彼女はいつもピンヒールを履いている。高さがきっかり6cmの、黒い、ピンヒールだ。踵の高い靴はすべて同じ高さに揃えてあるから彼女に訳を尋ねてみると、きっかり6cmの高さが一番歩く姿が美しく見える、ということらしい。あまり女性の靴には明るくないためにほんとうのところがどうなのかはわからないが、確かに街行く女性の足元を注視してみると、歩く姿の目を惹くのはそのくらいの踵の高さの靴を履いている人であるような気もした。
 一週間に五日か六日は、彼女はそれらの靴を履いている。つまり休日以外の全日で彼女は背の高さを6cm高く見積もっている。仕事中の彼女はすらりと美しく歩いていて、きつめの化粧も相俟ってとても凛々しい。実際素の、平坦な靴を履いた彼女も、格好良くてきっちりしている面がある。そのたった6cmの詐欺は、彼女のそういう面を強く押し出す仮面のような役割を果たしているようだった。

 家に帰ると玄関先には6cmのピンヒールが既に帰ってきていた。その割には音のしない静かなリビングに、もしかしたら眠っているのかも、と考えて静かに近づく。ゆっくりとドアを開けると、こちらに背を向けてぺたりと床に座り込んだ彼女の姿が見えた。時折ごしごしと目元を擦っている。あの強気な彼女が泣いているのだとわかったのは、その静かな鼻をすする音のせいだ。むしろそれすらなかったら、僕は彼女の異変に気づかずにそのまま部屋に入っていたに違いない。
 靴を脱いだ彼女はいつでも極端に無防備だ。鎧のようなそれを脱いで、ほどこされた化粧もよれてしまえばそこに残るのはありのままのの姿である。彼女はとても気の強い人であるけれど、そして同時にとても弱い人であった。恋人となって短くはないはずなのだが、彼女が弱り切っているところは幾度も見たことがない。彼女は堂々として気が強く、理想の自分の設定値の高い、誰にも弱みを見せようとしない人間である。だから彼女は強い人だ。しかしそれが故に、自らの甘えを一切許さない。恋人である僕にも弱音を吐くことができず、自分自身にすら、声を上げて泣くことが許されない。彼女は弱い人だ。そうであるのに彼女は自分がうまく生きているつもりでいる。それをすべて側で見ている僕は、彼女が危なっかしく見えて仕方が無いというのに。だからこういうことでもない限り、僕は彼女を強制的に甘やかしてやることができない。それが彼女への敬意であり、それが彼女への愛情の示し方である。
 わざと音を立ててリビングのドアを開けた。まるでほんとうに今帰ってきたかのように。そうすると彼女は丸まっていた背中をすくりと伸ばす。
「あ、おかえりなさい」
彼女は自分自身に嘘をついてそれに気づかないだけあって、比類なき演技派だ。僕にかけられた声は、つい今まで泣いていたとは思えない程に平常の声に似ている。
「ごはん、今からつくるけど、なにがいい?」
それからとてもさりげない手付きで涙を拭う。その間はこちらを決して向こうとしないけれど、もし僕が何も気づかずにこの部屋に入っていたなら、彼女の涙などには気づけないであろう仕草だ。どうやって彼女を甘やかそう、と考えていると、立ち上がりかけた彼女がぱたり、といきなりこけた。尻餅をついたとでも言うべきなのかもしれない。
「大丈夫ですか」
と近寄って顔を覗き込むと、
「大丈夫大丈夫」
と返ってくる。しかしほんのわずかに顔を歪めて、痛、と呟いたのをバーナビーは聞き逃さなかった。
「ほんとうに、貴女はいつも、」
と思わず機嫌悪く呟いたのを、彼女は怪訝そうな顔で見上げた。有無を言わせずに彼女をいきなり横抱きにする。えっ、ちょっと、と声を漏らすのを悉く無視して彼女をソファに横たえた。そのまま覆い被さって化粧の滲んだ目元にひとつキスを落とす。
