紙のめくられる密かな音のみが室内に響く。等間隔に、まれに止められるその音は、先ほどまでは自分も同じように発していたはずだったけれど、自らがそれをやめてみれば、近くで読書をしているだけのそのひとの呼吸がいやに気になる。
 今日書庫に閉じこもったのはまったく由のないことで、休みで暇を持て余しただけだとも言える。ふいに思い出した小説の一節を探しているうちに何度も読んだことがあるはずの物語に夢中になって、気付けば書庫の中央で大きく構えている広い台のような椅子から離れられなくなってしまった。私が小説の中にいるうちに彼が来て、二、三、話しかけられたので、うん、と返事をしたような、しないような。ともかくそんなこんなで、どうやら私と背中合わせに座った彼は、そこで読書をしている。
 そうっと、音を立てないように振り返れば、伏した睫毛の隙間で浅葱色の瞳が文字を追っている。視線の落とされた先は兵法の古本らしく、崩された文字は私にはあまり読み下せない。ぺらり、とその長い指先がまた頁をめくって、覆われない甲に浮く筋が強調される。なだらかに流れる黒髪が動くこともなく、ただ身体の呼吸するほんの少しの動きだけで彼の活字への没頭が目に見える。
 兼さん、と呼びかけようとして、一度やめる。さして、その続きなど考えてないなかったからだ。けれどもそう考えたところで、どうも結構な時間彼に見蕩れていたらしいことを思い知る。自分自身でそれにわけもなく慌てていれば、今までこちらに見向きもしなかった瞳が不意に上げられて、にやりと細めた浅葱をこちらに寄越される。その矢のような、静かな挙動に私が肩を揺らす間に、彼はなにを言うこともなくまた本へと目を戻した。ちらりとピアスの揺れる音。
「兼さん」
声をかけなければそのなんでもないはずの雰囲気に飲まれてしまいそうな気がしてそう話しかけてはみたものの、静寂の中に案外大きく響いた声に驚く。肝心の彼は勿論動じることすらなくて、んー、などと意味もなさない音を返すばかりで心ここに在らずという体だ。私は、集中力が切れたところでそんな真似をされたものだから、もう本の世界になど戻れなくなってしまったというのに、当の彼はそこから出てきてはくれないらしい。ひどくずるい。興味の矛先を自身に向けさせておきながら、まったくそれに対応するつもりがないのだ。いつもはただ無言で二人同じ場所にいることが苦ではない上に、安寧ですらあるのに、そんなことをされてしまえば身も蓋もなく今すぐ彼に構ってもらいたくなってしまう。しかし、集中しているところを邪魔するのは少しばかり気が引けるのもほんとうで、室内が静寂に戻ってしまえばもう一度声を出すのも憚られる。──どうしようもなくなってしまった。最早元の通りに本は読めない。けれどここを出て行きたくはない。戯れに少し彼の整えられた髪紐を引いてみればこちらを見遣りはしたものの、それでも彼は現へは戻ってこなかった。髪の毛先を梳いてみれば、もうそのまま放っておくつもりらしい。後ろ手に私の頭を撫でただけだ。そのふたつで万策尽きた私の無策も憂うべきところだけれど、もうこうなれば取り得る行動はただひとつしかない。
 ころり、と背中合わせに、おもむろに横になった。寝る。それに尽きる。そうすれば踊らされた思考は強制終了されるし、構ってもらえずとも近くにいてもいいような気さえする。きっと起きるまで近くにいてくれるのは確かだ。彼の髪を踏んでしまわないように避けて、羽織の端を握る。ふわりと揺れたそれらから衣香のやわらかな匂いがして、その中に目を閉じた。……けれども、かき乱された胸中にそう簡単に眠りが訪れるわけもなく、見えない視界の中では握っているはずの彼の羽織すらあいまいに感じられる。眠るには目が冴えすぎている。仕様がないのでもう一度目を開ける。振り向いて彼を見上げても、その視線は私に向かなかった。この男はずるいのだ。絶対に私の機微なんてわかりきっているのに、こうやって、放っておくのだから。その様子に、どうにも少しだけ勝手に腹を立ててしまいそうになる。それを誤魔化すように、唐突に彼の髪を、羽織とともにばさりと持ち上げた。この室内にしては派手な音がして、その彼と羽織との間にわずかにできた隙間に身体を潜り込ませる。いくら身を縮こめたところで掛布のように羽織で身体を覆えるわけではないけれど、こうしていれば衣服越しの彼の背中に、背をつけることができた。気が済んだので、もう一度、目を閉じる。そこには確かに彼の温度があって、それでようやく鼓動がなだらかに落ち着いてくる。羽織一枚に大した防寒効果などないだろうけれど、その彼との隙間が妙にあたたかく、急激に眠気を誘われる。まどろみに沈む予感がして、身体を抱くとともに少し羽織を引けば、予想以上に引っ張ってしまったらしく、小さな声とともに彼が身じろいだ。わずかにこちらを振り向いたらしかったけれど、今度は私が彼に構ってあげない番。大きな手が私の髪を梳くのをそのままにしておいて、誘われるままに意識を手放した。

