一

 仕事をしているとどうしてもどうにもならないことがやはりあって、何をどうすることもできないし、誰にも何にも当たるわけにもいかないので、職場から一等近く、半地下の窓から道路を歩く人間の足のみが見える、薄暗く狭く古い、”街の中華屋”なる店に足を踏み入れる。そういう時は大抵お昼時どころかおやつどきすらもすぎているような時間になってしまっているので、空いた店内で、テレビも有線の音もない中を窓の向かいの席を陣取る。お客さんはいても2,3人(その店の定員は15人くらいのようだけれど)だし、4人席を陣取っても文句は言われない。なんなら私の顔を見ると、そこの女将さんはその席に私を必ず案内するのだから、きっとそれに甘えていいのだろう。
 この店を重宝するのは、ちょうどいい辛さのメニューがある、というところもあるけれど、”ランチセット”という名の、メインの料理に小鉢とスープとお茶にデザートまでついた、”時間帯不問セット”があるからだ。私は今日も迷わずそれを頼む。「坦々麺のランチセット、あと半炒飯と餃子と、オーギョーチ」タンランイチー、と女将さんの鋭い声が飛ぶけれど、それを作っている厨房はすぐそこだ。「お茶は食前、デザートは食後ね?」私が何をいう前に女将さんはそう言って私の顔を見ることなく伝票に書き込んでいる。特にそれで問題はないので「お願いします」と言うと、女将さんは声を飛ばすことなく厨房へ入っていった。食事はマスターの領分、そのほかは女将さんの領分であるらしいので、その必要がないのだ。
 ぼんやりと窓の外の様々な足を眺めながらしばらくお茶をすすっていると、湯気が見えるほど熱そうな食事がすぐに出てくる。大きな器の坦々麺。餃子が3切れ、半と言いつつ一合くらいありそうな炒飯。初めてこのセットで頼んだ時は「お持ち帰りできるからね?」などと言ってくれた女将さんも、私がその一回目でなんなくぺろりとたいらげてしまったために、そんなことは今更一言も言わない。「いただきます」と手を合わせる。
 熱いものは苦手ではあるので息を吹きかけて、視界が曇るのは眼鏡のせいだ。しかしこれがなければ何も見えないのだから仕方がない。唇で熱さを確かめて、一口。辛いけれど辛すぎない美味しい味に身体が温まる。半分ほど食べたところでお茶をビールに変えたいと思ったものの、一応まだ終業していないし、いつもそこで悔しい思いをしている。はー、早く仕事終わらせて帰りたい、と思うままひとつずつもすもす片付けていれば、店の入口がかたりと開いた。
「おばちゃん、まだやっちょる?」
特徴的な方言とその明るい声色には覚えがある。つい顔を上げるとその思った通りの人とばっちり目があって、にこお、と笑うのが曇った眼鏡の向こうに見えた。
「俺ここでいいや」
席を片付けていた女将さんを片手で制し、その人──隣の部署の豊前さんは、私の目の前に遠慮なく座った。
 豊前さん、と名前は知っているし、確かに話したことももちろんあるけれど、営業部の、ひいてはうちの会社の花形とまで評しても過言ではないその人と、二人で食事をしたことなどあるわけがない。いつも誰かしらに囲まれている彼が一人なのも珍しければ、こんな場末の中華料理屋に入ってくるのも想定外だった。
「いい食べっぷりだなあ」
焦りつつも、お疲れさまです、とかろうじて言ったきりもくもくと昼食の続きをとっている私に、彼はそんなことを言ってまた笑うので、私は少し恥ずかしくなる。たった今負い目に思ったことを、彼は突くわけではないだろうが、笑いながらそう言うのだ。なんてことを言うの、など軽々しく非難するわけにもいかないし(そこまで気心の知れた仲ではないはずだ)、言葉を探す間に時間が経って、「褒めてんだよ」と彼が気楽に笑った顔が眩しくてつい目を逸らす。そんなやりとりをしているうちに彼の分も配膳されて、豪快に食べ始めるものだから、やっぱりこの人も(細いけれども)外回りをしている男の人だ。
「ここのラーメンはいつ食っても美味しいよな」
「そう……ですね……」
本人の明るい印象が強いからか、はたまたいつも彼を取り巻いているきらきらした女の人たちの印象を引きずっているのか、このような薄暗い料理屋で彼が遅い昼食をとっていることがちぐはぐに思える。彼もこんなところでこんなに俗っぽいものを食べるんだなという感慨と、社内の視線を独り占めするような男性が、何の変哲もない私と二人きりで昼食をとっているという状況への焦りと不安が去来する。このような状況を会社の女性たちに見られたらと思うと気が気ではない。
「昼飯遅いんだな」
「そうですね。今日はたまたま」
「食ったら戻るのか?」
「はい」
しかし相対するその張本人はそんなことは頭の隅にもないだろう。なんでもない世間話をしながら、彼もまたひとつずつ皿を片付けている。
「そっちはいつも定時であがってるが、今日も定時?」
「はい」
その時、ひらり、と彼が背を向ける窓越しにベージュのロングコートの裾が揺れた。履いているパンプスは、踵は低いものの華奢なヒールで、アンクルストラップにラインストーンの並んだそれの持ち主には心当たりがある。彼と同じ営業部で、大抵彼と話しているあの可愛い女性のものだ。似たパンプスもコートも後には続かなかったけれど、ひやりとしたのには間違いない。彼がする世間話の続きに(言葉の内容が頭を素通りしたにも関わらず)、つい「はい」と口先だけで答えていた。
「ふーん」
戸外の音に耳を済ませて、彼女が戻ってきたりしやしないかと緊張する。「……あの……か?」彼女が戻ってくる気配もなければ、他に会社の女性が出歩いていそうな雰囲気もないようだとようやくほっと息をついたところで、我に返る。
「……え、あ、はい……?」
つい考えが離れて目の前の相手に礼を失してしまったと視線を戻せば、いつも快活な豊前さんが片眉をあげて笑っている。硬く、笑っていない瞳で。
「あの、ごめんなさい私、」「油断したなあ」「え」
この人の纏う空気に棘を感じたのは初めてだ。私と同時に定食を食べ終わった彼が静かにその手を机の上で組み合わせる。
「男っ気がないと思っていたが、単に隠すのが巧かっただけか」
「なんの話ですか……?」
彼が身動きをとったのに、ほんの一瞬遅れをとった。ずいと伸ばされた手先が眼前に晒されたかと思うと、嫌味のない動作で私の前髪を軽く避けて、眼鏡の細いつるを摘む。
「ま、待って何も見えない」
ゆっくり外される動作にその腕を掴むと、彼の細い手首に重そうな腕時計の感覚だけが際立つ。私がどうしようとも、彼は臆するところがない。結局は止められもせず、されるがまま眼鏡を外されてしまえば、近眼の悪化した私には向かいの席の豊前さんの細かな表情など見えなかった。
「ほんとうに何も見えないので返して」
「うん」
彼が珍しく、うん、などと砕けた言葉を使うので(元から固すぎる言葉を使う人ではないが)、これは私が話を聞いていなかったことの仕返しでもされているのだと思った。
「も、もうお昼休み終わっちゃいますよ」
自らの腕時計に目を落とすと、そろそろ会社に戻らないと間に合わない時間だ。
「そうだな」
それでも彼はそんなことなどお構いなしに、眼鏡のつるを弄んでいる。隙を見て取り返そうとするも危なげなくひょいと躱される。
「も、もう、豊前さん」
「うん」
「こんなところ見られたら……」
「ン?」
「怒られちゃいますよ」
「……へえ?」
ぴたり、と私の眼鏡を遊んでいた彼の手が止まった。綺麗に折り畳まれたらしい私の眼鏡が、豊前さんのスーツのかくしにするりと入る。
「え、あの、ちょっと」
「悪い。あんたの眼鏡は今し方折れた」
「いや、そんなこと」
「なにも、見えない、なあ?」
「ほとんど見えないですけど……」
折れた、と言う割には悪びれもしない様子に不穏なものを感じる。そもそもそれはおそらく嘘なのだろうし、けれどなぜそんなことを言ったのかがわからない。
「出るぞ」
「え? あ、はい」
そのうちそんなことを言って、先に身支度をした彼はつかつかとレジへ歩いて行ってしまった。追いかけて立ち上がる。ぼんやりした視界の中でも、狭い店内はどうにか壁伝いに歩いていられるのでようやく追いつくと、ほら、と徐に手首を掴まれて、ぐい、と外へ引っ張り出された。
「待ってお会計」と言ってみるものの背後からは聞き慣れた「ありがとうございました」が聞こえるのみで、支払われてしまったらしいことを知る。
「豊前さん、お昼だ……」「なあ」
彼に手を引かれながら歩く街並みは、眼鏡ひとつないだけでこんなにも心許ない。
「これがないと仕事にならないだろう」
結局会社の入るビルのエントランスをそのまま抜け、ロビーを抜け、エレベーターを待つ間に豊前さんはそんなことを言って、眼鏡が入っているだろうポケットをコートの上から指で叩く。
「でも、まあ、なんとか……どうにか……」
もごもご言う間にエレベーターが降りてくるので乗り込む。夕方近いその箱には人気もなく、私たちが降りる階まで直行するのだからすぐにつくはずなのに、その数分がやけに遠い。

