好きな人に触れたいのは当然の心理。好きな人とキスしたいのも当然の心理。それ以上触れたいのも、当然の心理。……だと思っているんだけれど、わたしは。

 彼とは今まで唇を触れさせたことがない。彼と付き合って短いわけではないはずなのに、いつも彼が唇を寄せるのはわたしの頬ばかりだった。しかもそれは結構頻繁だ。そんなようであるから唇を触れさせることを嫌がっているとは思えないのだが、どうしても彼は唇にはキスをしてくれない。ただ恥ずかしいだけなのかとも思うけれど、それにしては頬にキスをする時にあまり恥ずかしがる様子もない。
 幾度も訪ねている彼の家の中は、やはり日本趣味にできている。その部屋は日本人としてはこの街で唯一母国を感じられる場所だ。この部屋を訪ねてから幾時間、嗅ぎなれた井草の匂いの中に身を休ませながら、は、ずっと彼が苦無や手裏剣を手入れする様を眺めている。彼の趣味であるそれは、日本人よりも日本人らしいように感じる。今時、刀を手入れする日本人が幾人いるだろう。古典的といえばそう言えなくもないのだが。ころころと畳の上を転がってみたりしながら、ゆったりと時間を過ごす。今は彼が懐紙を口に挟んでいるために会話はない。ぼうっと、その懐紙に嫉妬じみた思いを感じながら、どうにかしてその唇を奪うことができないかと考えを張り巡らせた。
 今日こそは、イワンに触れたい。あわよくば甘い雰囲気になりやしないかと思いつつ、様子を窺う。気にしすぎているからなのか、懐紙を口から外す姿がやけに色っぽいというか、艶っぽいというのか。そのような所作にいちいちどきりとする。何気なく様子を窺っていると、一通り手入れをすませたのか、イワンは立ち上がってそれらを入れた箱を片付けに立ち上がった。それと同時に、も畳に座り直す。その気配を察したのか、イワンはこちらを向いた。
「今日はどうしましたか? さっきから、やけに視線が痛かったのですが」
案外気づいているんだなと思いつつ、それを口には出さずに言葉を濁す。要領を得ないだろう答しか得られないのを確認したのか、イワンは一旦箱を片付けに行き、また戻ってきた。今まで寝転がっていたせいで気怠い身体を引き起こし、立ち上がる。戻ってきたイワンは不思議そうな顔をしていたが、かまわずに彼に寄って行き、ぽすっと抱きつく。おっと、とさほど動じる様子もなく彼はわたしの両肩に手を添える。──緊張で、身体が震えている。自分が思っていたよりもわたしは小心者だったらしい。障子越しの太陽の光が畳の匂いを際だたせていた。イワンの顔を見上げて、手を添える。妖艶に微笑みでもできればいいのだけれど、生憎そんな技術は持ち合わせていなかった。
「あなたからしてくれるまで、ここにはしないから」
震える声をなんとか気丈に出して、人差し指でイワンの唇をなぞる。少し背伸びをして頬にキスをした。顔を離してうっすらと閉じていた瞳を開けると、彼は唇をつけたところを手で触れて少し驚いた顔をしている。微笑んだ目が合ったがすぐに逸らされた。代わりにわたしの背伸びを止めさせるように肩を押して、いつもの身長差で抱き寄せられた。見上げようとした顔は、後ろから胸元に抑えつけられる。
「なんだか、無理させてるならすみません」
やわらかな声でイワンはそう言った。いつもより少し低めのトーンが耳から身体を突き抜けて、彼の柔らかい髪が首筋をくすぐる。「顔真っ赤ですよ」と笑う声はどこか呑気だ。わたしばかりが恥ずかしがって焦って余裕がなくて、なんだかとても悔しい。イワンの背中に回していた手に力を込めて胸元に顔を押し付ける。
「……気のせいですう」
無理してない、とは言えなかった。絞り出すようにそれだけ言って押し黙る。ふっ、と頭上で笑いを漏らす声がした。
「もうちょっと、お預けしてみるのも悪くないかもしれませんね」
「え、それはどういう」
ばっと顔をあげると、イワンの手がわたしの頬を撫でた。その手が顎まで降りてくいと、くい、と顔をあげられる。不敵に笑って余裕な顔が、ちょうど唇の端、やはり頬にキスをした。
「いつまでもつでしょうね?」
またわたしの耳元に唇を近づけて、今までに聞いたことのないような低い声音で囁かれる。彼は楽しそうに笑った。

そうたい心理

2011.07.10

(頬:親愛,厚意,満足感)

いじわるなイワンくんがみたい