キスはしないという約束であった。
 彼女を柔らかく横たえて、唇を寄せようとする手前で、俺の唇に当てられる彼女の手のひら。
「好きな人としかキスしないの?」
戯れるようにその指の間に舌を這わせて、そこにキスを落としながらそんないじわるを言えば、「少なからずこういう関係だけの人とはしません」と実に彼女らしい(それは少し情緒に欠けるとも言える)物言いが返ってくる。お互いもういい年齢の大人であるし、このような関係など自分にとっては少なくもない話だ。そういう約束をする女の子は今までいなかったわけでもないから、俺はなにを疑うことも、気に留めることもなく了承しただけだった。ただ、俺に流されるということもなく、互いの肌に滴る汗しか纏うものもないような状況で、そんな悠長なことを言う彼女はやっぱり俺の思考の外側にいると突きつけられる。
 とこんなことになろうとは、さすがに予想し得ない事態であった。清らかな乙女のように、またはこういうことには潔癖のように付けられた印象から、そもそも彼女の方から俺を誘うというようなことはまず発生しない。俺としては、ある日突然俺の前に現れたその時から、いつでも俺の予測範囲を軽々と駆け抜けていく彼女に好奇心が刺激されたのは事実だけれど、つれない態度の彼女が面白かったので声をかけ続けたというところが大半だ。まさか色のいい返事がそう簡単に返って来ようとは思ってもみない。キスはしないと約束したあの日も、それはいつもと同じ冗談のつもりであったのに、いつもと同じように軽口を飛ばした彼女がその延長線上であまりにもあっさり首肯したのだから、今でもその彼女の気まぐれに驚いている。その上、きっと一度きりのことだろうと思っていたのだ。そうであるのに、彼女を誘えばよほどの事情がない限り、相変わらず軽口を叩きながらついてくる。それは正直、意外なほどで。それだから、彼女はほんの少しでも、俺に絆されたのではないかと、どこかで満足していた。釣った魚に餌をやるだやらないだとか、そんな無粋なことを女性に対して言うような下品な真似はしたくはないとはいえ、俺は、確実に俺に簡単に靡かないという女性を、手の内に入れたつもりでいたのは確かだ。

 うだるような太陽に、アスファルトの地面すら溶けそうな夏だ。真昼に外出するのが億劫なほどの気温であるけれど、仕事となれば避けるわけにもいかない。徒歩5分、普段なら当たり前に歩く距離が今日はひどく遠く感じた。高層ビルの多い街の裏、意外と高低差のある土地の、階段を歩いて上がる。ビルの影になっているのがまったくの嘘のように、やはりそこも熱気でどうにかなりそうなほどに暑い。取引の内容を反芻しながら段を踏めば、こつり、とその最上段に歩く華奢で背の高いヒールがある。先日覗いた神楽のショーで見たような、力強く華奢な形のピンヒールが誰かを見つけ、相手の方へと駆け寄って行く。その足は足首の締まった、しかし筋肉のついている引き締まった美しい脚で、ひらりと翻る短いスカートが、この時ばかりは涼しげに見えた。しかし派手な色のそれはそのヒールには合っていないし、肩を露出させた後ろ姿も、少し取り合わせがちぐはぐしている。もし神楽が彼女を見れば秒速以上の速さで眉間に皺を寄せるだろう。巻かれた髪の後ろ姿は派手に、この辺りで働いている女性だろうかと思うのに、男の腕にしなだれかかる身体が、見知ったもののようでつい足を止めた。
「すみませんお待たせしました」
遠のくその女性の声にはっとする。派手な格好に浮く凛とした声は、聞きちがえるはずもなかった。腰を抱かれたのに驚いて男を見上げた横顔の化粧が、たとえいつもとまったく違って顔を作り変えていたとしても、間違いなく彼女は、だ。
 じわり、と滲んだ汗が唐突に不愉快に思われた。そうしているうちにも二人は歩いていて自分との距離が開いていく。彼女は抱かれた腰を振り払うこともなく、この暑いのにむしろ男に身体を寄せる。男を見上げてにこりと笑い、何事かを話して楽しそうにする様が、暑さのせいか目に焼き付いて離れない。──そういえば、もう長らく彼女に会っていなかったような気がする。たまに動くLIMEはあっても仕事の話ばかりで、特別なことは何もない。彼女の方の部署も近頃多忙を極めているらしく、おそらく目の前のあれも、仕事の一貫であろうということは理解できた。きっと近くに他の同僚たちが張り込んでいるのだろう。必要がでない限り、そのあたりの情報は意図的に仕入れることをしないようにしていたため、憶測でしかないわけだけれど。