 それ以上はついに何事を話すこともないまま、軽快な音でドアが開いた。このすべてがぼんやりした視界のまま仕事をして家まで帰るのか……となかば眼鏡を諦めながら一歩踏み出ると、お、と声がする間も無く人にぶつかってしまった。エレベーターの内外でちょうど死角の位置にその人はいたらしい。
「ごめんなさい」
顔を上げる前に謝罪が口から漏れる。背格好から同じ会社の男性であることだけが窺い知れた。
「いや、こちらこそ。大丈夫?」
聞き慣れた声に目を細めると、同期入社の人だとようやく気づく。
「だ」いじょうぶです、と声が続けられぬまま、唐突に引かれた腕に足下がよろけた。わふ、と間抜けな声を出して、腕を引いた人物にぶつかる。
「悪い、こいつ体調悪いみたいで」
背後から降ってきたのは、全く知らぬ私の情報であった。え、と腑抜けた声を出そうものなら掴まれた腕に力を込められるので、どうも私は体調不良のところを豊前さんに見つけられて、早上がりをするところであるらしいという情報を得る。
「そうだったんですね。お大事に」
話題の本人であるはずの私が口を挟む隙さえ与えられぬまま、エレベーターの内外の人間が入れ替わる。
「そうだ」エレベーターが閉まる間際にその人がそう言って、「この前の鍵、受け取っといたから」と明らかに私に向けて続いた。少し考えて、先日彼から借りた書類の引き出しの鍵の話だと思い至る。
「あの時は、ありがと、う……っ!?」
ドアの閉まる隙間から手を振られるのでひらひらと振り返すと、またも腕が強く後ろに引かれた。
「もう、なんなんですか?」
「なんでもねーよ」
彼に背後からぶつかったまま、顔を上げると、どこか苛立った表情がふいと逸らされた。すぐに身体を離されはしたものの、腕を強く引く力は変わらない。
 そのまま会社の玄関をくぐり、廊下を抜けて、自らのデスクまで戻ってくる。仕事に戻るつもりで椅子に手をかけると、他部署であるはずなのに臆することなく私の前を歩いている豊前さんが手首を離してくれないので自席を通り過ぎる。ぼやけた視界のせいで周囲の人の顔はなにも伺えないけれど、きっとこれは注目を浴びているとひしひしと感じて背中に冷や汗が伝った。
「あれ、豊前さん、直帰じゃなかったんですか?」
かけられた声は先ほどのあの華奢なパンプスの女性の声だ。まずい、見つかった。私自身は何も悪いことをしていないはずなのに、ひどく動悸がする。さりげなく手首を引いてみても離されることは叶わず、すとん、と座らされたのは空きデスクの椅子である。
「とりあえず俯いて座ってろ」
彼が肩に手を置いて呪いのように呟く。私はそうでなくとも(何も見えないのに)顔を上げることなど恐ろしくてできない。
「こいつが具合悪そうにふらふらしてんの下で見つけちまって。時間あったしとりあえず連れてきた。ここ体温計あったろ」
「あ、ここ、ありますよ」
また別の女性の声だ。艶のある髪をいつでも丁寧にセットしている総務部の女性。
「サンキュ」
身を屈めてじっとしていたのは、思わぬ事態の成り行きに動揺していたにすぎないけれど、隣のデスクの人が心配そうに声をかけてくれる。これはもはやこの騒ぎに乗ってさっさと帰ってしまうのが吉なのではないだろうか? 幸い金曜日だし、土日のうちにこの騒動も忘れられるだろう。……そう願いたいものだ。
「ん」
彼が私に体温計を差し出す。受け取ると、あれだけ強引だった豊前さんは、「じゃあ俺戻るわ。お疲れ」などと周囲に声をかけ、あっさりと離れて行ってしまった。それはそれとして、いいものの、私の鮮明な目は彼のかくしの中にあって、見事にぼやけた世界に取り残されてしまう。一体何だったのだろう。ただの悪戯なのか、それが急に醒めたのか、結局わからないけれども、女性慣れしている人、いやひいては人たらしと言って過言ではないような人はやっぱりなにか考えることが一風違うのに違いない。嵐のように去って行ったなあと深く考えることすらも放棄して上辺ばかり体温を測っては誰にも見せぬまま、適当なことを上司に報告して早退の手続きをとった。普段の顔色の悪さがここで生かされたのは幸いのようで嬉しくはない。

