俺はすらりと自らの得物を抜いた。枕元に置いてある橙色の洋灯の光が研ぎすまされた刃にひらめく。彼女の目がはっと見開いて、そしてうっとりと弧を描いた。
「いつでも頼りになる、私の、一番素敵な刀」
そう紡いだ唇は乾燥して荒れているけれど、それでも品がいい形をしていると思う。彼女の寝乱れた髪が流れる首筋にめがけて刀を振り下ろした。

 大将が床に寝付いてしまってはや半年となる。石切丸の祈祷も効かぬ、俺のつくる薬湯も効かぬ。現世の医者やその政府とやらは俺たちを睨みながら匙を投げ出した。あらゆるものの何もかもが功を奏さない彼女の体調に、人間たちはまず俺たちが何か関係していると疑ったのだろう。初めのうちはただの風邪だろうと、人間は難儀だと思っているばかりだったが、三月経っても回復の兆しもないどころか悪化もせず、ただ一定の状態を保っているのを目の当たりにすると、これは呪いの類であるだろうと本丸中の誰しもがそう思った。
 それからは石切丸が祈祷の内容を変え、太郎太刀と次郎太刀がそれを手伝いなどしたり、その間彼女の体力が底をつきないように燭台切や歌仙が、熱が高くても食べることの出来る栄養価の高い食事を作ったり、はたまた俺がまた違う薬湯を煎じてみたりなどしたのだが、一向に快方に向かう兆しすらない。彼女は常に38度から40度の体温を彷徨い、うつらうつらと浅くとも眠ったかと思えば空咳がそれを妨げる。布団から起き上がることもままならず、身を清めるのも体温の低いうち(と言っても38度前後あるのだが)にしかできない。日を追うごとに衰えてゆくのを見るだけで何もできないというのは堪えるものがあった。
 そんな中、原因を探そう、と言い出したのは加州だ。おそらく相手は人間で現世での出来事だろうから、と誰もが手出しを躊躇っていたことを、彼は、もう俺は見ていられない、とそう言った。誰もやらないなら俺が一人で片を付ける、とも。それは提案というよりは彼の報告だった。しかし誰も、反対しなかった。毎日誰かしらが彼女の近くに控えることにしていて、だから誰もが彼女の弱っていくのをその目で見ていた。自分たちで解決できることならしてやろう、というのが総意だ。そして、原因となる人物数人を特定することは簡単だった。皆、どことなく見当がついていて、だからこそ誰もが原因探しを言い出せなかったのだ。

 大将の執務机には写真が飾られている。彼女の両親と、女が寄り添ったように取り澄まして写っている写真だ。その女は大将の妹である。両親は妹を見守るように慈悲深く立ち、そして妹は満面の笑みで大将に寄りかかって腕を組んでいるが、それに対して大将は手を添えただけでまっすぐに姿勢を正してこちらを見詰めている。これほどありありと関係性が見えることもあるのだなと感じるような写真だった。それはまるで家族を大切にしています、と表明するように机の上に置いてあるものの、大将がそれを眺めいったりだとか、そういうことをする素振りを俺は今までついぞ見たことがない。義務的に飾られた写真だった。そしてこれを初めて見た時、家族に会えぬ職業とはいえ現世のしかも主の血のつながりを感じさせるようなものを、例え自らの執務室とはいえ、俺らの目に触れるところに置いておくのは些か不用心すぎやしないかと思ったのを覚えている。

 呪いの出処を探す、と言って誰もが真っ先に思い浮かべたのがこの写真だ。大広間に集まって話しているその机に、件の写真が誰かの手によって持ち出された。「このうちの誰かだと踏んでいるんだけど」「しかしどう確定する?」「さすがに間違いがあっては許されない」「他に心当たりはないか」「いややはり身内かと思う」口々に話される会話の中に、すっと赤い爪紅が写真の一点を指差した。
「俺こいつだと思う、というかこいつだよ」
という一言で、皆の口が一斉に止まる。視線を集めたのはやはり加州だった。
「聞いたことあるんだよね、こんな表面的な写真がさも大切そうに机に置いてあるからさあ。主の家族のこと。というか妹の話。ほんと不用心ってくらい色々話してくれたよ」
こつこつ、と赤い爪紅が写真たてのガラスを叩く。加州清光はこの本丸の初期刀であるから、きっと大将もそのような話をしたに違いない。彼女と懇意な仲である俺も、少しはその話を耳に挟んだことがあった。恐らく彼女の家族の話を知っているのはこの中で俺と加州だけなのだろう。
「よければ話してもらえないか、それを決して悪用はしないと私の本体に誓おう」
とまず言ったのは石切丸だったが、「俺もこの本体にかけて誓おう、だから話してくれ」というようなことを全員が言葉にして加州に頼んだ。俺だけがそれを言わなかったのを加州は横目でちらりと伺ったものの、「話すよ」とだけ言って話し始めた。