 階段を登りきり、二人を傍目に入れつつ路地を曲がる。俺には関係のないことだ。視界から消える直前、男が彼女に屈んで彼女が影になる、それだけが目に映った。

 何事もない毎日が、何事もなく過ぎて行く。あれから、彼女と連絡をとることもなければ、ばったり会うようなこともない。俺も仕事が少し立て込んだりなどして、そちらの方に構おうとするのに、ふとした時に頭をよぎるのは彼女のことであった。──あの日、彼女の姿を見るまで、しばらく会っていなかったことすらも忘れていたというのに。どういう風の吹き回しだろうと思う。必要があって他の女の子たちと会ってみても、何かが以前と変わってしまったかのように、彼女らを彼女らとして見ることができなくなってしまっていた。「らしくない」一言で言ってしまえばそれだ。彼女から連絡の入らない携帯が煩わしく、通知が入れば何かを期待して目を向ける。すべて空振りに終わればはたと、彼女から誘われることなんてあったか、という一言が閃いた。いつでも、一方的であったのだ。俺が声をかけることはあっても、彼女が俺に声をかけることはなかった。わかりきっていたことであるはずなのに、彼女が、気まぐれに良い返事をもたらしたことで、そのなんでもない事実が薄められていた。彼女が俺の腕を当たり前に振り払うことができるという可能性を見てしまったという、ただそれだけで、これほどまでに焦りをもたらすとは。薄く、息を吐く。これじゃあ、まるで。俺が彼女を、………………視界の端で電話が鳴る。思考を遮るように手に取れば発信元は槙で、久しぶりの声に誘われて、最近ご無沙汰していたバーを思い出す。「久しぶりに顔を出すよ」と言えば「仕事は片付いたのか?」と返る。曖昧な返事をしておいて、「今夜は全員来られそうだし、息抜きにはなるかもな」という声に、「遅くなるかもしれないけど」とだけ答えて電話を切った。
 果たして、バーに着いたのは日付を跨ぐ頃だ。扉を開ければいつもの席にいつもの人影。もう誰もいないことも予想していたというのに、現実は頭数が一人多い有様である。お疲れ、とかかる声のなかに「お久しぶりです」と明るい声。「仕事はひと段落ついたの?」と聞けば「ばっちりです」と笑ったのは、先まで頭から追いやることのできなかった彼女本人だ。会いたかったといえばそうであるけれど、会いたくなかったといっても嘘ではない。曖昧な感情を、しかし顔には出さずにいつもの席についた。
 彼女は、当たり前だがいつも通りだ。何一つ変わらないがそこにいて、桧山と談笑し、神楽にからかわれ、槙になだめられている。俺が軽い調子で言うことにもいつも通りの軽口が返ってくる。まるで、長らく会っていなかったことは彼女にとって全く支障をきたしていないかのように。俺だけが不本意にも煩わせられていたことが、まざまざと見せつけられる。彼女にとって俺は、取るに足りない存在であるのかもしれない。……それが、どこか、悔しい。今まで、特定の相手にそのような気持ちを抱くことを避けてきたし、避けることもできていたというのに、なぜか、今、それが効かない気配がする。彼女のそばに長らくいることは危険だと脳が発しているのに、しかし感情が、それに順応することを拒否する。く、とグラスを煽ればもういい時間だった。そろそろお開きになりそうで、先に出ようと身じろいだところに、俺に向かって飛んだ声がぴしゃりと先手を打った。
を送って行ってやれよ」もうこんな時間だし。
紛れもなく俺に向かってそう言ったのは槙だ。いいですよそんな、など、彼女が断っているのが耳に入るが、確かにいつも彼女を送っている(と思われている)のは俺であるし、当然のように桧山も神楽も俺が送るものだと思っている。槙に目を遣れば、静かな瞳が物を言った。聡い男だから、俺と彼女との間のことなど見えているのだろうと、前々から予想はついていたものが確信に変わる。正直気乗りがしないことは当然に、しかしここで断るのも角が立つ。本当は方便などいくらでも思いつくはずの脳内が、「じゃあそろそろ帰ろうか」とするりと違う言葉を吐いた。