    二

 ふらふらとした足取りで、エレベーターに戻る(もちろん何もかもがぼんやりして見えるからである)。地上階に降りて、はてこれは危険なく帰れるのか? と思った矢先にまたも今度は玄関先の死角で人にぶつかった。
「わ、ごめんなさい……!」
「こちらこそすみませ……あれ?」
ついさっき聞いたような声に慌てて顔を上げてじっと目の焦点を合わせようと努める。どうやら同じ日に二度同じ人物にぶつかったらしい。
「え、あ、ほんと何度もごめんなさい……!」
「いや、いいんだけど、大丈夫か?」
「はは、ちょっと……早上がりしようかなと」
「そうか、風邪、流行ってるからこじらすなよ」
「うん、気をつける」
すれ違いざまに交わせる会話はその程度で、ひらひらともう一度手を振って別れかける。その時点でもうほぼ詳細な表情は見えていないのだけれど、あ、と声がしたのでもう一度振り向いた。
「眼鏡、どうした?」「え? いやあなんか手違いで……さっき壊してしまって」「それ、見えてる?」「あんまり見えてない」「だよなあ……同じくらい目悪かったもんな」「そうなんだよね」「コンタクト持ってるけどいるか?」「あー、大丈夫。家帰るだけだし。ありがとう」「そっか、近いもんな。引き止めて悪い」「ううん、こちらこそ仕事中にごめん」

 駅までそこそこある道は、車道も歩道もないような細道だ。隣を車が通過するたびに気を引き締めながらゆっくりと駅へ向かう。眼鏡買いにいかなければなあなどと思いつつ歩いていると、視界に連動してか脳内も徐々にぼんやりとしてきて、改札を入って電車に乗り込む、その数歩前にまたも手首が引かれるのに大仰に驚いてしまった。
「なっ……んだ豊前さんか。びっくりさせないでくださいよ」
「気づかなかったのが悪いちゃ」
「だって声かけないから……、というか外回りは?」
「今日の分はもうとっくに終わってる」
「ええ……」
乗りかけた電車のドアが閉まる。「いつから近くにいたんです?」一本見送って、次の電車を待つ間に聞いたことには答えが返ってこない。何を話すこともないまま電車に乗り込んで、妨げられることなく私の最寄駅に着く。
 ドアが開く。「ではこれで……!?」一歩踏み出した私に、がっしりと握られたままだった手首が強く引かれた。またも、引き留められる始末である。無残にも目の前で閉まったドアに、振り返って恨めしい目を向けてみるものの、さして彼は顔色を変えることもない。
「ちっと付き合って」
そんなことを言われれば、何の因果かこの数時間彼に振り回されている手前、断るのも馬鹿らしく思えてくる。けれど、ゆっくりと動き始める電車の音に紛れてしおらしくすら聞こえた声に真意を表情に求めると、拗ねたような顔をしているのだから、驚いてしまう。
「わかりました。もうどこにでも連れて行ってください」
ひとつ息をついて、私が白旗を揚げたときの、その表情。瞬時に活気を取り戻した笑顔に、してやられた、と思ったのは言うまでもない。

    三

 それからひたすらに電車に乗っていた。彼の最寄り駅を知らない手前、どこに連れて行かれるのかは本当に分かったものではない。大きい乗り継ぎ駅を越えると目の前の座席が空き、「まだかかるから座っとけ」私一人座らされる。座ってしまえば表情などぼやけて見えやしないし、ただただ先ほど一度だけ掴んだ彼の腕の、存外に豪奢な腕時計を見ていた。そのまま電車は他の路線に乗り入れて進んでいく。乗客もそれにつれて疎らになり、豊前さんも隣に腰を下ろす。
「どこに連れて行かれるんですか?」
ちょっと、の範囲を超えた遠出に、帰りは夜中かと思う。
「さあな。明日は休みだろ?」
「そうですけど、まさかそんなに遠くに……?」
彼はそれに答えない代わりに、「あんたも酔狂だな」などと言うので、「人質がありますから」と彼のスーツを指差しておけば「違いない」と笑う。
「どこまで遠くに行こうかなあ」
と彼は続けたものの、終点の二、三駅手前で私を連れ立って電車を降りた。

 大きくない駅舎を出て、見ず知らずの街を歩く。彼は当然のように私の手首を掴んでいるし、はたから見れば手をつないでいるのに大差ないだろう。歩幅も靴のかたちも違うはずの私と並んで歩いているのだから、きっと歩く速度まで合わせてもらっている。私にとっては見ず知らずの街を、その上不明瞭な視界で連れまわされているので、帰るにも彼の手助けが必要だ。私の行く先はすべて、その手が握っていた。
「腹減ったか?」
職場を出てからというもの言葉少なな彼が唐突に問う。
「さすがにさっき食べたのでそこまでは……」
遅い昼食を(しかもめいっぱい)とったのはかれこれ二時間は前になっていたけれど、それでも夕飯にはまだ早い。
「ま、それもそうか」「豊前さんはお腹空きましたか?」「いや、そんなに」「同じ量食べていましたもんね」「そうだな」
はは、と笑った声に、表情はよく見えなかったけれど、きっとあの快活な笑顔であるに違いない。今更ながらこの成り行きは一体何なのだろうと改めて不思議に思う。
「階段降りるぞ」
手を引かれるまま歩いた彼が建物の前で止まって、そこにある小さなドアを開けた。地下へ続く階段の先がぼんやりと明るく、返事をすれば手首はそのままに、彼が先にゆっくりと降りていく。地下階へたどり着くと、それまで踵が鳴らしていた硬い音が、木の板に柔らかく響いた。からん、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃい。まだやってないんだけど、やっぱり君か」
「悪い。仕事早く退けてな」
かけられた声は柔らかな男性のものだった。豊前さん越しに見た室内は席数の少ないバーで、声の主はカウンターの向こうに立っている。白いシャツ、黒いベスト、黒いネクタイ、黒髪。かろうじてこの距離でわかるのはそれだけだ。
「そちらのお嬢さんは?」
「彼女の眼鏡壊しちまって。詫びで連れてきた」
豊前さんは返答になっているような、なっていなような答え方をする。へえ、と含みのある声でバーテンは答えて、カウンターの端の席を私たちに指し示した。
「立ち話もなんだから、そこに座って。開店前だけどなんでも作れるよ」
「ん。……何がいい? 酒、飲めるんだろ」
確かにお酒は好きだがそれをなぜ彼が知っているのかはわからない。決め打ちの適当を言っているだけかもしれないけれど。
「俺はビール」
バーテンが私にメニューを見せる。
「それなら、……シャンディガフ」