 主には五つ歳の離れた妹がいる。現世では両親と妹と暮らしており、家族仲は普通。厳しく育てられた自分とは違い、可愛がられて育てられた妹は小さい頃から甘え上手の、自分とは違って可愛らしい女だった。そうであるから主も妹を可愛がったし、そしてそうしなければ自分は両親の"いい子の姉"ではいられなかった。身の回りのものは主よりも妹の方がいいものを持っていたように思うけれど、主の持ちものをなぜかなんでも欲しがった。その度に妹がねだるものはすぐに譲った。「お姉ちゃんなんだから我慢なさい」が主の小さい頃の両親の常套句で、そうであるから何においても妹を必ず優先させた。妹はいつもべったりと主にくっついて仲の良い姉妹であり、それを両親は良しとし「こんなに仲のいい家族もいないわよね」と口癖のように言っていた。

 加州は一度そこで息をついて、「腹が立つ言い回しをしてると俺もわかってるけど、主から聞いた通りに話してるだけだからね」と険を含む声音で言った。大広間に集まったものは誰一人、物音ひとつ立てずに聞いている。

 そうやって育ってきて二年前、主が二十三になった歳に審神者の適性があると通知が来た。初めは妹の方に通知が来たのだが両親がそれを許さず、政府の役人が迎えにきたところで役人を騙して主を突き出した。当たり前だが後々身元を照合したところ別人だと判明し主はその場で拘束。ちなみにここで主は養子であったことが判明したらしい。産まれるところを見ているので妹は両親の実子。その後恐らく政府は両親に連絡を取ったのだろうがその辺りは主にはわからない。結局そのまま適性検査を受けることになり、妹の推定数値よりも良い数値をたたき出して合格。もしかしたらこういうことはよくある話なのかもしれない、と主はその時は笑っていた。

「主の身の上話はここまでね。それでここからが、こいつが呪いの原因だと思う理由なんだけど」
殺気に近い気が滲む大広間の様子に溜め息をついて加州は続ける。

 近侍をしたことがある者なら知っているかもしれないが、主はここに来た時からずっと政府の端末で妹と書簡のやり取りをしている。その内容は現状の報告や日常のことで検閲を通るような些細な話題であったが、執務中や休憩中に返事を書いていてその内容をちらりと覗き見てみると、また妹が姉の持っているものを欲しがっているようである。つまりは本丸。刀剣男士。初めは審神者になった姉の側に来たいという内容だったものが、次第に私の方が審神者にふさわしい、というような内容に変わって行った。こればかりは主も簡単に譲れるようなものでもないので対応に困っていたようである。検閲で規制された文章は×に置き換えられて届くのだが、日に日にその×の数が増えて行くのを主は困った顔で見ていた。ついに×しかない書簡が届いた時には「何が書いてあるんだろうなあ」などと主は最早悠長に笑っていた。それが葉月の初め頃。つまり半年前のこと。その全文検閲で書き換えられた書簡は主が床から出られなくなる寸前まで届いていた。現在に至る。

 加州がちらりとこちらを見る。他に話すことはないか、ということらしいが……、その他と言えば、現世にいた時は何度か恋人すら欲しがられて譲らされたことがあった、というかいつのまにか持っていかれた、というような話題しかなく、さすがにそれは話せない内容だろうと思ったので首を振る。
「以上だよ、他にこいつ以上に心当たりあるやつがいれば別だけど」
誰かの身じろぎとともにかちり、とその得物が音を立てる。
「その書簡というのは見られますか」と江雪の声がするので執務室から端末を持ってきて中心に置いた。古いものから最近のものまでなんとなくスライドしながら目で追うと確かに×の数が増えて行き、そして全てが×に置き換わった書簡を見るや否や「これは」と三日月が眉をひそめた。日常のことなので数など気に留めてはいなかったが、改めて見ると×だけの書簡は夥しい数届いていた。そして見返してみると彼女が完全に伏せてからも定期的に届いている。一番新しいものまで辿り終わる頃、「しかし呪いのもとがわかったとてどうする」と山伏が言った。「呪いを返せるわけでもあるまいし、妹とやらの名前すら知らぬ」「でも唯一顔と、なんとなくこの書簡から気がわかるね」山伏の言葉に燭台切が返す。誰も話さぬ中、しかし本当は誰しもが解決策をわかっている。口に出して、言葉に、音にしてしまうことが憚られる程のことだ。出来得るのかどうかは別として。
「あるじさまをこれからもくるしめつづけるのなら、さがしだしてころしてしまえばいいのです」
原因探しを音にしたのは加州だったが、その暗黙の解決策を音にしたのは今剣だった。言葉を控えろ、とたしなめるものは誰もいない。
「しかし俺たちだけでは現世に行くこともできまい」
と続いた岩融の言も尤もだった。「しかしみすみす殺されるのを待つわけにはいかんだろう」またその場が沈黙へと戻りそうだったので一言投げると、全員の視線が俺を刺した。
「その辺のことは俺か加州がなんとかする。もしだめなら皆も手伝ってくれ。それでもだめなら、その時に考えよう」
加州に視線を投げると、「うん」とだけ返事が返る。「気を揉むことしかできないのは不甲斐ないですが、致し方ない、頼みました」と言ったのは一期一振で、その一言で粛々と解散となった。