「いつも甘えてばかりですみません」
エレベーターの中で彼女はそんなことを言った。
「女の子をこんな夜中に一人で帰すわけにはいかないからね」
この言葉はいつものように、いつものトーンであったと思うのに、笑いかけた先の彼女が怪訝な顔をする。
「羽鳥さん、お疲れですか」「そんなことないよ」「お仕事が忙しいと聞いたんですが」「ちゃんも忙しかったみたいだし、お互い様だよ」「そうですけど、でも、」
エレベーターが開く。促して外へ出て、横付けのタクシーまで歩く。かつり、と響いたのはあの神楽のハイヒールだ。
「神楽のだね、それ」「あ、そうなんです。先日ちょっと仕事で必要で……」「すごい趣味の格好だったけど」「あれは……! ほんとうは神楽さんに一式用意してもらってたんですよ……!」
やはり俺が居合わせたことも筒抜けらしい。恥ずかしそうに目を伏せた彼女が、どこか面白くない。へえ、と思わず漏れた相槌に彼女が顔をあげて、そこで目の前のタクシーのドアが開いた。 ──彼女だけ乗せて帰すつもりだった。ドアに手をかけたまま、彼女が振り返る。
「やっぱり、今日の羽鳥さん、なんかへん」
視線が二、三よろめいて、やっと目があった彼女は確かにそう言った。そう? とだけで問うた声が、まさにそれを体現しているのだと発した後に気づく。彼女は、しかしそれでも、俺を引き止める素ぶりも見せなかった。困った顔をしたまま、「じゃあ、」と言いかけるのが自分勝手だとわかっていながらひどく癪に触る。久しぶりに顔を見ていながら、彼女は、俺に対して全く未練もなく別れられるのだ。もちろん、名のついた関係性でもなく、まさにそれを自分が避けてきたのだから、それで当然のはずであるのに。そう思っていれば身体が勝手に、ぐ、と彼女を車内に押した。驚きと戸惑いの声が聞こえて、やはり一人で帰されることまで把握していた彼女が憎い。ドアが閉まるのも待たずに住所を告げる。当たり前に自分の家に帰るのだと思っていたのだろう、彼女はタクシーが俺の家に向かいだした時、知らない住所に首をかしげた。
「どこへ……?」
聡明な子だ、わかっていて尋ねている。にこりとただ笑みを向ければ、次の句は切り口を変えた。
「羽鳥さん、明日仕事なんじゃ」
ちゃんはお休みでしょ?」
意図して、トーンの違った声を出した。その一言に肩を揺らして、彼女が珍しく返答に窮している。一定の距離の空いた車内で、彼女は何か言おうとするものの、その全てを無言のまま制す。女の子といて、そのようなこと、普段はするはずもないが、なんせ相手はで、彼女であるならそれすらも許されそうな気が勝手にしている。結局車内でそれ以上の会話をすることもなく、家に着いた瞬間に彼女の手首を掴んで家の中へと招き入れた。
「おじゃまします」
と律儀に言う彼女は、何もわかっていなくて、可愛いけれど、その故意なのかもしれない鈍感さがやけに苛だたしい。リビングのソファに鞄や上着を放って、彼女のも取り上げて同じように置いて、身軽にしたその子をまた強引に引っ張る。行く先が寝室だとわかれば途端に握った手首に抵抗が入ったが、なんの障害にもならなかった。
 ぼすり、と彼女をベッドに投げて、逃げる隙なんて与えずに覆いかぶさる。しどろもどろに俺を呼ぶ声が煩わしくて、口を塞ごうと思うもそれが叶わないことをすんでのところで思い出した。至近距離で合わさった瞳が、明らかに動揺している。
「羽鳥さん、あの、せめて、」
お風呂に、と言いかけた唇に人差し指を当てる。ちょっと止まるもまだ話そうとするものだから、その自らの指に音を立てて唇を寄せれば、時の止まったように、ようやく大人しくなった。
「バーに来る前に入ってるでしょ?」
眉がハの字に下がる。図星らしい。もう次の句を継がないことを見計らって、彼女の耳元に唇を寄せた。
