買い出しに出た先で、寄るともなしに花屋の店先を覗く。庭の花とはまた違った華々しいものたちがそこらじゅうに並んでいて、そのむせ返るような花の匂いに圧倒される。花は好きだがどちらかといえば庭木のような方が好きだった。大ぶりの色とりどりな花の上を目が滑る。たまには切り花を飾ることも悪くない。バラ、ダリア、ガーベラ、かすみ草……。見慣れた花々の名前を見ながらふと、以前花瓶に花を活けた時の記憶が──その時は豪勢なものを作って彼女が珍しいと言って笑った──思い出される。この花はうちにもないし、彼女ももしかしたら知らないだろう、とずるい頭が自然と考えて、ふさふさとした黄色い小花の集合した枝、ミモザアカシアを手に取った。枝一本で十分な存在感もあり、きっと食卓を彩ってくれる。そしてなによりも、……買って帰れば彼女は喜ぶだろうか。大仰な花束なんかでなく一輪だけでも。彼女はきっと、目を細めて、笑いかけてくれるんだろう。頭を一瞬でよぎった思惑に我知らずはっとすれば、店員と目があうので愛想よく挨拶をしておく。……彼女には利用価値がある。それだけにすぎないのだ。彼女も、自分も、自らが所属するところのために、自らの正義のために、周囲の人間を欺きながら生活している。そうやって、彼女もきっとそれをわかっていて、互いに騙し合っているというのに。
「宮瀬さん」
ふいに蘇る彼女の自分を呼ぶ声はいつでも柔らかく、まるでどちらともが職務を忘れてしまっているような(彼女のことだからそのようなことは絶対にないと断言できるけれど)そんな笑顔がひどくあたたかい。彼女が自分の手の中に落ちれば、いいのだ。そうしてすべてが終わってしまったらきっと彼女は自分を軽蔑して離れていくんだろう。そうすれば互いに職務を全うできて、その上こちらの有利にことが進められる。彼女が自分に恋をしてくれたなら。そうすればこの感情にもあまりにも下卑た逃げ道が。だから、そうあればいいと思った。そういうふうに彼女が僕を見てくれるように、自分は動く。それらはすべて、穏便にことを運ぶためのための感情で、と思いつつも、ざわざわと胸の奥底が主張して、その居心地の悪さにそそくさと花屋はあとにしてしまった。
 帰ればキッチンで彼女が夕飯を作っている。広い屋敷のキッチンで、屋敷のために二人で立ち働いているだけに過ぎないのに。「おかえりなさい」と言われれば、先ほど店先に並んでいたミモザアカシアの鮮やかな黄色が目の裏にちらついた。

春 雷
(いつか消える日までそのままでいて)

「この花の名は、バーベナというんですよ。日本名は、美女桜」
「姫ライラックですね」
「スイートピーは『門出』だそうです」
正直なところ、役柄としても、自分が彼女に花の名前を教わる場面はなかった。僕がただ知っている名前を教えていけば、彼女は適宜言葉を返しながら、図鑑の花言葉などを頭に入れている。それが彼女の職務上の必要からだとわかってはいても、その知識を入れることを純粋に楽しむような彼女の素振りが、ひどく、まぶしい。彼女に教えられた花の名前はおそらくないだろうと思うのに、様々な花を見かけるにつけて、彼女の声が、表情が、言葉が、頭をよぎっていく。その感情がどういったものなのか、知らないとは言えなかった。しかし、認めることだって、してはいけない。自分の心が傾きかけていると、気がついてはいけないのだ。いっそ彼女が、こんな自分を笑いとばして、見下げてくれたらいいのにと思うけれど、というひとは、決してそのような逃げ方をしない。そういう彼女のまっすぐさが、僕は。

 『別れる男に、花の名前をひとつ教えておきなさい』
かの文豪がそんなような言葉を小説に残しているのを、僕はただその言葉の部分だけ知っている。

2018.04.09