 まずは加州が、大将の側に控えながらそれとなく現世のことを話した。まさか「妹を殺す為に現世に行かせてほしい」とは言えず、しかし言わずに決行してしまうのもどうかという葛藤もある。加州の話した通り、彼女は決して家族のことを悪く言わないのだ。それは生まれ持った真面目な性格と、育てられてきた両親の言葉の呪縛から逃げられていないことを意味する。しかしかと言って本心からいい家族だと思ってはいないことは明らかだった。"仲のいい家族"であると思っていなければならない、"いい子の姉"でいなければならない。そのような言葉で自らの思考を制限され続けていて、目を逸らし続けているだけで、恐らく心のどこかでは自らが蔑ろにされ続けてきたことが認識できているのだ。自らの体調不良がどこを出処とした呪いの類であるかということも、きっと彼女は見当がついている。しかしそれは音として言葉にされない限り、現実を動かす力とはなり得ない。
 加州が戻ると、今度は俺がそれとなく枕元で彼女の家族の話をしたが、より体調が悪そうであったので早々と切り上げて寝かせる。彼女が浅く眠っている間に少し考えてから、俺の戻った後は平野に、その後は鶴丸に、そして大倶利伽羅に、それぞれそれとなくそのような現世の世間話をしてもらった。もう一度加州が話に行くと、「最近みんな現世の話をするのね。ほんとうは私がいないと現世に行っちゃいけないんだけど、みんなだけで行かせちゃおうかしら」などと冗談混じりに呟いたらしい。

 あの決定から三晩経った。一段と冷えた夜に室内を最大限に暖めたものの、彼女の体調は悪くなるばかりで、日をまたぐ頃にはとうとう熱も40度に乗りそうな程であった。これを早く治してやりたいのに、しかしそのような話も今晩はできないことに歯噛みする。ただ近くに控えながら、もういっそ全ての理を無視して強硬突破してやっちまうか、という考えが頭をよぎった。現世の人間を殺す手段がないわけではない。現在生きている人間を殺したところで歴史が歪むこともない。ただ不都合が起こるとするなら、審神者の許可なしに現世に行ってあちらの世界に干渉してしまうことに、政府とやらがどう動くかということだ。もしこれを感知された場合、ここの審神者である彼女に何かしらの罰が与えられる可能性がある。折角呪いを解いたのに人間に殺されるなどとなれば元も子もない。そしてもうひとつの不都合は、彼女の、仮にも妹を、恋人である自分が殺したとなると、彼女自身がどう考えるかがわからないことだ。俺自身をどう思おうと、刀解されるようなことになろうとそれは構わないが、彼女の心を傷つけることだけはしたくなかった。
 彼女の限界を迎えそうな身体が生理的に涙を流す。長く呪いに侵された身体はただ彼女自身の持ちうる力によって、もしくは俺たちの祈りのようなものによって、ただ生きることを引き延ばされている。あるいは、現世の政府とやらが引き延ばしているのかもしれない。彼女は今、熱して白くなる寸前の卵だ。もうあとひとつ何かが持ち崩されれば、白身は透明から白濁する。白濁したが最後、彼女は戻っては来ないだろう。誰一人として、熱した卵すら生き返らせる方法を知らないのだ。
 普段以上に苦しそうな彼女の布団の近くに控える。止まらない咳を全身で吐き出しながら、ぼろぼろとこぼれる涙を不躾にも手袋をはめたままの手で拭ってやったとき、彼女は細い息で確かにそう言った。俺は聞き返しもしなかった。細い息で、小さな声で、しかし確かに彼女の言葉は耳に届いたのだ。