 普段は、できるだけ話をしながら彼女を抱く。気持ちがいいところもそうでもないところも、確かめた方が早いからだ。やわらかくほぐして楽しませて。そうすれば結局自分にも返ってくる。けれども今日は、なにを言おうとしてもだめであった。口をついて出てくる言葉全てに棘があるように思われて、また、何を言っても彼女に見透かされそうで、無言のままその肌に唇を滑らせる。甘噛みして、舌を這わせて、ワイシャツのボタンをひとつふたつ外した先に唇が触れれば、びくり、と彼女の身体が揺れた。背に手を這わせると当たり前のように身体を浮かせる。造作もなく下着すら外してしまって、上半身があらわになる。上ずった声が所在無げに名前を呼んだけれど、視線以外を彼女には向けてやらなかった。やわやわとしだく胸が、空調の効いた室内でもしっとりと汗ばんでいる。唇を落とす微かな音と、彼女がそれによっておそらく抑えているのだろう吐息や声だけが漏れ聞こえる情事は、あまりに静かだ。
「ぁ、」
手のひらがその先端をかすめれば、案外大きく彼女の甘い声が響いた。咄嗟に口元が手のひらで覆われる。切なげに寄る眉に、そのまま泣かせてしまいたいという思いがふつふつと湧き上がる。
「ん、っ、ふ、」
両の胸を持ち上げるように揉みながら、時折先端に触れる。きゅっ、と摘まれるのが好きらしい。片側を指で玩んで、柔らかい肉に口付けを落としていく。ちゅ、ちゅ、と落とすのをいつもと同じようにやっていたつもりだったのに、いつのまにか彼女の胸元には赤い花がいくつか見えた。今まで、彼女の肌にそんなものを残したことなどない。だから、彼女が嫌がるのかどうかもわからない。けれどもその鬱血をひとつ目にしてしまえば、だんだんと理性の箍が外れゆくのがわかる。
「ひ、ん、っ、う」
未だ口を抑えて喘ぐ彼女にはきっと見えていない。それをいいことにやわらかな胸に強く吸い付いて、鎖骨にやわく歯を立てる。ここは隠せないかもしれないと頭をちらつくのも全て知らぬふりをした。いくらも赤が彼女の肌を彩ったのに満足して、やっとその先端を可愛がってやる。いきなり口に含めば、簡単に身体がしなった。声が明瞭になったので盗み見ると、抑えていた手が外れかけている。もっと、そんな理性なんてかなぐり捨ててしまうくらいに、彼女を溺れさせてしまいたい。舌先で乳首を舐め上げれば「やああ」と情けない声がようやく上がった。それに気を良くして、そのまま胸への愛撫を続ける。片手は腹や脇腹をなぞりながら、徐々に下着へと這わせていった。ぴたりと閉じた太腿の合間に手を滑り込ませる。ストッキング越しの汗ばんだ肌がほんの少しだけ滑りを悪くした。彼女が自ら脚を開くように、ひたすら内腿や膝裏までを撫であげていく。ちゅっ、と胸から唇を離して身体を起こせば、潤んだ瞳が俺を見上げた。たくし上げていたスカートと、ストッキングを一気に脱がす。俺がやりやすいように腰を浮かせたのはきっと無意識なのだろう。下着越しにぐっとその中心を膝で押してやれば、ほんの少し腰が揺れた。もっとそうして女に堕ちて、身も蓋もなく俺を欲すればいい。半開きの唇が、俺をねだる言葉を吐くように、ゆるゆるとそこを親指で撫でる。彼女を見下ろしながら、唇を割り開いて歯列をなぞり、ゆっくりと口内へと指を差し込んだ。
「ふ、う、うぅ」
舌の側面をゆるりと撫でてやればいい反応が返ってくる。裏側を撫でて、引き出して、押し込んで。今までこういう風に戯れたことはなかったけれど、彼女は瞬く間にとろけた顔を見せた。手持ち無沙汰な手でもう一度乳頭をつまむ。
「や!」
指を咥えていることで抑えられない声がとうとう漏れた。それを逃さぬように今度は口内に二本指を入れて舌を挟む。だらだらと口角から唾液が流れ落ちて、彼女をひどく汚している気持ちになった。まるで口淫をさせるように指を動かす。彼女にそういったことをしてもらったことは今までにないが、ぐちゅぐちゅと鳴る音が卑猥で、そういうことをしてみてもいいように思える。
「んぁ、あ、あ」
思い出したように膝もそこを押してやればいい声で啼く。ずるりと指を引き抜いて、ついで最後の下着も足から抜いてしまう。ぐっと、わざと大きく脚を開かせる。やめて、と当たり前のように抗議が出たけれど、そこを無遠慮に暴けばいとも簡単に腰をわななかせた。
「すごいぐちゃぐちゃだね」指舐めてただけで気持ちよくなっちゃった?
