夜中にふと、誰かの首筋に顔を埋めて眠っているような感覚がした。ひとりきりで寝ていたように思うのだけれど、実はそうではなかったのだろうか。密着して、抱き合って、包まれている感覚。生温い体温が眼前で健やかに動いている。どことなく骨張った自らとは違う身体のつくりは、男のものだとすぐにわかる。
全体、私は男性の首筋が好きだ。女にはない凹凸と骨筋張ったかたち。薄い皮の下に絶えず動く脂肪の少ない身体。それを眼前にすると、私はいつでもどうしても舌を這わせたくなる。唇を寄せて、舌を這わせて、歯をたててやわらかく噛む。そうしてしまえば相手の表情は見えず、その行為が相手を悦ばせているのかもわからない。ただ、自らの欲望のためだけに、私はそこに唇を寄せたい。
静かに眠っている身体は身動きを取らない。私を抱きしめていて、ただそこに呼吸しているだけのその身体で、心臓と空気の通る気道だけが動いている。恋人ではないな、となんとなくわかる。しかしそれなら、これは一体誰だろう? 昨晩は確かに、気を失うように寝てしまったような気はする。家に帰った途端に、寒さの為に布団に吸い寄せられて。……もっといろんなことがやりたかったのに。最近毎日そうだ。毎日楽しいと思っていて、仕事も滞りなく順調で、然した疲れも感じていない、と自分では思っているのに。
閉じている目を更にぐっと力を入れた。誰だかわからない相手の首元にぐいぐいと頭を押し付ける。縮こまった身体が心なしか抱き寄せられて、喉が唾液を嚥下する気配がした。……起きている。そう気づくと途端に、なんとなく色事の気配を感じて抱き寄せられる腕に気が漫ろになる。そうして更に近くなった首筋が私を誘惑する。噛みたい。舌でなぞりたい。それが色欲に直結しているのは明白だった。この誰かわからない男に抱かれたい。この人が欲しい。そう思いだすと頭の中がそれだけにいっぱいになって、首を伸ばして唇を彼の首筋に寄せた。首筋に触れる寸前、やはりこの男は誰だろうという疑問に突き当たる。そろり、と目を開けて覗き見ようとすると瞬間にその男は消えて、いつもの私の冷たい布団の中であった。
あまりにも現実味を帯びていたけれど、近くに人の気配がするでもないし布団も私の体温しか吸っていないように感じる。夢であったに違いないのだが、抱き寄せられる力や呼吸する身体があまりにも本物だった。寝惚けた頭で考えてもなにもまとまらず、寝返りを打つと窓の向こうはちょうど朝の陽が昇る寸前で、それを認識すると途端に身体が冷えたような気がした。もう一眠り、と目を閉じきる前にまた夢の中へと溶けて行く。
最近こういう夢を見るの、と誰に相談できるでもなく、また眠りが浅くなるわけでもない(日常生活に支障がある訳でもない)ために、毎晩見るその夢をなあなあにしながら日々を過ごしていた。ただ困ることと言えば、高確立で起床した時に身体の熱を持て余すことくらいであるけれど、それこそ何一つ、誰にでも言えることではない。
朝特有の気怠い身体を無理矢理引き起こして支度をする。今日も今日とて、仕事に行かなければならない。もう何年もそういう生活をしていて、それが生きていくことであり、そうしなければならないからそうしている、と思っている。別に私には他にやりたいことがあっただとか、他になるべきものがあるだとか、そういう不満はないけれど、毎日朝起きて仕事に行き夜帰ってきて眠る生活がいつまで続くのだろうと疑問に思わない日も数多あった。顔を洗って朝ごはんをつくりながらワイシャツを羽織る。無難な黒のスーツは見慣れてしまって、面白くないなあと思わないこともない。支度を終えると決まった時間に家を出て、決まった時間に仕事が始まった。
ふと、またあの感覚がする。私のつむる目の先に呼吸をする男がいて、それは恋人ではない。縮こまっていた身体を動かして彼に触れると、その纏うものはすべらかに上質だった。胸板から手を滑らせて彼の首へと腕を回す。抱きしめられている腕が私をあやすように背中を撫でた。腕に力を入れて顔を埋めると、ふとどこかで知ったような匂いが鼻を掠める。誰かの使っていた香水だろうか? それにしてはもっと日本風な匂いであるように思うけれど。すんすん、と数回鼻を鳴らしてみるものの、それは記憶の底を浚うだけで決定的なことはなにも掬えなかった。代わりにまたも身体の熱が高ぶり始める。いつか抱かれた誰かの匂いに似ているのだろうか? もしかしてほんとうにここには誰かがいて、とふと恐怖にかられてはっと目を開けると、やはりいつもの朝で布団も部屋の中も私一人だった。