「もういっそ殺して」

たった一言だ。聞き違えるはずもなかった。それだから──。

 それだから、俺はすらりと自らの得物を抜いた。枕元に置いてある橙色の洋灯の光が研ぎすまされた刃にひらめく。彼女の目がはっと見開いて、そしてうっとりと弧を描いた。
「いつでも頼りになる、私の、一番素敵な刀」
そう紡いだ唇は乾燥して荒れているけれど、それでも品がいい形をしていると思う。彼女の寝乱れた髪が流れる首筋にめがけて刀を振り下ろした。
 ざすっ、っと小気味のいい音を立てて、刃は突き刺さった。はらはらと、掠めた髪が幾束か切れて布団に落ちる。
「なんで」
と只一言彼女の喉が震えた。彼女の首筋は勿論一筋も傷がつくことなく、薄皮すら切れていないため血の色も見えない。刃は、ただ彼女の寝ている布団と、恐らく畳を幾ばかりか貫いただけだった。柄に手をかけてぐっと彼女に身を寄せる。
「生憎、俺は主人を貫くのには向いていなくてな」
顔を覗き込むとまたわっと彼女の目に涙がのぼった。
「やげん」
と呟く声が震えている。身体を寄せると滲んでくる彼女の体温に、あと数日できっと彼女の身体には限界が来るであろうことがわかりたくもないのに理解できた。手を頬に這わせ、乾燥した唇を指で撫でると手袋の繊維ががさがさとひっかかる。まだきちんと、生きた人間の皮膚をしている。
「それを治す方法を思い付いた」
低く、彼女にしか聞こえない声色でそう告げても、彼女は何も言わなかった。大将はあの言葉を俺に向かって呟いたとき、こうなることを予測していただろうか? もう一度涙を拭ってやると、彼女の手が俺の手に重なった。
「心配するな、すぐに戻る」
身を起こして、刀を鞘に戻す。人体に比べると手応えのない布団からは、するりと簡単に刀が抜けた。思い出したように咳き込み出す彼女を置いて部屋を出るのは気が引けたが、それの原因ごと治すためだと思えば身体に力が入った。
「帰ったら髪を整えてやる。誰か人を呼ぶから布団も変えてもらってくれ」
障子に手をかけてそう告げる。「薬研」と呼び止められたので振り向くと、「ごめんなさい、気をつけて」と布団の中から声がした。
「ん。行ってくる」

 大将の私室を出てすぐの角を曲がると、はたりと出会したのは宗三だ。
「行くのですか」
全ての言葉を省略して彼はそれだけを言う。俺と大将の会話を立ち聞きしている気配があることは俺自身も気づいていた。
「全て聞いていただろう。あの通りだ。大将は任せた」
「まったく。うまくやってきてくださいよ。でなければあれが悲しむ」
「勿論すぐ帰るさ」
それだけの会話をして、宗三の手が肩に置かれる。にやりと笑ってやると、宗三はいつもの溜め息をついてすれ違って行った。
 俺でなくてもきっとここにいる誰かが同じことをしに行っていたに違いないのだ。たまたま言質という言霊を取れたのが俺だっただけであり、そしてそれが自分であったことに俺は誇らしさすら感じている。
 寝静まった本丸は、しかしまだ起きている気配の方が多かった。自らの身と得物ひとつだけで本丸と現世を繋ぐ正門前に立つ。本丸内を歩いてきた時には宗三以外誰ともすれ違わなかったのに、いまここに立っていると、背後にこちらを見ている無数の気配を感じた。それらの全てに振り返りもせずに片手を挙げて挨拶する。審神者の承認がないと開かないはずの正門を手で押すと簡単にそれは現世に繋がった。それが全ての答であり、許しであるのだ。行き先もきっと繋がっているに違いない。一歩現世へと踏み出す。空が白む頃までには帰ってきて、久しぶりに起き上がった彼女の姿が見たい。

2016.12.07

「もういっそ(私を)殺して」という言葉に対して刃を抜いたものの、強引に「もういっそ(彼女を)殺して」という風に言霊を取ってしまえば、妹を殺しに行く口実になると。そして前者の意味で言葉を紡いだのに、薬研との会話で後者の意味となりうることにも気づいてしまい、否定をしないばかりか無言の肯定をしてしまった審神者。薬研極のあるとある台詞に心を持ってかれていつのまにか書いてた。