「やだ、ちが、あああ、だめ、っあ」
入口に指を添えるとぴたぴたと音がする。彼女の唾液など取るに足らないほど、そこはしとどに濡れている。
ちゃん、こんなにいやらしい子だったっけ?」
自分にそのケはないつもりであったけれど、案外女の子を貶めていくような言葉がするすると出てくるものだ。彼女がいい反応を示すこともそれを促す一つの要因だろう。彼女は必死に否定しながら、それでももう嬌声を止められないらしい。とろとろしたそこに不躾に指を入れる。普段は一度陰核でイかせたりするけれど、そんな余裕はいつのまにか俺自身からも剥ぎ取られていた。
「ひゃあん、っ!」
くちゅりと軽い音を立てて指一本くらい平気で飲み込んでいく。ぐちゃぐちゃに引っ掻き回したい欲を抑えて、ただそれだけでひどく緩慢に彼女の中を愛撫する。
「ん、う、っ、うう」
ぎゅっと目を閉じてしまった彼女は、この慣らされた身体を俺の指一本だけで慰めようとしている。ゆらゆらと腰がゆらめいて、彼女の中のいいところを俺の指が触るように誘発していた。そこに指が当たりそうになればずるりと引き抜く。少し陰核にいたずらをしつつまた中に押しやると、今度こそと言わんばかりに腰が動いた。
「あ、あ、…………っ、う、ん、っ、あ、」
決定的な快楽を一切許さなければ、彼女の声も表情もだんだんと切なげになっていく。しだらなく口を開けて呼吸をしたり、または唇を悔しそうに噛んだり。どうしようもない熱を身体に溜めて、発散することもできなくて。きっと気持ちがいいのに、かなり、つらいのだろう。かわいそうに。……かわいい。
「ううう。はとり、さん、」
ついに我慢がきかなくなったのか、初めて聞くようにすら思える甘えた声が俺を呼んだ。
「どうしたの」
いつもならここまで焦らしたりなどしないものだから、これでも俺が動かないことが意外だったのだろう。腰がぐらぐらと揺れだすので、こら、とそれを封殺する。そうすればもうあとは言葉で俺に頼るしかないはずだ。
「はとりさん、いじわる」
「そう? いつもよりちゃんが我慢できないだけじゃない?」
そう言ってしまえば呻くような喘ぎがまた漏れる。上気した頰に流れる涙が、生理的なものだとわかっていても嗜虐的だった。彼女の弱々しい手が、俺の腕を掴む。
「も、やだあ」
「じゃあ、やめる?」
「ちが、んんっ、やめない、」
じゃあどうしてほしいの、とは言ってあげない。ゆるりと指を引き抜くと、こぽ、とそこから愛液が溢れた。指を追いかけるように腰がゆらめく。
「もっと」
「もっと?」
彼女の下腹部に手を当ててじわじわと撫で摩る。間接的な刺激に、それだけで彼女が息を呑んだ。
「もっと、っ、して、ください」
まだ足りない。続きを促すように彼女を見る。息を呑んだ彼女は、きっと何を望まれているのかわかったのだろう。躊躇いがちに開いた唇が一度閉じて、噛んで、そうしてゆっくりと紡いだ。
「……羽鳥さん、ほしい、です」
その言葉に漏れた笑いは少なからず自分に向けてである。睦言の、そのたった一言で、自分は満足してしまうのだ。彼女の額に口付けを落として、ベッドサイドの棚を探る。一切乱していなかった自らの衣服を手早く脱いでしまって、それの封を切った。ぬかるんだそこに押し付ければ、いつもよりも熱く、うごめいているように感じる。いつも挿れるときは少なからず苦しい声を出す彼女をいたわっていたが、緩んだ反応しか見せないのをいいことに一気に押し入る。
「っ!」
「きゃ、あ、あああ!」
途端に中がうごめいて、ぐいぐいと搾り取られるような動きをする。彼女の手が腰を支えていた俺の腕に爪を立てた。背が反って、挿れただけで達してしまったらしい。
「あ、あ、ぅ、? っ、はあ、な、んで、」
「挿れただけでイっちゃったね?」
困惑している彼女につい笑いかけて、間髪入れずに動かす。
「ま、っ、っああ、ああやだ、は、とり、さ、っ! まって!」