布団から抜け出して顔を洗って着替える。いつもと同じ時間に家を出る。何も変わらない日々。
週も後半にさしかかり、その日は酷く疲れていたのかもしれない。いつも以上に眠ったことに気づかずに、気がついたら香の男に包まれていた。最近、帰宅してから就寝までの時間が刻一刻と早まっているように思う。家で過ごす時間のほぼ大半を寝て過ごしていると言っても過言ではない。しかし寝ているとは言っても夜中(であるのかはわからないが)に気がつかされて、いつもの男の腕の中で目を覚ます。この生々しい夢をもう何度見て、この香の男にもう何度ただ抱かれただろう。決定的なことはなにもせず、どうしてこうも毎夜欲情するのかもわからない。いつも首筋に顔を埋めるとその人が欲しくて仕方がなくなるのに、どうしてか目を開けてしまってその男は忽然と消える。その度に熱を持て余した身体をどうにか慰めるのに何故か全く満足できなかった。いつしか私は、毎日、毎夜、冷めない身体を抱きながらその男を待っている。
それだから最近は彼に気がつかされるとすぐに、腕を回して首筋に顔を押し付けるようにしていた。そうすると男の方が気がついて私の背中をあやしたりだとか、頭を撫でたりだとかそういう仕草をとる。顔も何物かもわからないその男にそうされることで、私は何か許されているような気がした。そのほんの少しの間だけ、何も変わらない毎日にどこか空いてしまった心が埋められるように感じる。惰性で生きているつもりはないけれど、ふとするとそういう風に考えてしまいそうな毎日を、この香の男の腕が、身体が、何故か許してくれるのだ。ずっと続けている仕事、あまり合わなくなってしまった恋人、生涯とまでは言わないだろうがあと数十年は続く毎日。
しかしそれが満たされるとすぐに、私の身体はいつも熱に襲われた。焦らすような炎が、身体の奥底に巣食っている。そうなってしまうと、その男は必ず私を抱えなおして体温を押し付けた。私の身体の機微など全て、見透かされているのだ。まるでこの男にすべてをコントロールされているのではないかと疑える程に。そこからはただ、悶えさせられるだけだった。焦れる炎が大きくなって私が耐えられなくなってねだりそうになるまで。しかしそうなると必ず唐突に、何故か目を開いてしまう。そうするとまたいつもの朝だ。それだから、今晩はわざと、目を開かされる前に思い切って目の前の男の首筋に歯をたてた。この誰ともわからない男には恐らくいつだか抱かれたことがある、という謎の確信が、また、どうせ夢であるのだから、という意識が私を大胆にさせる。歯をたてた唇からじんわりと男の体温が伝う。くっ、と想定外だったのか初めてその男の声らしきものを聞いた。その声になんだか気がよくなって、目を決して開けないように、と頭の隅で強く意識しながら更に首筋に唇を這わせる。ちゅっ、ちゅっ、と音をたてて弄ぶとその香の匂いが強く香った。は、と自分から熱い吐息がひとつ漏れる。その時、その噛まれる喉が唇の向こうでくつくつと笑った。ぎゅっとまた抱えなおされる。頭を柔らかく撫でられながら「やはり愛いなあ」という夜闇のような声を聞くや否や驚いて目が開いてしまって、そうしたらまたいつもの朝であった。
その夜から、目を開けなければ触れられるということに気づいてしまうと、もう止められなくて段々と行為はエスカレートしていった。抱き寄せられるままだった腕を伸ばして顔の造形を確認する。さらりとした短い髪にまるで絹のようにすべらかな肌をその男は持っていた。いつも穏やかに笑っているような頬の造形。閉じた目の睫毛が長く、鼻がすらりとして、唇が薄い。唇を撫でていると口内に指が引き入れられて、並びのいい歯の硬さと生温い舌の感触が指を這った。骨筋張った首筋、密やかな喉仏、鎖骨、顔と変わらぬすべらかな肌を持つ身体。恐らく和装の寝間着。胸板や腹や腕は薄く細いようで、しかししっかりとした筋肉が引き締まっていることがわかる。私より幾分も大きい手。手のひらはところどころ豆ができているように硬く、しかし指は関節が骨張っているものの細くしなやかだ。そして短く揃えられた爪。……そこまで確認すると、ふとこの男の造形が鮮明に頭に思い浮かべられた。酷く麗しい姿のその男を、私は知っているはずがないのに。しかし確信を持ったその目の裏の造形が、私を愛おしげに呼ぶ姿をどこかの記憶の底で知っている。顔の造形、身体のつくり、三日月の浮かぶ人体にはありえないような不思議な色の瞳、着ているものの質まで、私はどうしてか知っている。
