甲高い悲鳴が店の入り口から聞こえて、咄嗟にしまったと思った。その声は彼女のものに聞き違えるはずもなく、また、最近この界隈で通り魔が出没しているということは小耳に挟んでいたはずであったのに。先に出て待っていると言った彼女を引きとめなかった自分の甘さが悔しい。自分が隣にいるのだから、彼女に危害が加えられるはずがないと、守ってやることができると自負していたのは紛れもなくオレの不手際だ。
店先に出てみればどやどやと野次馬が集まってきている。先ほど寄った店で買い出した紙袋が店先に転がっているが、野次馬の中心にはまさにそれしかなく、彼女の姿は見えなかった。
「何があった。女は、見てないか」
そこらへんの男どもに問えばあちらと路地裏に指をさす。誰も彼女を追わずにここに留まっていることに虫唾が走る。それらを押しのけてみれば砂の地面が点々と赤く染まり、血を吸っているのが見える。
「女が斬られた」「あれが例の……」「鬼のような面をした男だった」「誰か治安部隊を」
刀の柄を握って強引にその方へ駆ける。野次馬どもの声が聞こえたがオレの刀が目に入るや否や自然と道は開けた。
指さされた路地裏を曲がっても誰ひとりいない。もしや謀られたか、など様々な可能性が頭に浮かび、しかし彼女の無事を確認できればそのようなことはどうでもよかった。気を落ち着かせて辺りをにらめつければ地面に再び真新しい赤い点が一粒落ちていて、そちらへ向えば押し問答のような、彼女と男の声が聞こえる。
「主!」
「っ! 兼さん!」
袋小路に追い詰められた彼女と、例の通り魔なのであろう男が一人。誰かが言ったような鬼の面がこちらを振り向く。踏みにじられた血だまりがそこにあった。オレを見咎めた男が、くそ、と悪態をつくので、ゆっくりと見せつけるように抜刀する。彼女もあれだけ声が張れるのならまだ深手は負わせられていないはずだ。質に取られる前に片をつけたい。
「ちょっと遊んでやろうと思えば刀なんぞ向けてきやがって!」
ちらりと見えた男の手元は彼女を傷つけたのだろう短刀を持っていて、流れた血が柄を握る手を滑らせていた。肝心の彼女は男の影となって詳しくは見えない。しかし威圧しつつ近づけばその男はあまりにもあっさりと及び腰になった。男はオレと彼女に交互に短刀を向ける。……オレが、恐るに足る相手ではない。ただの人の子だった。男が逃げ道を探す一瞬の隙に間合いを詰めて、刀を弾く。片手でその腕を後ろ手にひねりあげれば、「痛え!!!」と大仰にその男が喚いた。
「ああそうだ。痛えもんなんだよなア、傷ってのは」あんたが最近やってきたことと同じだろうよ。
あっさりと男を地に伏せる。体重をかけつつ持っていた手拭いを割いてとりあえずの手錠とすれば、オレがひねりあげた方の腕に生々しい切り傷が見えた。どうもその手を滑らせていた血は彼女の返り血などではなかったらしい。顔だけ彼女に向ければ、彼女がずるずると壁に背をつけて尻餅をつく。
「大丈夫、……か?」
すぐにでも彼女に近寄りたい気持ちを抑えっつ男を逃さないように押さえつけたままにする。肩で呼吸をする縮こまった彼女の袖は斬られていて、二の腕あたりから出血していた。しかしオレの言葉に蒼白ながらこくこくと頷く彼女は胸元に、──剥き身の懐刀を抱えていた。その刃は滴らない程度に、血に濡れている。男のものだろう。
「……お前いつのまにそんなもの忍ばせていやがった」
「最近街も危ないから、ってこんのすけが」
オレの言葉にはっとして彼女はその刀を取り落としかける。ところへ、先ほどの野次馬の誰かが呼んだのだろう治安部隊が到着した。男を彼らに引き渡す。単簡な事情聴取などをする間、その一部始終を彼女はただ呆然と見ていた。
主にも話を聞きたいという彼らをなんとか追い返して、未だ固まったままの彼女の目の前に膝をつく。そのまま抱えていた剥き身の懐刀を彼女の手から若干強引に奪い取って鞘に納めた。彼女の手には戻さず、オレのそこへと入れる。
「悪い。俺がついていながらこんなことに」「いえ、兼さんが絶対助けてくれるってわかっていたのでだいじょうぶだった」「……よくやったな。怪我は、大丈夫か? 帰ったらすぐにこんのすけを呼ぼう」「はい。……あの人は?」「しかるべき刑に処されるだろう。……………………あの程度かすり傷だ」「でも血が」「あんたもな」
ゆるやかに震えた両手を揉み合わせる彼女の姿に、歯噛みをする。傷などひとつも負っていないはずの顳顬が痛んだ。これでは彼女を守ったうちには到底入らない。
「怖かったな」
両肩をさすってやりながらそう落ちた言葉に、彼女はただ音もなく何度も頷いただけだった。
2018.03.07