 席に落ち着く頃にはもうそれは用意されていた。乾杯。グラスを合わせるけれども、果たして何を祝福したろうか。帰り道を見越して少し口に含んだのみの私とは違って、豊前さんは思いのほか豪快にグラスを空ける。
「嫌いなもの、あるか?」「特には……スライスのトマトくらいですかね」「ん。じゃあ光忠に任せていいな」「オーケー。ゆっくりしていってね」「はあ……」そこでなんだか急に気が抜けてしまって、ため息ともつかぬ返事がこぼれる。ぼんやりとした視界で、バーテンダーも、豊前さんも表情がよく見えず、案外会話がしにくいものだ。
 それからはオリーブの塩漬けが出てきたり、生ハムが出てきたり、したのだけれど、そのどれもが小ぶりな美しい器に、あるべきように正しく盛り付けられていた。食べるのがもったいないと思えるほど整っている。豊前さんとなんのこともない話をぽつぽつとしていたけれど、おつまみや、酒(いつの間にかカクテルに変わっていた・様子を窺いつつ光忠さんが勧めてくれるのだ)が出てくるたびに会話を止めてしまう。しばらくそうして楽しんでいると、からん、とあのドアベルが耳に入って、どうも開店時間もとうに過ぎていたらしかった。
「豊前さんは、ここからおうち近いんです?」
「んー、少し歩くくらいか」
「こんな素敵なお店が家の近くにあるなんて、いいなあ」
店内は、窓はない代わりにアンティークな風情のライトが暖かく灯りをとっている。カウンターテーブルの質にしても、コースターにしても、全てが品よくカスタマイズされていて、静かに音楽が流れる中で気にならない音量の会話が耳に入るのが心地がいい。この数時間で、私はこのバーの虜になっていた。
「それは嬉しいな。次は何がいい?」
穏やかな声がカウンターの向こうから混ざる。光忠さんが、ぐ、と身を乗り出してくれて、私と顔を合わせたものだから、そこで初めて、その顔すらも素晴らしく整っているのだと気がついた。
「あ、えっと……」
琥珀色の瞳が弧を描いて私に微笑みかける。思わずしどろもどろになったのは不可抗力だろう。目を落とした先の、カウンターに添えられている手袋に包まれた手指すらも整っている気配がする。
「何がいいでしょう……おまかせ、っ、!?」
します、と言えなかったのは(この言葉の遮られ方は今日何度目かも知れない)、いつの間にか背後に回っていた豊前さんのせいだ。ぐい、と襯衣の襟首を引かれる。「な、」いつでも不意に大雑把な方法で動きを止められるので、心構えが当然ない私は必ず驚いてしまうのだからしようがない。振り向くと影になっていて、顎を持ち上げられるのをどうする気にもなれず彼を見上げれば、赤い瞳が硬くこちらを見据えていた。
「な、なん……ですか……」
久しぶりにぼやけていない豊前さんの表情は冷たく、そしてこちらも大変整っていたのだと改めて知らしめられる。なにも言わないまま目だけまじまじと見つめられて、ふい、と彼は席を後にした。
「はは」と面白そうに漏れた声は光忠さんのものだ。「ごめんね、つい面白くてからかっちゃった」その断りはどこに対してのものかわからない。
「お酒、僕に任せてくれる?」
「え、あ、はい」
カウンターの向こうに戻った光忠さんの表情はもうぼやけているけれど、柔和に笑んでいることは雰囲気でわかる。
「豊前くんも何か飲むかな」
「どうだろう……私よりお酒強そうだし飲むのかな……」
「ふふ、うん。彼のも僕が見繕うよ」
「お願いします」
「それで、無粋なことを聞くけれど、」
迷いない手つきで、シェイカーに透き通った酒を注ぎながら、なんでもないように光忠さんは口を開く。
「君は豊前くんの恋人?」
「へ」
間抜けな声が出たものだった。思ってもみないことを言われるのだから、意味をなさないような否定をするので手一杯だ。
「まさか」
慌てる私を、雰囲気で光忠さんが笑う。
「豊前さんは隣の部署の人で、私にもよく話しかけてくれるから」
「それでこんなところにまでついてきたの?」
「それはわりと不可抗力ですよ。さっきみたいな……」
「眼鏡ね」
「眼鏡もあります。私今、光忠さんのお顔もあんまり見えていないので」
カクテルグラスに注がれた酒は透き通った色をしている。滑らせるように出されたグラスに添えられた指先を見ていたら、その手が柔らかく私の手の甲を撫でた。
「覚悟はできた?」
「えっ……と?」
カウンターの向こうから伸ばされた腕が、私の前髪を耳にかけて、再びその表情が間近に見える。今日腕を掴まれたどの時よりも弱い力で、指先に触れられているだけなのに、この状況で身軽に反応することすらできないところで、やっと自らの身体に酒が回っているのだと気づく。にんまりと弧を描いた瞳に息を飲むや否や、突然身体ごと後ろに引かれてぐらりと脳内が揺れた。
 光忠さんの指先を私から剥がしたのは見覚えのある腕時計で、「油断も隙もねえな」「人のこと言えないでしょ。もう少し二人きりで話したかったな」その言葉に軽い音を立てて光忠さんの手が払われた。遅れて事態を把握したことには、その人に後ろから腕を回されて、抱き込まれるように身体を背後に引き寄せられている。丁寧にもその腕がそのまま私の顎を上げて上向かせるので、私を覗き込む彼とばっちりと目が合う。
「あんたも、なんで避けないんだ」
「なんか、びっくりして急には……?」
眉間に皺の寄った表情は初めて見る。顔を歪ませても元がよければかっこいいものなんだなあ、など、こちらもこちらで対応しきれない事態に、あさっての方向に思考を飛ばしたのがばれてしまったのか、彼はため息をつきながら席に戻った。
 カクテルグラスには白っぽく透き通ったシンプルなカクテルが入っている。ひとくち含んだだけですっきりとした飲み口が爽やかに鼻に抜ける。
「美味しい」「僕の”最高”だからね」
もう一口、と口をつけたところで、豊前さんの前にもカクテルが差し出された。
「……悪趣味」
見たことのない見栄えのそれに、豊前さんは思い切り顔をしかめる。リキュールグラスに紅茶のような色合いのカクテルが収まっていて、グラスがレモンと「砂糖……? 塩……?」「砂糖」砂糖で帽子を被っている。
「それ、強いからチェイサー出しとくね」
「はい、ありがとうございます」
「豊前くんは思い切りがいいね」
「それ、そうやって飲むんですね」
「……美味い」
豊前さんが砂糖ごとレモンを口に含んで、グラスを煽る。いい飲みっぷり、と見ている前で不承不承という雰囲気で豊前さんが感想を言った。
「ありがとう」