考えに気を取られて止まっていた手がふいに握り込まれて、次には私の身体が確かめられだした。大きな手が頭を撫でてそのまま滑るように頬を包む。親指が撫でる瞼は、まるで開けることのないように意識させられているようだ。私がその男を触ったのと同じように彼は私を触りはするものの、恐らくこの男には私が見えているのだと思った。その触り方は確信を持っていて迷いがない。手がそのまま下に滑って唇を撫でる。往復する指に背筋がぞわりとした。力の緩んだ隙間から指が入れられる。歯列をなぞる指が簡単に舌を捕らえ、口内を犯していく。ゆっくりとなぞる指に、ついにくぐもった声が出た。ぴたりと指の動きが止まるので、そういえば私も声を出したのは初めてかもしれないとそこで気づく。漏れ出す声に、にやりと笑う気配。気配だけでこの男が笑ったとわかるのはなぜだろう、と考える間もなく再びゆっくり口内に指が這った。ゆるやかに舌を指がなぞり、頬の裏側をぐりぐりと押す。指が増やされて舌を掴まれる。ただそれだけのじっくりした動きに段々と快楽が引き出されていって、漏れ出す声が止まらないものになった。ぐちぐち、という唾液の音と自らの声が頭に響く。唇の端から唾液が零れる寸前にずるりと指が引き抜かれた。唾液で濡れた指がまたゆるやかに唇を往復する。それが無言の要求であることを、私はどうしてかわかっている。目を開けないように、慎重に、手探りでまたその男を確かめ、両手で頬を包んで唇を寄せた。生温い唇が合わさる。無言の要求だとわかっているのに、男は微動だにしない。もう一度、もう一度。触れるだけの戯れを何度繰り返してもその男は応じようとはしなかった。頬を包んでいた手が男の後ろにまわり、いつしか浅ましく求めるように唇を食んだり舐めたりするものの、それでもやはり男は動かない。焦らされているのかわからないが、しかし明らかにわざとだとわかる。悲しい。とただ思った。もっとこの男に求められたい。
この誰かもわからぬ、夢の男が、ほしい。
唇を合わせる合間にすっと吸い込んだ空気から、香の匂いがする。この匂いがいつも、私を止められなくさせるように感じた。身体を男に押し付けて、唇をほんの少し離した隙間からついに「もっと」と声が漏れる。ぴくり、と男が静かな反応を示す。「もっと。もっとしてほしい」ほんとうは目を開けて、男を見て懇願したいのに、それをしてしまうと何も与えられないままこの夢は終わってしまうとわかっているのがもどかしかった。男が息を詰めて、そして私の動きを止める。「ああ、俺の、」と何かを言いかけた声音は魅入られてしまいそうな程で、愛おしげに頬を撫でる指はとてつもなく甘やかだ。ただ撫でられるだけの戯れにたまらなくなって、更に身体を寄せて男の髪に手を入れる。あまりにもしだらない顔をしていたのだろうか、「相変わらず好い顔をする」という笑いを含んだ声とともにまもなく唇が与えられた。男の方から与えられたそれは、今までにないとめどない快感を私に与えた。あんなに欲しかったのに、一度離してしまいたいと思える程に。初めは啄むだけだった唇がぺろりと下唇を舐めたときに背筋を駆け上がった快感は、この直接の性器でもなんでもない唇から与えられたものであるとは思えないものだ。思わず腕に力が篭る。ぞわりと逆毛立つような感覚がして、そのうちに男の舌が口内へと割り入ってきた。下唇を食みながら、舌を捕らえられる。自らと同じ器官で愛撫されているはずなのに、どうしてこんなに甘く感じるだろう。舌が頬の裏側を舐め、舌を絡めとり、吸われる。これだけの戯れで、今まで感じたことのない程の快感が唾液から流し込まれることに驚いて顔を離そうとするものの、いつのまにか男の腕が頭の後ろに回されていて適わなかった。先ほどの比ではないような鼻にかかった自らの声が頭に響く。寝たまま抱かれているのに、気づくと必死に男にしがみついていた。与えられる膨大な熱量が受け止めきれず、口の端から唾液が流れる。合間にやっと息を吸った時、ふとこの男の麗しい見目が閨事に色映えた表情が目の裏にはっきりと浮かんだ。それが誰かという確信的なことがまったくわからないのに、私はやはりこの男にいつか抱かれたことがあるのだということだけがただ瞬時に理解される。私の身体はこの男にいつか全て暴かれている。暴かれているだけではなく、その全ての手管に慣らされていることすらも理解された。