 身動きがとりづらい。浮上してくる意識に外の光がだいぶん暗くなったように感じる。微睡む中で瞼を開けずにいれば、その暗闇があっという間にぐっと濃くなった気がして、そんなに寝過ごしてしまっただろうかとぼんやりと思った。寝返りをうとうと思うも、思うように身体が動かず、掛布が引っ張られてまるで床に張り付けられたようだ。近くに人のいる気配のするのは兼さんだろう。もう本は読み終わったのだろうか。
「主殿」
悪戯な声が思うより近くで、じっとりと囁かれて驚きに目を開ける。その先には夕陽を背負った逆光に妖しく光る浅葱の瞳。身を屈められると触れてしまいそうになる鼻先に、両腕を身体の横に突かれて彼に囲われていることをようやく理解した。夕焼けがあるのに、私の瞼のうちだけ暗かったのはこのためだ。
「えっ、な、何」
せっかく落ち着かせた鼓動が寝起きにも関わらず早鐘を打つ。思わず羽織を握り込むものの、それも引っ張られていて──いつのまにか掛布のように私に掛けられた羽織もろとも、彼が突いた手が床に縫い止めていることが知れる。
「機嫌は治ったか?」
「……なんの話ですか」
「ひとの背を借りてふて寝してたのはどこの主様だったかねエ」
眠い頭を叩き起されて、まだまともに働いていない脳がその言葉を処理する。ふて寝、と言われると確かにその通りだったけれど、そう明け透けに言われるのは恥ずかしい。思わず口ごもれば、つん、と触れる鼻先。
「か、兼さんが構ってくれないから」
身体は逃げるに逃げられず言葉だけが無意識に走る。へえ、と言ったのみの彼の目元が面白さのうちに違うあたたかな色を湛えて笑う。
「夕飯まであと半刻ほどか……主のお望み通り構い倒してやるよ」
ちゅ、と鼻先に唇が落とされた。手を引いて身体を起こされる。そのまま抱き込まれるのだと、勝手に予想していれば、彼はそう簡単にはいかないのだ。ほら、と腕を広げられる。私に与えられた、選び取れる選択肢はひとつしかないけれど、視界が広がったことで俯瞰されてしまった状況に、羞恥心が身体を躊躇させる。言葉も押し留められて唸ることしかできない私を、そうやって、彼は見かねる。
「初めに心をどっかにやっちまってたのはどっちだ」
ほんの少し音量を失った声がした。はっと顔をあげれば、しかしその声とは裏腹にいつもの悪戯な表情。見詰め続ける浅葱色は、それ以上なにも話すことをしない。
「いじわる〜〜〜」
我ながら捨て台詞のようなものを吐いた。彼の腕に飛び込めばその背中よりもよほどあたたかくて、求めていた温度に恥じらいもなく抱きつく。
「オレも拗けてんだよ」
「……! ちょっ、苦しい、兼さん、苦しい!」
力強く私を抱きしめながら、愉快そうに笑う声に、私も釣られて笑い出す。同じようにぎゅうぎゅうと力を込めて彼の体躯を抱きしめてみるけれど、まったく効き目はないようだ。今までもなかったけれど、彼に勝てる日なんてこれからもきっとこない。

ずるいのにきなひと

2018.12.23