光忠さんもそれに嫌味もなく笑っているので、口先ではなんだかんだと言いながら、仲がいいのだろう。豊前さんにはまた新しくお酒が追加されているけれど、私は先の透き通ったカクテルをちびちびと舐める。思いの外強かったそのアルコール分に、そろそろ飲めなくなるだろうと許容値を見た。再び彼とのなんでもない話に戻りつつ、ちら、と腕時計を見ると結構な時間で、そろそろ出なければ終電もなさそうだ。色々とお任せして出してもらってものの手持ちが足りるか、それともカードでも使えるかしらと光忠さんを目で探すと、はたと隣から手首を引かれた。
「なんですか」
今日のこのたった数時間で、彼からの接触に驚かなくなってしまったのはいかがなものだろう。振り向くも彼は何も言わず、先ほどの光忠さんのように手の甲を親指でなぞる。もう一度時計の盤面を確認しようと手首を返しかければ、そこでようやく彼の意図がわかった。
「豊前さん、終電」
たとえ時計を見せてもらえないのだとしても、スマホなんて便利なものがあるのだから、ほんとうはそれを取り出してしまえばいい。それも彼もわかっているのだろうけれど、相対した人は、ただ静かに「そうだな」と言ったのみである。──ここで彼の手から、私が手を引かなかったらどうなるのだろう。
「おうち帰してくれないんですか?」
「帰ってもいいぜ」
彼は手の甲に盤面がくるように腕時計をつけている。私の手を掴んでいるその腕に。ぼんやりと視認できるそれが、沈黙の中で正確に時を刻んでいるのが見えている。どうしようか逡巡したのは酒のせいにしておきたいと思っている矢先に、ふと先ほどの光忠さんの言葉が閃いた。あの唐突な言葉はもしかして、この状況まで先読みしていたのだろうか。そのうちに豊前さんの手は器用に動いて、私の手を弄ぶ。両手で包まれ、手の甲をなぞり、腕時計は眼鏡のように取り外される。指先から指を伝わせて、付け根の指輪に爪をかけてはじく。指の側面を触れるか触れないか絶妙な加減でなぞるのに、小さく指が跳ねたのは自然な反応だと思うよりほかはない。指先を軽く摘まれた思えば唐突にしっかりと指を絡ませて手を握られる。
「帰らねえの? 終電、まだあるだろ」
裏腹な言葉は笑っていた。誘われている、という言葉はきっとこのためにある。こうやって彼は、きっと幾人もの女性を虜にしたに違いないのだと自分を戒める。この甘い指先に乗ってしまうのは、絶対に得策ではない。彼とはどういった関係性でもなかったはずなのだ。友人とも呼ぶことができぬ、同僚とも言い難い、ただ、隣の部署にたまたま在籍しているだけの、人。彼について知っていることもそう多くはない。何が起きても、これ以上に発展することだってないように思える。彼だってきっと同じはずなのに、なんの気まぐれだろう。けれど私は、そのきっと数多いる女性たちが踏んだ同じ轍を、踏まずにはいられないのだった。
「人質を返してくれたら」
握られていない方の手で、ハンガーにかかった彼のジャケットを指差す。少しくらい反抗できると思って発した言葉だったのに、「返してもいい」とあっさり放った上に、解放されはしないものの緩く繋がれているだけの手のひらのみで、私の全身は拘束されてしまったかのように動かない。
「……これからどうするんですか」
「そうだなあ、うちに帰るか」
「私も家に帰れるのだけれど」
「潰れてないな」
「お生憎様で……このまま飲み続けられもします」
これが精一杯の虚勢であった。毅然と、簡単になびいたわけではないですよ、と姿勢に示して、それは誰に対しての言い訳なのかもわからない。
「それで、そこのに潰されるって?」
細めた彼の瞳がカウンターの向こうを刺したのを確認できたのは、豊前さんが私に近づいたからだ。宙空で握られていた手が私の太ももに乗る。
「それでもいいかもしれません」
ぐ、と手に力が篭った。
「気の強い女ちゃ」
その言葉に鼻で笑って見せる。……”あの”豊前さんに、性別など関係なく人間をたらしこむ人を前に、挑発するのはあまりにも無謀だ。しかしもう引き返す道など自ら絶ってしまったのだから、どうにかこの人を前にしてまっすぐ立っていなければならない。
「おまけに肝も据わってる」
今度は豊前さんが笑う。短く僅かなものだったのに、その赤い瞳の輝き方が重層に見えた。一日彼に付き合って、いや、それよりももっと以前、彼と知り合って話すようになってから今までで一番、楽しそうな笑みだ。しかし殊更に悪い表情、爛々とした瞳がじろりと私の瞳を刺す。
 まずい、と直感が背筋に走った。この人に捕まったら逃げられなくなるという予感。それまでの虚勢などまるでなかったかのように咄嗟に引いた腕が許されるはずもない。痛いくらいに握り込まれて、しかし身体は離される。
「それ飲んだら出るか」
私の前であと数口残っていたカクテルを、豊前さんが指差す。
「待っ、」「終電もうとっくにないだろ」「そうですけどでも」「こいつをくれてやるつもりはない」「僕も横から攫おうなんて考えてないんだけどね」
あっという間に呼ばれた光忠さんが急に会話に巻き込まれて、しかし動じずに受けている。彼に伝えられた会計は軽くいなされて伝票を見せてもらえることもなく、器用に片手で財布を探してカードで支払いを済まされてしまった。光忠さんは苦笑いで「また来てね」とチェイサーを追加してくれるにとどまってしまう。
「もうあとはないけ、それ、飲ませてやろうか」
彼が私のグラスを引き寄せて、ひとくち舐める。唇を舐めた舌を見たとき、その微塵も変わらない表情に、初めから私に逃げ道など用意されていなかったのかもしれないと理解せられた。
「もう飲めなければ無理しなくていい」と言う彼からひと思いにグラスを奪う。
「いい飲みっぷり」
煽った酒は熱かった。全てがぐらりと揺れるのを目を伏せて耐える。水を飲みつつ身体を落ち着かせて帰り支度をすると、豊前さんはその場でどこかに電話をかけた。電話口で話しながらも片手で私の手首を触るその手つきに、この手に引っ張って行かれる数多の女性を思った。私もその一人になってしまうのだ。その時によぎった感情に目を瞑る。生きていればこんなこともあるだろう。今までは一度もなかったけれど。
「大丈夫か?」
覗き込まれた彼の顔が妙に冴えて見えた。
「大丈夫です」
明日の朝にもこの酒は残っていない。昔から私の身体は、酔いはするものの、必ずまっすぐ歩いて帰ることができる体質だと知っている。記憶が飛ぶこともないのだ、何が起きても。何を起こしても。