私がただ喘ぐだけだとわかったのか、頭の後ろに回されていた手が首筋をなぞり、胸元へと降りた。やんわりと寝間着の上から乳房が包まれる。下着をつけていない胸元は、男の手のひらを却ってもどかしく感じさせた。やわやわと全体を揉まれては、ただ乳輪を指がなぞる。足りない刺激に、無意識のうちに身体を突き出したようで、寝間着に擦れた乳首に甘い声を飲んだ。男が満足げにまた笑う気配がするのだけれど、私はただ浅ましく、快楽を求めることに必死になる。自らの身体が、こんなにも快楽を甘受できるということを、私はこの夢の中の男に触れられるまで知らなかったのだ。それはまるで嘘のようだった。決定的な刺激もないのにたったこれだけでこんなにも気持ちよくさせられていることに混乱する。どうにかその混乱をまとめようとするのに、男の手がそれを許さない。やっと唇が解放されると大きく吸った息に、胸が大きく上下する。吐き出す息は震えて、勝手に声帯を震わせた。男の手が胸元を離れる。素肌を下に這っていくのに、それが決定的なことをしないとわかるともどかしさに箍が外れかけて慌ててそれを押し戻した。
「……も、っ……、う、やだ」
喘がされる声にそれだけを乗せるとぴたりと這っていた手が止まる。その三日月の双眸がにやりと意地悪く弧を描くのが、閉じた目のうちに確かに見えた。
「主。そういうときはなんと言うべきか、忘れたわけではあるまい?」
「あ、」
それは何度も、何度も教え込まれたことだったと、はっと思い出した。そうやってこの男はいつでも、私がぐだぐだになって理性などというものが機能しなくなるまで、私を溶かしていた。そのいつだったのかわからない記憶が、知らないはずの部屋の中での情事が、まるでつい最近のことであるかのように思い出されていく。誰かの記憶が流れて入ってくる恐怖、ではなく、確実に自分自身の記憶が、しかしまったく知らないはずの記憶が蘇ってくることに、火照った身体がわずかに震え出す。
「ああ、可哀想に」
とその男は言う。しかしぐずぐずにされた身体を解放してくれるわけでもなくただ抱えなおされる。耳元に唇が寄せられて、男の手がついに潤みすぎたそこにやわらかく触れた。「っ!」音にならない声が喉を抜ける。たったそれだけで男の肩に爪を立てただろうことすら自覚された。その一瞬で恐怖感が吹き飛ばされる。
「う、う、っ、」
「……ほら、言わぬとこのまま朝になるぞ」
浅いところを執拗になぞるだけの指に、次第に快楽にすべてが塗りつぶされていく。この感覚は知っていた。私は再び、この男に教え込まれている。
「そんな、いじわる、」
「ははは、そんな言葉も遣うようになったのだな」
その一言に、いつかこの男に抱かれていた私は、一体どんな女だったのだろうとぼんやりとした頭がはっとした。その私は今の私と同じなのだろうか? この男の愛したのであろう私は、今の私とほんとうに地続きなのだろうか? 私は、私はこの男に愛してもらえるだけの女で、
「あああっ!」
「随分と余裕だなあ」
ずるずると思考に飲まれかけた身体が強制的に快楽に引き戻される。触れられなかった快楽の本質にその男の指がいきなり押し込まれた。
「やあ、あ、まっ、まって」
「ちがうだろう、ほら」
私の頭を彼の胸元に固定する腕が、そのまま唇を荒々しくなぞる。舌を蹂躙する指が私の中を同じくする指と同じような動きをして、その的確な動きにすぐにでも意識が飛んでしまいそうだった。
「っ、は、……き、もちい、」
ほろり、と、口からその言葉が脳を介さずに出る。それを聞き届けると舌を弄ぶ指はずるりと口から抜かれた。しかしぐちゃりぐちゃりと執拗な音は止まらない。
「きもちいい、っ、きもち、い、です」
ただの一言が口にのぼると、あとはもう止まらなかった。理性の箍が外れる、というのはこういうことなのだと、私は初めてなつかしくわかる。男はその私の様子に満足気に背を撫ぜて、指の動きをゆるやかにした。
「好いか?」
あくまでこの男は私の本能を引き出したいらしい。言葉だけでは、これだけでは、まだ足りないのだ。ひたすら焦らされた後の突然の強い快楽に、強制的に発熱した身体を大きく呼吸させる。しかし冷静になろうとすればする程、脳は機能せず、もどかしい熱だけがありあまって身体を襲った。ぎゅうとつぶった目の端に溜まった涙が自らの熱を強調する。