ぎゅうぎゅうと中が残酷なほどに痙攣する。一瞬でも気をそらせば持っていかれそうなほどの快感に襲われた。それでも、止めることなどしてやるものかと執拗に腰を動かす。
「や、ら、も、むり、やだ、ひぅ、うあ」
ぐちゃぐちゃに犯すと彼女はもうずっと気をやっているような状態らしい。爪を立てられている腕が痛い。やだやだと振り乱している髪が胸元に張り付いて、その隙に先ほどつけた赤い花が見える。彼女がこんなにも取り乱して、右も左もわからなくなるほど俺に縋り付いているという事実が、極上の優越感をもたらした。それなのに。
「は、と、りっさ、ん、」
ほらまた、君はそうやって。
「なんか、あっ、おこって、る、っ?」
潤んだ瞳が開いて、まっすぐに俺を見据える。まだそんなことを考えている余裕があると、俺の視野の外から彼女が投げかけてくることも苛だたしい上に、他人の顔色を読む、というわけではないけれど、どうしてか俺の感情を把握している彼女が妬ましい。
「そんなこと、ないよ」
ぽたり、と自分の汗が彼女の身体に落ちた。にっこりと笑ってあげて、その実ぐずぐずと自分本位に動けば普段は聞かれないようなあられもない声がさらに彼女からあがる。
「あっ、んん、やだ、やっ、はとりさん……! い、じわるっ、ぁああ」
過ぎる快楽に再び目をつぶってしまった彼女の瞳は伺えないけれど、目尻から涙が落ちるのが見える。
「泣かせちゃったみたい」
「っううう、あ」
身体を寄せればまだ奥に入り込んだらしい。ぼろぼろとその涙が増える。目尻に唇を寄せて、ちゅう、と涙を吸う。違う、と彼女は言いたいようだがそれももう言葉にならないようだった。俺の腕からシーツに取って代わられた快楽の逃し先すらも疎ましく思えたけれど、手を繋ぐのは。きっと、いけないのだとやめた。
 まだまだ彼女をいじめてやりたくて身体を離して一度動きを止めれば、大きく動かされる胸が、自分の乱した彼女の呼吸が強調されて、頰が緩む。やっと与えられた休息に、とろりとした目できっとその俺の表情を見ていたのだろう彼女の目がほんの少し見開かれる。まるで他の女の子が自分に恋した瞬間のようだ、と思ってしまったその瞳に、まさか彼女にそんなことがあるはずはないのに、と今度は違う笑みが浮かんだ。
ちゃん」
こっち。腕を自分の背に導く。素直に従って抱きつかれる格好になると先ほどより顔が近くなって、彼女の乱れる様が間近に見えた。俺はまだ動いていないのに、彼女の中は貪欲にうごめいている。ゆるく奥の、さらに奥まで入れればそれに呼応した音が静かに漏れた。彼女が薄く目を閉じる。
「ん、っ」
「ここがいいんだよね」
「や、そんな、」
違う、というように首を振るから、ゆるく引き抜いて、もう一度再奥へと突きつけた。彼女の身体がわななく。ここが弱い。──俺が、そう仕向けた。
「あぅ、」
勢いをつけたので、ぐちゃり、と隠せもしない音がする。汗のひかない彼女の背がしなる。
「そっか、気持ちよくない?」
ぐちゃり、ぐちゃりと間隔を早めていけば、漏れ出す声が甘さを増す。重さを持って叩きつけるので、こちらも相当に気持ちがいい。彼女の肩を抱いて、首筋に顔を埋める。湯上がりのいい匂いが髪からするのに、首筋には珠の汗が流れていて、それが情欲をそそった。
「ううん、っ、きもち、いい、っ、です」はとりさん、
何度目か知らない俺を呼ぶ声が切なさを増して正直になった。壊れたように気持ちがいいと訴える。
「俺もすごく気持ちいい」
一言囁けば、その言葉が彼女の中を一層狭める。
「っ、」
「ぅあ、あああ、はとりさ、いっ、ちゃ、う、」
ぐっと力の入った彼女の身体を力任せに抱きしめる。背に爪が立つ感覚がして、つい、目の前の首筋に歯を立てた。薄い膜があることがわかっていながら、その奥のさらに奥まで届くように腰を叩きつけて吐精する。彼女を、そういう意図でどうこうしたいという欲はないけれど、彼女の身体の中心まで俺を感じて欲しいと思えば自然と深く中をえぐった。