 背後で、からん、と鳴る音。
「豊前」
「おー。今行く。ありがとな。……ほら、帰ろーぜ」
手を引いて、彼が先に立つ。
「何も見えないだろ。また手を引いてやる」
「ありがとう、ございます……?」
手を差し伸べるという段階がないその行動は、意図としては私の考えていたことと合っていたらしい。礼を言ったものの、けれどそもそもこの状況を作り出しているのは眼鏡がないからで、と考えていると語尾が上がってしまい、それを彼は面白そうに笑った。
 再び初めのように連れられて外に出る。見送ってくれる光忠さんに手を振って階段を一段ずつ登ると、外は暗闇になっていた。街灯が少ないのだ。もし眼鏡があれば、空には星が瞬いているのかもしれない。店のそばにレトロなトラックが停まっていて、そのエンジン音だけがあたりに響いている静かな夜更だった。
「悪い。こんな夜中に」
「いいよお。お姉さんのためでしょ」
運転席側のドアに凭れて待っていたのは豊前さんよりも少し背の高い男の人だ。先ほどバーのドアから顔を出した(と言っても遠くて風体しかわからなかったけれど)彼と、豊前さんが会話をするのをぼんやり聞いている。一体どういうことだろうと思いはするものの、確かに彼が一人暮らしであるだとか、そういった個人的なことは尋ねたことがなかったので知らないのだ。
「身体冷やしちゃうから早く乗って」
エンジンをかけたままのトラックに彼らは誘導する。光忠さんが特段止めることもなかったし、危険に身を晒すようなことにはならないだろうと彼らを信用して、私も助手席側に回る。
 車内を覗くと、席、というものが確固としてあるわけではなく、フラットな座席が広がっていた。「さみ」と後ろで豊前さんが呟くのが聞こえるので慌てて乗り込むと、自分より当然身体の大きい男の人に挟まれることになるわけで、内心少しは冷や汗を流す。
 ドアが閉まる。エンジン音のみが響く静けさの中で、トラックは細い道を滑り出す。彼に握られていた手首は、乗り込む時に一度離されたものの、また元の位置に戻っていたと思う間にそのまま手のひらへくだり、指を絡ませてされるがまま握られた。車内は暖かく、彼の手のひらも私より温かいので、私の指の先のみが凍えたように冷たく感じる。
「お姉さんは明日休み?」
ふいに運転手に声をかけられて驚く。「あ、はい」名乗りもしていないのだからそう呼ばれたのだろう。私も彼の名も素性すらも知らないが。
「すみません、ご厄介になります」
「ううん、一人増えても変わらないから大丈夫」
あっけらかんとそう言った彼は、信号で止まった際にこちらを向いて笑いかけてくれる。どこか豊前さんに似た面立ちと、長い前髪に隠された目元が見えずとも知れる造形の整い方に、しげしげと表情を眺めてしまい、「わ」横から手を引かれる。手が離されてそれが簡単に腰に回り、引き寄せられて。す、と初めて香った彼の匂いに心臓が跳ねる。脇腹あたりに手が添えられるものだからそれにもつい驚いて跳ねれば、反対側で運転席の彼が声を出して笑った。
「あ、あの、ご兄弟、で……?」
豊前さんを苗字で呼んでいたことが引っかかるけれど、彼の口ぶりから察すると同じ家に住んでいるということは確かなようだ。
「あれ、話してなかったの」
彼の問いかけに豊前さんは、おー、と気もなく答えたのみだ。いつもより近くに聞こえた声に顔を見上げるとやはり驚くほど近く、窓の外を見ている彼の、首筋の黒子が眼前に晒されている。
「兄弟ではないんだけどね、近い親戚なんだ。苗字も違うよ」
「そうだったんですか。なんとなく、面立ちが似ていると思って」
「豊前は兄みたいなものだけど、……こう警戒されるのもねえ」
そこでまた、彼はふふふ、と笑った。狭い車内で依然として豊前さんの腕は私の腰に回っている。運転席の彼は光忠さんと同様、仲が悪いわけでもなさそうなのに、豊前さんがどこかつんけんしているのが面白い。
「あの、私、豊前さんとは隣の部署の、」
「うん。豊前がよく話すから知ってるよ」
「え」
寝耳に水とはこのことで、そうなんですか? と振り返る前に「桑名」と(桑名さんというらしい)彼を豊前さんが呼ぶ。「前見ろ前」「はいはい」車が通るどころかいつの間にか辺りには田畑が広がっている細道で、道路には信号すらない。その先に灯りの灯る一軒家がひとつ見える。
「はい、着いた」
その家のあたたかそうな色が近づくとともにトラックの速度が落ち、その玄関先にするりと停まる。
「駐車場まで回ると歩くのに寒いからここで降りて」
「ありがとな」
促されるまま、豊前さんがドアを開ける。
 こんなところに住んでいたのか、が正直な感想だ。彼は確かに言葉に少し訛りが混じることがあるけれども、それでも普段の彼の立ち居振る舞いや何かから、どうにも都会のモノトーンなワンルームに住んでいる気がしていた。実際は一人暮らしでもなければ、ワンルームでもないし、思うよりあたたかな色をしている家だ。
「あ、松井は明日の夜までいないって」
「こては?」
「朝から出かけるって言ってた」
「そうか」
私の荷物まで持った豊前さんが先に降りる。
「そうだ、お姉さん」
「はい」
「嫌いなもの、ある? 明日の朝ごはん」
「いやいやそんな、そこまでご厄介になるわけには……!」
「うん、まあ、ふふ。一応聞いておこうかと思って」
含み笑いの意味に、つい忘れていた状況を思い出す。男の人に連れられた身一つの女。それが、今の私だ。どういう勘ぐりを持たれてもおかしくはない。しかしそう考えると桑名さんの対応は慣れたもので、やはりこういうことは数え切れないほどあるのだろうか。
「えっと、じゃあ……トマトとか、セロリとか……は、苦手です」
わかった、と桑名さんが笑う。
「おやすみ」おやすみなさい、と言う前に豊前さんが私の手を引いた。家の裏に回るトラックを見送ってから、彼に連れられて玄関をくぐる。