昼下がりの買い出しだからと言って、油断したのはもちろん私であった。兼さんと買い出しに行けばいつだって彼が荷物をさらって歩くので、私はそれなら、とちょっと先に店先へ出たのだ。春を感じさせるあたたかな空気がきもちよく、羽織もいらなかったかしら、と思っているところへ、遠くにゆらりと現れた人影はあまりに不気味で、用心しようと背を向ける間に私は彼と目が合ってしまった。その男がゆっくりと、何気ない風にこちらへ近づいてくる。じりじりと歩み寄るその動きから、目を離してしまえば最後自らに危険が及びそうな気がして、店内へ、彼のところへ戻ってしまおうかと思う束の間、男はその顔を鬼のような面で隠したかと思えば、道の向こうで同じく誰かを待っていたような風情の女の子を懐から取り出した短刀で斬りつける。
「きゃっ」
と上がった悲鳴はしかしあまり大きなものではなかったが、周囲の人間たちを恐れさせるには十分だった。
「大丈夫か」「あの男に……!」「あれは、例の、」
がやがやと野次馬が集まる。女の子は早くも誰かが医者へと連れて行くのが見えた。男を取り押さえようとするものもいたけれど、相手が刃物を持っている以上迂闊に近寄れないらしい。野次馬と攻防しながらその男が逃げる。その合間にも男の刀による怪我人が増え、はっと思った時には身が竦んでしまった私の前にその男はいた。──にやり、とその面の奥の目が笑う。私は咄嗟に最近こんのすけに持たされた懐刀を手探ったけれど、それは一足遅く、気づいた時には腕に痛みが走っていた。その熱いような刃物の痛さに、自分でもこんなに甲高い声が出るのかと思うほど、無様な声が上がった。男はそのまま私の首筋に短刀を当てて、一言「着いてこい」とだけ言う。体のいい人質だろう。少し足掻いてみたものの、力の差と刃物の恐怖にはどうにもならなかった。
絶対に彼は私を助けに来てくれる、と信じてはいるものの、恐ろしいことには変わりがない。路地裏に走り抜けさせられて、抵抗すれば腕の傷口を掴まれた。痛みに顔が歪む。滴る血も厭う暇すらなかった。何度か角を曲がればそこは袋小路で、やっと腕を離されれば壁に投げつけられる。
「あなたが最近街を荒らしている輩なのね」「そんなに有名になっちゃった? 俺」
面の下ではおそらく、下卑た顔で笑っているのだろう。男の話すことは浮かれている。壁を背にしながら、もしこれが私の彼らなら、どのようにこの刀で場を切り抜けるのだろう、と懐刀の柄を袖の中で触りながら考えていた。じりじりと男が近寄ってくる。
「お姉さん可愛いし、ちょっと遊ぼうよ」
などと気色の悪いことを吐くのに、精一杯目を細めて笑ってみせる。袖の中で刀の鞘を抜いた。気持ちが悪いし、何より恐ろしかった。ほんとうは、今すぐにでも彼が助けに来てくれたらいいのに、と(きっと助けに来てくれるのは信じているのだけれど)思う。けれどそれでは、いけないのだと悟った。男の吐息が首筋に当たる距離にきている。私が、自ら、どうにかしなければ。彼らの主として、仕えられている身として、申し訳が立たない。
男の持っている短刀を確認してから、その腕の方へ、闇雲に刀を向けた。寄せられた身体の近さに、そのどれかが運良く当たったのだろう。男が「ぎゃっ」と悲鳴をあげる。「てめえやりやがったな!」「! 離して!」ぼたぼたと男の腕から血が流れるのが見えて、錆のような臭いが鼻につく。身を守るためとはいえ、他人を刃物で傷つけたという事実に身体ががたがたと震えた。取り落としそうになる刀を必死に握りしめながら、これを失ってしまえば今度こそ殺されると思った。背後は壁であるし、もがいても男にかなう力など初めからない。短刀が私に向かって振り上げられる。血に濡れたそれに逃げ場のない私は目をつぶって見ないことにする他なかった。助けて。怖い。早く助けに来て。兼さん、兼さん、
「主!」
「っ! 兼さん!」
そこからのことはあまり覚えていない。いつのまにか片がついていて、私は身体に力が入らずに尻餅をついていた。「怖かったな」と彼が言うのにただただ頷く。何度も謝られるものだから「助けてくれてありがとう」と何度も伝える。私が落ち着いた頃を見計らってか、彼が私の、少し血に濡れた手を握った。「よくやった」と躊躇いがちに言う。「あんたにこんなことをさせてすまない」とも。無我夢中だった私はその刀で男を斬ったことはぼんやりとしか覚えていなかったけれど、ただその事実だけが頭に残っている。彼らにいつも任せていることが、こういうことの遠くもない延長上にあるのだと思うと、恐ろしさは確かにあれど、ただ彼らに畏敬を持って頭を下げるしかなかった。
「きっともう主にこんなことはさせない」
顔をあげれば彼こそがなぜか苦虫を嚙みつぶしたような顔をしている。私はただ「うん」と言って、その武人の手を両手で包み込んだ。
2018.03.12
#リプきたセリフでSS書く 「ああそうだ、痛えもんなんだよな、傷ってのは」