「は、あ、っ、っ」
がくがくと最早快楽だけを求めて私の身体が勝手に揺れる。それははっきりと、この男が求めていることが、私がやるべきことがわかった。
「っ、く、…………っ、もっ、と、もっと、して」
「聞こえぬなあ」
ぼろぼろと言葉の止まらなくなった私に、男は笑う。それは最早私の意思であるのか、男の意思であるのかわからない言葉を紡ぐのにやっとだった。
「もっと、きもちよく、なりたい、っ、も、ほしい、です」
「あいわかった」
男はまるで昼間のように笑った、ように思う。その楽しげな声音とは裏腹に、指が的確に私の中を蹂躙しだす。ぐちゃぐちゃと音をたてながら、当たり前に気持ちのいいところを執拗に押さえ込む。
「きもちい、き、もち、い、っ」
呼吸とともに喘ぐ声も、口に上る言葉も、私にはもうどうにもできない。ただひたすらに与えられる快感が頭の中を塗りつぶした。身体がこれではない熱を求めて、そしてそれを解放する本能だけを追ってがくがくと揺れた。男の指は私にそれを今度こそ与えようとしてくれている。
「ああっ、もう、もう、や、っ」
その達する予感に男にしがみつく。きもちよさだけに塗りつぶされて、もうすぐで与えられる、というその直前に、はたと目が開いた。肩で息をしている私の身体は汗に濡れていて、どろどろの下着が気持ち悪い。「ああ」と誰に聞かせるでもない声が漏れた。気怠く目覚ましの鳴るスマホを確認すると、遅刻ぎりぎりの時間である。解放されなかった夢であるはずの熱を押し殺して、布団から飛び起きた。
その日は、まったく情けないことに使い物にならなかったように思う。いつもの通りに仕事をこなしているはずなのに、ふとした瞬間に身体がその男の手管を思い出すのだ。かと言ってどうすることもできずに、ただただ騙しながら仕事をこなす。仕事を終えた頃にはもう疲れ果てていてそのまま家に帰ってすぐにでも寝るつもりであったのに、終業後に入った連絡によってその予定はなくなってしまった。
いつぶりかわからない恋人からの連絡。どうすべきか迷ったけれど、忙しさにかまけてただ回避する選択肢だけを選び取ってきたことには少し罪悪感があった。食事だけなら、と返信してそのまま彼に会う。いつもの待ち合わせ場所で合流し、いつものように食事をして、そして帰るはずだったつもりが結局いつもの通りになった。食事をしたら別れ話をする決意であったのに、ほんの少しの楽しかった記憶などが私を引き止めなどしたものだから、またなあなあになってしまう。彼の家でいつものように彼が私を抱く。キスをして抱き寄せられて、身体を弄られる。身体は確かに熱を持ってはいくのだけれど、その間中ずっと夢の男がちらちらと頭に浮かんでは、ああちがう、と失礼なことを思った。それなりに私も気持ちよくなって、彼が果てて、まるで抱いていたのが嘘のような距離感で彼が先に眠りについたとき、なんて義務的なのだろう、と思わずにはいられなかった。気持ちよかったけれどなにも満たされることはなく、きもちよくなかった。しかしそれは付き合い始めた頃からそうで、初めは目をつぶることが出来ていたものが今ではできなくなってしまったのだろう。やっぱりもうだめなのだと思うと、疲れた、と勝手に声が出る。ほんとうはすぐにでも自宅へ帰りたいのに終電はとっくに出てしまっているし、住宅街ではタクシーを呼ぶのも困難だ。静かに長い溜め息が溢れた時、疲れ果てた身体がすとんと眠りに落ちた。
いつものように香の男に会わずに目が覚める。「起こした?」と男が布団の外から声を掛けてくるのを適当に返事をして身支度を整えた。ほんとうは今すぐに別れ話をしたいのだけれど、何事もないように抱かれてしまった手前、どう切り出すべきかもわからない。適当に取り繕って仕事に向かい、そしてなにをするでもなく日々が終わる。帰宅して気持ち悪い身体を風呂で清めると吸い込まれるように眠りについた。
そして、起きる。夢を見ることはなかった。朝日が健全に私を目覚めさせ、仕事を終えて眠りにつく。夜毎、その香の匂いを思い出すのに、男自身は決して夢に現れない。所詮夢だったのか、と思う気持ちと同時に、どこかで彼を恋しく思っている自分を押し隠す。身体の熱がさめやらぬまま、何も変わらない日々をこなして、そして折をみて恋人とは別れた。今日も自らの身体を抱いてひとりで眠る。
2017.03.21