    四

 広い三和土に靴は並んでおらず、豊前さんも靴を脱いですぐに、据付の靴箱の戸を開けた。そろり、と踏み出した床板は懐かしい冷たさをしている。玄関先にはあかりが点っていたが、他の部屋には点いていないらしい。玄関を上がったすぐ先の階段を、豊前さんに連れられて登る足音にも気を遣う。廻り廊下を歩いていて気がついたことには、ここがこの都会には珍しい、広い日本家屋のような家だということだ。”のような”というのは、造りは日本家屋らしいけれど、引き戸のみでなく洋風なドアも多く見受けられるからである。
 廊下を進んだ奥の部屋のドアを彼が開けた。先に彼が入り、私も後からついて中へ入る。はたりと彼がドアを閉めて、そのまま灯りさえ点けずに腕を引かれる。あっという間に彼の腕の中に囲われてしまった。肩口に彼が顔を埋めるので、首筋に吐息があたってあたたかい。ぎゅう、と抱き込まれるものの、それ以上動くこともなく、そこで彼は大きく息を吐いた。
「無用心だな、いいのか?」
そう言われて初めて、拒絶する選択肢を与えられていたことに気がついた。ここに踏み入れた時点で、もうそのような頭などなかった自分を咎められたようで恥ずかしくなる。それなのに彼にきちんと腕を回すことすらもできず、迷った挙句にコートの腰の辺りを握り込む。ふうん、と彼が鼻を鳴らす。覚悟を決めたものの、彼はやはり一向に動かなかった。しばらくして見合わされた瞳がにぶく光っている。両手がそろそろと身体を上がって、両頬を包まれる。やわく触られるのをされるがままにして近づいてきた彼に目を閉じたけれど、こつり、と額を合わせられてすぐに解放される。互いの鼻先が掠めて、──それだけであった。
 室内へと導かれる。夜目が利いてきて、視力の悪さで見えない部分以外は視認できるようになってきた。本棚、ソファと、ラグ、ベッド。部屋は洋室である。窓近くにあるベッドまで手を引かれる途中で、彼は持っていた荷物をソファに放る。コートやジャケットを脱ぎながら、かくしから私の眼鏡と腕時計をベッド近くのテーブルへと置いた。その手で暖房の電源を入れる。自分の上着を壁に掛かったハンガーにかけて、私のそれにも手をかけた。されるがままになってしまったのは、私がもう雰囲気にのまれてしまっていたからだ。脱がされたコートと、羽織っていたカーディガンをまとめて取り上げられて、先ほど掛けた彼のものの隣に几帳面に並べられる。そこで、──ピ、と音がして、思わず目を閉じた。点けられた蛍光灯は闇に慣れた目に刺さる。再び両手で頬を挟まれて彼が顔を合わせる。私の瞳のピントが合うまで近寄って、「いー顔」彼はいたずらに笑った。
「な! からかわないでください」
その明るい声に途端に自らの期待を自覚してしまってつい、彼の手を抑えた。
「酔い醒めたか? 風呂貸しちゃる」
彼の親指がそろりと私の下瞼を撫でる。もしかしたらマスカラが移っていたのかもしれないと思うとさらに羞恥心が募る。
「酔いは醒めましたけど、そこまでご厄介になるわけには……」
「覗かねーから安心しろ」
「べつにそういうんじゃ……!」
あくまで軽い調子で、彼はそんなことを言う。そのうちにも手が動いて、「これ外すぞ?」私の耳に揺れていたピアスを触った。両側からそれが外され、右にだけもうひとつつけていたスタッドピアスから危なげなくキャッチを抜き、それも取り去ってしまう。それらをテーブルに置いた腕時計の輪の中に入れる。ついで髪を寄せられ、つ、と首筋を指が下り、思わず息を詰めるけれど、彼は普段通りの清廉な気配に戻っていた。抱き寄せられるような格好で、器用にネックレスの金具を外す。外したそれを握り込んで、今度は手を取られる。その行動の意図がわかってしまって、思った通り彼が私の指から指輪を抜いた。すべてまとめて、先ほどの輪の中へ。もう一度手を絡めとられて、指の股に彼の指が滑らされる。ぎゅ、と握られたのは他の装身具の確認だっただろうか。
「世話焼きですね」
彼は答えない。手を引かれて少し暖まった室内から廊下へ出て元来た方向へ戻っていく。階段を降り、先ほどは通らなかった方へ進むと磨りガラスの戸を引いた。漂うぬくさと湯の匂いで、湯船が準備されていることを知る。
「化粧落とし? とかそういうのはこの辺に全部揃ってるらしいから好きに使って」
彼は本当によくわかっていないのだろうけれど、指差されたその棚には整然と、クレンジングも洗顔も、化粧水も乳液も、その他いろいろの美容液も、ブランド名をわざわざ読まなくても百貨店で見たことがあるかたちのロゴのそれらが所狭しと並んでいる。全てに使用感があまりなく、しかし当然のように同列に顔を並べているそれらは、女性の出入りが毎日とは言わないけれど頻繁にあるのだろうということを思わせた。余計な考えに思考を割かれているうちにも、タオルはこれ、着替えはあとで持ってくる、等々情報を詰め込まれ、「溺れるなよ?」にやり、と笑った顔に、ここまできたら潔くお湯を借りるしかない。
 広々とした浴室は、ワンルームのお風呂に慣れた身体にはありがたい。温かな湯に身を横たえて、自らの身体が未だに冷えていたことを実感した。ここでもこだわり並べられたボディソープやシャンプーを見比べている時、実は女性もこの家に住んでいるのではないかと思ったけれど、その疑念は扉の外からかけられた声に単簡に打ち砕かれる。
「着替え置いとく。さすがに女物はないけど……こてのなら少しはマシだろう」
あとドライヤーあるから髪洗っても大丈夫、とか、隣の部屋で待ってる、とか、なんとか。再び出て行ったらしい気配に言われてしまえば、もうどうにでもなれという気持ちで頭からお湯を被った。