 強張った身体をそのままに呼吸を整える。彼女の中もしばらく力が入りっぱなしで、震えているその華奢な身体を抱いていると、普段はあまりないけれど、もう一度欲望が擡げるのが止められなかった。とりあえず持って行かれる前に引き抜いて、つけていたものの処理をする。その間も汗ばんだ身体を投げ出すままの彼女の無防備さが目に痛い。ベッドサイドの棚を探ればそれはまだあった。
「ごめん、ちゃん」
一言、唐突に謝った。快楽の余韻を受け流していた彼女の瞳がそれをみとめて、あからさまに動揺する。
「ぅ、え、……! もう、やだ、や」
咄嗟に背を向けた身体をそのまま引き寄せる。彼女の白い背があらわになって、代わりに顔が見えない。投げ出された手に早くも力が入ってきゅっと握られた。お願い、むり、やだ。と彼女がいくらか紡ぐ。散々焦らして、蹂躙して、自分本位に彼女を貪ったのだ。情けないけれど、これきりと言われてもしようがないように彼女を抱いている。けれど今は、やめてあげるつもりはない。
「うん。いやだね。ごめんね」
「ちが、そうじゃなくて、まって、もうむり、っあああ」
俺を後ろ手にでも止めようと彷徨う弱々しい腕を振りほどいて、腰を立たせて無理に突き入れた。
「うああ」
悲鳴のような声だ。しかしその中は先ほどまでの行為でもう十分ほぐされていて、なんなく全てを呑み込む。声が枯れかけているのか、体力の限界であるのか、やだやだと喘ぐ声は弱々しい。
「っはは」
気持ちが良かった。とても。こちらを振り向く彼女には、今、きっと俺しか写っていない。あの掴むことのできないちゃんが、俺だけに意識を向けている。
ちゃん」
「っ、は、い、?」
名前を呼べば、律儀に返事が返る。こんな風にぐずぐずにされて、身体も声もひどく無理強いさせられているのは俺のせいなのに。丸い尻を撫でればもう声もなく身体を震わせた。狭まっていく中に、だんだんと律動が早くなる。
「ねえ」
いたずらに身体を密着させる。両腕を押さえ込んで、彼女の逃げ道を全て、俺が断ち切って。
「このまま中に出していい?」
耳元に小さくそう囁いた。「へっ?」と間の抜けた声をあげたのは一瞬で、言葉を理解した途端に抑え込んだ身体が弱々と暴れる。
「いや、っうそ。つけ、て……? だめ、 ! っあ! 羽鳥さんっ」
半分理性の戻った声だ。収縮する中はきっと快楽を拾っているのだろうに、そうやって、俺になんて絶対に惑わされない彼女がこの上なく愛しい。まあ、もちろん避妊はしているのだから、それはあまりに悪趣味な、ただの嘘だったのだけれど。
「ごめんね、っ、いきそう」
正解をあげなければ彼女は勘違いをしたきり、振り返ったその瞳がぼろぼろと涙を流した。泣かせた。最低なことをしている自覚はある。
「ぅ、ああ、やめ、はとりさん、やだ、っぐ」
「うん、ちゃん、ごめん」
互いの息が上がる。終わりも近い。
「ああ、やだ、や、ぅ、いっちゃ、う、ゃらああ」
「っ、ん」
ぐっと締め付けられたそれに、今度は抵抗しなかった。二度目の膜越しの吐精。彼女の身体を押さえつけながら奥へと腰を打ち付けて、それらを全て流し込む。強く押さえつけていたせいで、彼女の腕がほんの少し赤くなっていた。労わるようにそこに唇を滑らせて、彼女を覗き込めば、上気した頰が快楽を逃しながらも、ぐすぐすと泣いている。俺に気づいた彼女が何かを言いかけるので、その口を手で塞いで、その上から唇を寄せた。リップノイズを立てようと、彼女に口付けしたような気にはならない。
 身体を起こして、それをゆっくり引き抜く。ころりと力を失って彼女の身体が転がる。後処理をしてふたつめのそれをごみ箱に捨てた。
「はとりさん、やっぱり怒ってる」
いじわる、ひどい、など様々な言葉がこぼれ落ちたのは、結局それが嘘だったと見ていたからなのだろう。身を横たえて動かない彼女に布団をかける。
「ごめんね」
