず御簾に手をかけた。抵抗のないそれが軽く揺れて、姿勢良く座する彼女の緋袴が垣間見える。制止されないその動作に、一思いに身を滑り入れると、白衣の袖で口元を覆った彼女の、潤んだ黒い瞳が、不安気にこちらを見上げている。
「主、きみ」
思わずその腕をやわく取り上げて、その顔を全て暴く。上気している頰に手を這わせるとその触り慣れた手指の肌よりも肌理が細かくすべらかにやわらかい。いじらしい言葉を紡いだ唇をなぞれば、あたたかな吐息が指に当たった。恋い焦がれた主人が、そこにあった。そっと、こわれものを扱うように抱き寄せる。「歌仙さま」僕に縋るように抱かれる様はなんとも愛おしく、すっぽりと腕の中に収まってしまう彼女の身体に、容易に言葉が出ない。

    十

「いないと思えばこんなところにいたのかい」
「あ、すみません。探させましたか」
本丸全体の休日にも関わらず、主のおやつに、と厨から持たされた菓子を持って離れを訪れればそこはもぬけの殻で、縁側を伝って裏へ回るとその姿は裏庭の隅にあった。彼女は動きやすそうな薄手の洋装に、麦わら帽子を被って鋏を持っているのが、早くも降ろされた簾の傍から見える。
「いや、いいんだ。おやつをもらってきたから、休憩にしないか」
はい! と元気よく聞こえる返事に、ぱちりぱちりと豪快な音。やがて彼女は真正面からこちらへ駆け寄ってくる。
「ほら、これ、昔歌仙さんが活けていた花でしょう」
にこにこと上機嫌な彼女の表情は、簾越しのために雰囲気だけ伝わってくる。その久しぶりの光景が、早くも懐かしく感じられるほどに、このたった数ヶ月で、触れられる彼女に馴染んでしまった。
「もうそんな時期か。そろそろ蛍も見頃かな」
「今度近くの沢まで皆で降りてみましょうか」
何気ない会話をしながら、簾の下の隙間から、白い花をつけた枝と、それを持つ手が顔を覗かせた。外履きを脱ぐのに手をついているだけに過ぎないのであるが、ついその彼女の軽い身体を猫のように脇から支えて引っ張り上げる。「わ」と驚く声を無視して、手を引いて室内へと誘った。開け放されていた障子をぴしゃりと閉じて、彼女を腕の中へ抱き込める。
「歌仙さん!?」
「久しぶりにきみに誘われた気がして」
枝を持つその手ごと包み込んで唇を寄せれば、見る間に彼女の顔が赤くなって目がそらされた。
「そんなことないです」「連れないね」
彼女の手の甲に指を滑らせて、そこから、晒されている腕を肩まで伝う。咄嗟に身を引く彼女の腰を少々強引に引き寄せる。
「お花が枯れちゃいますよ」「じゃあ水にでも挿しておこうか」
枝を取り上げて手近な棚にある花器に挿せば、彼女の手が空を切った。
「まだ明るいのに」「以前は朝でも昼でも身体を預けてくれたのに」「それは、手、だけでしたからね?」
まだ駄々をこねる彼女の髪を撫でてやると、段々と語気が弱くなる。
「おやつ、燭台切さんがせっかく作ってくれたのに」
それは彼女にとっては捨て台詞だったに違いないが、意地悪くも僕はそれをきちんと拾った。
「おや、他の男の名を出すなんて無粋な」「ひ」
唐突に顎を捉えて瞳を覗き込んでやれば、明らかに彼女が怯んだ。陥落させるように唇をゆるくなぞると、彼女が小さく息を呑む。
「ほかに言い訳があるなら聞こう」
じっと瞳を見据えながら顔を寄せる。唇が触れる間際で囁けば、ほんの少し悔しそうに彼女が呟いた。
「……ありません」「よろしい」
幾度も唇を合わせるうちに、彼女の手が僕を縋る。そうして段々と身体の力が抜けて、次第に僕を受け容れる様を見ているのが、今でもこの上なく心を満たす。
 あの一件で離れの結界すら晴れたために、主と言葉を交わすことができるようになったことは瞬く間に本丸中に知れ渡った。これまでの数年が嘘のように、今では彼女は刀たちに慕われ、生活を共にしている。あの執務室の御簾はそのままあるけれど、今では巻き上げられていることの方が多い。執務室の花器に、今日は空木の花が揺れている。彼女と僕との間のことについては、まだ誰一人として公に知るところではなく、しかるべき時が来るまで、二人して知らぬふりをしていようと企んでいる。

2018.05

刀さに合同誌「あなたとはじめて」寄稿原稿(配布しておりません)