「滲んでいます」
と言うと、自分の言わんとしていることがわかったのか、彼女はばつの悪そうな顔をした。彼女のこの性格はきっと生来のもので今更どうこうできるものではないのだろうけれど、もう少し自分に頼って甘えてくれてもいいのにと思う。たまに、ごくたまに、そういうことではないとわかってはいるのに、自分は心から彼女に信頼されていないのではないかと思う時がある。
 スーツ姿の彼女の、黒いタイトスカートの裾から手を這わす。驚く彼女を他所にその手は腿を撫でながら、ためらいもなくストッキングを取り去った。ふくらはぎからかかと、足の甲に手を這わし、支える。
「やっぱり。隠していたにはこれですか」
彼女の足は、ひどく靴擦れしていた。合わない靴を履いていたわけではないのだろうが、それにしても様々な位置に靴擦れをつくっている。それも新旧さまざまだ。彼女はただひたすら黙って、バーナビーの行動を見ている。その目の前で、目線に持ち上げた彼女の爪先に、バーナビーは恭しく口付けた。それにはさすがのも驚いたのか、な、とだけ言って言葉に詰まった。
 その靴擦れは、いわば武勲のようなものだと、バーナビーにもわかっている。あの凛々しい仕事姿を支えているのはまぎれもなくこの傷だらけの足なのだ。この足が彼女を、彼女の理想の女に仕立て上げている。
「ねえ、大丈夫だよ? 心配しないで」
足を離す気配のないバーナビーに、彼女は上半身を起こしてそう声をかけた。眉根を寄せてはいるものの、顔には笑顔がつくられている。
「……こんなにも、笑顔が惨いと思ったことは今までにないですね」
その表情には、そう言わざるを得なかった。彼女はまた困ったように笑う。
「参りましたよ、貴女には。降参です、降参」
ぱっと足を離して両手を上げる。ここまで、貴女が弱っているのはお見通しですよ、と見せつけてみても、彼女は一向にその口から弱音を吐かない。それには最早、言葉で直接伝えるしか彼にも打つ手はなかった。
 また彼女に覆い被さるように身体を近づける。ごろりと彼女の隣に横になってぎゅうぎゅうと抱きしめた。大きめのソファであるとはいえ、大人二人寝転がるには少し狭い。
「足とはいえ、あんなにも傷をつくって」
と僕が言うのに、消え入りそうな声で彼女がごめんなさいと呟くのを聞き逃す振りをするには、二人の距離はあまりにも近すぎた。
「貴女は強い人です。だけれど、だからこそ、もっと、もっと、僕を頼ってください」
耳元で、まるで睦言のように囁く。黙りを決め込む彼女の顔を覗き込むと、うっすらと涙のあとが見えた。それを指でなぞりながら、目元の化粧をぼかしていく。凛とした印象が、少し幼げに変わった。
「……だって、わたし、甘え方わからないんだもの」
一言そう言った彼女の目は伏せられている。睫毛が戸惑うように震える。
「きっとわたしのこと嫌になるわ」
やっと絞り出したのであろう声は今まで聞いた彼女のどの声音よりもほんとうに弱々しかった。
「馬鹿ですね」
少し身体を離して顔を上げた彼女と目があったので、バーナビーはその瞳に微笑んだ。は一瞬目を見開いて、それから居心地が悪そうに視線を逸らし、今度は自らバーナビーの胸にぽすりと頭を預けた。ほどなくして、彼女の肩が震えはじめる。最初は押し殺していた声も次第にきちんとした嗚咽になっていった。嗚咽に混じる、ごめんなさい、という言葉と、バーナビー、と名前を呼ぶ声。彼女を抱きしめる腕に力を込めて、ゆっくりと背中を撫でながらあやす。時々涙を拭ってやりながら、が泣き疲れて眠ってしまうまで彼女を抱きしめ続けた。

6cmピンヒール

2011.07.25(2016.10.03)

(爪先:崇拝)