 下着だけは仕方がないから(用意があっても困惑が増すだけだけれど)着てきたものに腕を通し、用意されていた着替えを拝借する。ぶかぶか、ということはなかったが少し袖と裾が余る。髪を拭いながら化粧水や何かを借りて、しかしドライヤーだけが見当たらない。棚を開けるのはさすがに憚られて、尋ねればいいかと脱衣所の扉をあければ、ちょうど隣にある襖が開いた。
「こっち」
顔を出した豊前さんが手招きをする。畳に炬燵にテレビ。「俺も風呂入ってくる」言うが早いか炬燵に押し込められて、問いかける暇もなく彼は出て行ってしまった。
 小さな音でついたテレビは通販番組しかやっていなくて、それだけで今が深い時間なのだと知る。一通りザッピングする暇も、うつらうつらとする余裕もなく、豊前さんは私と似たようなラフな格好ですぐに戻ってきた。「烏の行水」あまりにも早いので思わず呟くと「よく言われるよ」と笑う。移動するのかと動きかければ、彼は私の後ろをとって炬燵に足を入れた。正面でもなく、隣でもなく、など、もう聞く気にもならない。
「使ってるのはよく見るんだが……どれがなんなのか俺にはわからん」
そう言って、持ってきたらしい籠を私に寄越す。中身は櫛、ドライヤー、トリートメントらしきものが何本か。似たような機能のヘアケア商品がいくつか入っているので、全て別人のものなのか、それとも化粧品マニア一人なのか図りかねるラインナップだ。彼になんとなくかいつまんだ説明をすると、「どれがいいやつ?」と聞かれる。曖昧な質問に、記憶にある商品の価格帯と、そのパッケージの裏に書いてある機能からふたつ選び出せば、彼が受け取ってぱかりと蓋を開ける。匂いの確認らしかった。初めに手に取った方を籠に戻すので、それはお気に召さなかったらしい。それはわかりやすく甘たるい匂いのものだったから、男性が使うには憚ったのかもしれない。背後でそれを手に出したらしい匂いが漂ってくる。籠の中の櫛を借りようと探っていると、後ろから頭の位置を正された。髪の先を引かれる感覚。──世話を焼かれるらしい、とようやく気づいたのは背後から櫛を取り上げられた時だ。トリートメントの水音。ゆるく毛先を引かれる。撫でつけて、梳られて。タオルで緩く拭われる。私は何も言わなかったので、彼は好きなようにやっていた。ドライヤーを扱い、粗方乾いた髪にその音が消えた時、美容師さんみたい、と彼を振り向くと、得意気に笑いながら彼は自らの髪に手をかけた。私の髪に対する手つきが嘘のようにわさわさと乱雑に乾かされていく。いつもきちんと見えている彼の瞳が、長めの前髪に隠されたり晒されたりするのを見届けて、使い終わったお手入れセットたちを籠に戻した。

 濡れたタオルと籠がとられて、炬燵を出る。また冷たい廊下へ逆戻りして部屋まで帰る間に、冷たさが足先から迫ってくる。思わずつめた、と言ったら彼は「悪い」とだけ声を潜めて言って笑った。廊下をたどる道すがら、浴室、居間、台所、手洗い、などとひとつずつ部屋を教えられる。灯りのついたままの彼の部屋に戻るには、ほんの少し遠回りをしたようだった。
 今度こそさて、困ったと思ったけれど、あの特有の雰囲気に彼が姿を変えることもない。眠るための準備を素直にして、手を引かれた時、どうするつもりなのだろうと思う。私は床でも、ソファで寝てもも構わないけれど。しかしなんとなくわかってはいたがどうも部屋の主にそのつもりがないらしく、当然の顔をしてベッドに追い上げられる。それなら彼が別のところで寝るのかといえばそういうわけでもなく、これもまったく当然のように同じ布団に潜り込んだ。電気消すぞ、など、これも当然のように言うので、目覚ましかけますか? などと私も調子を崩さないようなことを言う。彼は笑って、いい、とだけ言った。ピ、とリモコンの、電子的な音。
 暗闇の中で、夜目がすぐに利くはずもない。彼も同じだろうけれど、この近さにいて、何ひとつこちらに働きかけない状況が異様にも思えて、にわかに焦りと緊張が生まれ始める。彼に背を向けるわけにもいかなければ、同じように彼の方を向くわけにもいかず、とりあえず仰向けになっているけれど、普段仰向けに寝ないものだからこれもまた妙な緊張をほぐせない一因となっていた。
 指先を動かすにも気を遣う。早く眠ってしまえばいいのに、冷えた足先が眠りに入ることをさらに阻害した。同じように冷えている手指を撫でさすった時、不意に彼がこちらにごろりと寝返りをうつ。すぐにそちらに視線を動かすこともできずに指先を揉んでいると、しばらくそのままだった彼が「寒い?」とただ一言いつもの声でそう言った。
「足が冷えちゃって」
答えになるようなならないような返答をしてついに彼を見れば、瞳が微かに光を反射して、ぼんやりと赤さが見える。とん、と足先に、おそらく彼の脛が当たった。
「冷たい」
確認するように言われるまま返答を発せずにいると、彼の腕が今度こそ私に伸びた。
「向こう向け」
しかし言われた言葉は予想を違えて、肩に触れた大きな手もやはりそのまま私の向きを変えさせようとするのみだ。されるがまま身体の向きを変える。背に体温が当たって、じんわりとぬくさが占拠した。
「ん」
私の首の下に手を添えられる。少し身を起こすとするりとそこに入り込んで、腕が枕になる。片腕が私の腹に回り込んで引き寄せて、脚の間から彼のそれが絡まった。彼に絡めとられたような格好で動きが止まる。
「これで少しはマシか?」
背後からじわじわと体温が私に移ってくる。そこで初めて、豊前さんの体温は私のものよりも高いのだろうと知った。
「あったかいですね」
年甲斐もなく音を立てる心臓を紛らわすように投げつけた言葉に彼は「よく言われるよ」とこれもまた、彼に含むところなどないのだろうけれど、他人を匂わすようなことを言う。時折腹に当たる手が撫でるように動かされるものの、それ以上、どうにかなる気はないらしい。色男はやることが違うのだ。自分で自分を納得させながら、そこで私は自らの浅ましい期待と再び向き合った。回された腕に手を添えても振り払われることもない。私より幾分も大きな手の指の隙間に私のそれが招かれて、指すらも絡めとられるような格好となっても、その呼気の熱さは執拗に頸椎にただの熱だけを持たせる。熱い。先ほどまでの指先の冷たさが嘘のように発汗する。その熱さは身体を巡って、そのうち意識が半分ほど眠りに浸かった。溶けていく意識の中で身体の力が抜けて、その腕に完全に身を任せてしまった時、身体への拘束が強まった気がしたのだけれど、それが夢であったのか現実であったのか、私にはわからない。

2021.03.14