幾度目かも、どれに対してかももうわからない空虚な謝罪が落ちた。彼女の隣に、少しの距離をとって横たわる。
「……羽鳥さん」
「うん?」
すぐに背でも向けられるか、泣かれるか。もしくは怒られるか叩かれるか。そういうことを覚悟していた。それなのに、彼女の手が俺に伸びて、指先があまりにこわごわと手に触れる。
「……きらいに、なりましたか? 私のこと」
どうして彼女がそんなことを言ってしまうのだろう。天が落ちるほどの衝撃に言葉を失う。そもそも理由も何も伝えることなく、ただ心の内だけの感情で、その上自分にだけ都合のいいように、彼女に無理を強いたのは俺だ。嫌われるべきは俺のほうなのに。
「ごめんなさい……! こんなこと、聞かれても困りますよね」
返答をすぐにできなかったのが仇となって、彼女がはっと手を離す。平静に戻れば聞き分けのいい子だ。このまま答えなければ手の届かないところに行ってしまうという直感に、気づいた時にはその手を追いかけて掴んでいた。違う、と情けなく言葉が落ちる。
ちゃんは、俺がいなくても平気そうだから」
つい滑らせた口に、今度は彼女が押し黙った。いつもの軽口ではない分、彼女も軽口でなんて到底返せないらしい。「そんな、」と言ったきり俯いて、その表情は隠される。黙ったまま動かない時間が、実際にはほんの数秒のことなのかもしれないのに、あまりにも長く感じる。かなり無理強いをしたし、もしかして彼女はこのまま眠ってしまうだろうかと名残惜しい手を離したけれど、やっぱりそうはいくはずもなく、静かに、彼女が顔をあげた。「羽鳥さんはいつもずるい」と拗ねたように言う声音が珍しい。
「ごめんね」「ゆるしません」
間髪を入れずに言葉が返ってくる。
「私はそんなにいい子じゃないので」
続いてそう威勢良く言うのに、その割に彼女はおずおずと俺に身を寄せて、いつもの位置に収まってしまった。「いつもみたいに、こうしてくれていないといやです」
先の言葉とは裏腹に力のない声だ。しかし彼女にはやっぱり読めているのだと思った。俺は確かに、彼女が眠ってしまったら、ここを離れるつもりでいたのだから。
「今だけでいいです。嫌いじゃないなら、いつもみたいに眠ってください」
彼女の手が俺の胸に滑る。ね? と小首を傾げて俺を見上げる不安そうな表情に、色々な感情が綯交ぜになる。──可愛い。もっと触れていたい。怒られてしかるべきだ。彼女に触れてはならない。わがままに付き合わせている。そもそも、恋仲ではないのに。彼女をなかせたい。泣かせたくない。抱きしめたい。いつものように。いつも以上に。……俺が動かなければ彼女はまた離れてしまう。怒涛のように押し寄せるその全てに耐えられなくて、つい、その顎を掬った。
 刹那に、一度だけ約束を破った。彼女はされるがままに目を伏せて、柔らかい唇が音を立てる。彼女は俺を止めようとも、抗議もしなかった。唇が離れてもしばらく、吐息の当たる距離でふたりただ黙っている。────この子が欲しいと、気がついてしまった。もうすぐにでも後戻りすらできなくなってしまいそうなほどに。このまま、なだれてしまって、止まらない気配がする。その予感に俺が身じろぐと、彼女が咄嗟に動いて、もう一度だけそこに音を立てた。
「おやすみなさい」
すぐに胸元に顔を埋めてしまった彼女の表情はまたも伺えないけれど、声は確かに震えている。だんまりになってしまった彼女の身体を、いつものように、腕の中に収めた。
「……おやすみ、ちゃん」
なんとなくあやすように背を撫ぜていれば、そう時間もかからずに、彼女の身体が弛緩する。それを見計らって秘書に一件だけ連絡を入れた。
 久しぶりのやわらかくあたたかな熱を抱き直して、白み始めた窓の外を背に目を閉じる。すべてを、ここに、抱きしめて、置いて行ってしまえるように。朝、目を開けば、きっといつもの二人に戻っている。

もう少しだけこのまま
(大谷羽鳥が恋を自覚する話)

2018.07.23